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【完結】帳簿令嬢の答え合わせ ~その不正、すべて帳簿が覚えています~  作者: Lihito


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55話:同じ目

馬車に揺られて二日。港町への道は前と同じだった。


昨日、トビアスから報告があった。ロッソ商会との定期のやり取りの中で、港町の状況がかなり悪いらしいと。言葉を選んでいたが、トビアスの顔を見れば分かった。書面では伝えきれないものがある、と。


自分の目で見るしかない。


グレンが向かいに座っている。馬車が揺れるたびに剣の鞘が鳴る。


「ロッソ商会以外に、見ておくべき場所はありますか」


「港の市場通りは一回見たい。前に来た時と比べてどうなってるか」


「了解しました」


報告の口調だった。でも、すぐに続けた。


「……前に港町に来た時、潮の匂いがしましたね」


「覚えてるの?」


「はい」


それだけだった。報告でも用件でもない。ただ覚えていた、という話。前ならそういう言葉は出てこなかった。


窓の外を見た。麦畑が流れていく。


「——あの時は、帳簿を追うので精一杯だったわね」


「今は違いますか」


「今は……」


言いかけて、止まった。今は何だ。あの時は一人で数字を追っていた。今は隣に人がいる。それだけのことだ。


「……今は、少しましよ」


グレンが何か言いかけて、やめた。窓の外に目を向けた。耳が少し赤い気がした。気のせいかもしれない。


馬車が揺れた。鞘がまた鳴った。


***


港町が見えてきた。


最初に目に入ったのは看板だった。前は「顔ぶれが違う」と思った。今は顔ぶれという言葉すら合わない。通りの両側に並ぶ屋号の八割が、見覚えのない帝国風の名前だった。


馬車を降りた。潮の匂いは同じだ。でも通りの空気が違う。


人はいる。荷馬車も動いている。でも、声が小さい。前は荷下ろしの怒鳴り声や値切りの笑い声が聞こえた。今は黙って荷物を運んでいる人間が多い。


角を曲がった。前に小さな乾物屋があった場所。看板がない。扉が板で塞がれている。


「……ここ、前に来た時はまだあったわね」


「はい」


グレンも覚えていた。


隣の路地に入った。革製品の店があったはずの場所。同じだ。看板がなく、扉が閉まっている。ただ、こちらは板で塞がれてはいない。鍵がかかっているだけだ。まだ廃業して間もないのかもしれない。


窓から中を覗いた。棚が空になっている。作業台の上に革の端切れが数枚残っていた。片付ける余裕もなく出たのか、片付ける気力がなかったのか。


市場通りに戻った。帝国系の店は開いている。品揃えは悪くない。値札も安い。客もいる。


(活気がないわけじゃない。ただ、金の流れが一方向になっている)


地元の商会が消えて、帝国系が埋めている。売上は立っている。数字だけ見れば問題ない。でも、この町で生まれた金がこの町に残らない構造になっている。


グレンが隣を歩いている。何も言わない。言う必要がない。二人とも同じものを見ている。


***


市場通りの外れに、小さな茶屋があった。看板は地元の名前だ。まだ残っている店の一つ。


中に入った。客は少ない。奥の席に座った。店主らしい女がお茶を持ってきた。五十がらみ。手が荒れている。


「この辺り、ずいぶん変わりましたね」


女が湯飲みを置く手が止まった。


「……お客さん、前にも来たことあるの?」


「半年以上前に。角の乾物屋さんで買い物をしました」


「ああ……。あそこはもう三ヶ月前に閉めたよ」


女が向かいの椅子に腰を下ろした。聞いてほしかったのかもしれない。


「最初はね、帝国の商会が安く売り始めて。客を取られて売上が落ちて。そしたら帝国の方から声がかかったんだよ。融資しますよって」


「……条件は」


「悪くなかったらしいよ。利息も低いし、返せる額だって。最初はね」


女の声が少し落ちた。


「半年くらいで様子が変わってきて。返済が重くなって、でも仕入れ先は帝国系しか選べなくて。気づいた時には抜けられなくなってた」


「それで廃業を」


「全部持っていかれたよ。店も、在庫も。借金のかたにって。息子夫婦が継ぐはずだった店だったんだけどね」


女がお茶を啜った。目が乾いていた。泣く段階はとうに過ぎている。


「隣の革屋さんも同じ?」


「似たようなもんだね。あっちはまだ鍵だけかかってるけど、中身はもう空だよ。取り立てに来た連中が根こそぎ持ってった」


胸の奥が冷たくなった。


知っている。この構造を知っている。仕組みは違う。時代も場所も違う。でも、巻き込まれた人間の目は同じだ。


追い詰められていく時、人はまず怒る。次に焦る。それから諦める。最後に目が乾く。涙が出なくなるのは、悲しくないからじゃない。悲しむ余裕すらなくなったからだ。


前の人生で、同じ目を見た。あの時は仕組みが違った。融資じゃなかった。でも、数字の檻に閉じ込められて出られなくなった人間の目は——同じだった。


あの時、私は気づくのが遅かった。


女が立ち上がった。


「長話しちまったね。お茶、もう一杯淹れようか」


「……いえ、ありがとうございます。十分です」


代金を多めに置いた。女は何も言わずに受け取った。


***


ロッソ商会の看板は、まだあった。


色褪せた文字。でも前と同じ場所にかかっている。それだけで少し息がつけた。


中に入った。棚は整頓されている。在庫は減っている。前より明らかに少ない。


店主が奥から出てきた。四十がらみの男。前より痩せた。目の下の影が濃くなっている。


「アイリス様。——来てくださったんですね」


「トビアスから聞いたわ。直接話した方がいいと思って」


店主が頷いた。奥の事務室に通された。


茶が出た。店主が向かいに座って、少し間を置いた。


「……率直に申します。うちはまだ持ちこたえてますが、周りがほぼ全滅です」


「融資の件?」


「ええ。帝国系の商会から融資を受けた商会が、片っ端から潰れてます。最初の半年は返せる。でも複利と遅延のペナルティが重なって、一年経つ頃には返済額が倍近くになる。それで払えなくなると——」


「店ごと持っていかれる」


「ご存じでしたか」


「さっき、茶屋で聞いた」


店主の顔が歪んだ。


「あの茶屋のおかみさんの息子さんの店もやられましてね。——この港で、帝国系の融資を受けていない地元商会は、うちを入れてもう三軒です」


三軒。前に来た時は、地元の商会がまだ十以上あった。


「ロッソ商会が融資を断れた理由は?」


「アイリス様との取引があったからです。軟膏の卸がある限り、資金繰りは回せる。帝国系に頼る必要がなかった」


「逆に言えば、それがなかったら」


「同じになってたでしょうね」


店主が帳簿を出した。港町全体の商会の増減を、自分なりに記録していた。几帳面な字だ。


帳簿を受け取った。ページをめくる。


半年前、地元商会十五。現在、三。帝国系、二十二。


数字が全部書いてある。融資を受けた時期、廃業した時期、跡地に入った帝国系の名前。ロッソが一人で記録し続けていた。


「……これ、ずっとつけてたの」


「誰かに見せなきゃいけない日が来ると思ってました」


帳簿を閉じた。


この人は、ずっと一人で見ていたのだ。周りが一軒ずつ消えていくのを。記録しながら。


グレンが壁際に立っている。店主の帳簿を見た時、一瞬だけ目を伏せた。


「ロッソさん。今日はここまでにしましょう。明日、もう少し詳しく聞かせてください」


「ええ。——ありがとうございます」


店主が頭を下げた。深く。


***


宿を取った。港が見える小さな部屋。


机の前に座った。ロッソの帳簿の写しを広げた。数字を追おうとして、指が止まった。


茶屋の女の乾いた目。ロッソの痩せた顔。十五が三になった数字。


トビアスから聞いていた。状況が悪い、と。言葉では分かっていた。でも、言葉と目の前の景色は違う。


グレンが部屋の入口に立っていた。


「お茶を買ってきましょうか」


「……お願い」


グレンが出ていった。足音が廊下に消える。


一人になった部屋で、帳簿の数字をもう一度見た。十五が三。十二の商会が消えた。その一つ一つに、さっきの茶屋のおかみさんのような人がいる。


アーレン領では間に合った。三件の融資を肩代わりして、ルールを敷いた。帝国系は出ていった。


でもそれは、自分の領地だったからだ。


この港町では、私はただの旅人でしかない。


グレンが戻ってきた。湯飲みを二つ持っている。一つを机の端に置いた。


「ありがとう」


一口飲んだ。宿の茶だ。いつもの味ではない。でも温かい。


グレンが窓際に立って、自分の湯飲みを持っている。港の灯りが窓の向こうに並んでいる。


「……トビアスから聞いた時は、数字だと思ってた」


声に出していた。独り言のつもりだった。


「数字じゃなかった?」


グレンが返した。報告を求める口調ではなかった。


「数字でもあるわ。十五が三になった。それは事実。でも——」


言葉が見つからなかった。数字は正しい。数字は嘘をつかない。でも、数字だけでは分からないことがある。あの茶屋の女の目は、帳簿には載らない。


「……明日、もう少し見てくる」


「はい」


沈黙が落ちた。嫌な沈黙ではなかった。


窓の外で、港の灯りが一つ消えた。閉店の合図だろう。また一つ消えた。


湯飲みを両手で包んだ。温かい。それだけでいい。


今は、それだけでいい。

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