54話:幕間 塞がれた穴
帝国トレヴィーゾ、通商院。
カールの執務室に、男が一人通された。
大柄だった。商人の身なりだが、肩の張り方に品がない。椅子に座ると革が軋んだ。ゲルツ。アーレン領に配置した駒の一つ。融資の窓口として送り込んだ男だった。
【ゲルツ】
価値:1,100
悪くない。この世界の尺度で言えば、かなり優秀な部類に入る。だからこそ現地に出した。小さな領地で融資の網を張る程度の仕事なら、十分すぎる数字のはずだった。
「報告しろ」
ゲルツが口を開いた。
「——撤退しました」
カールはペンを置かなかった。
「経緯を」
「領主が融資に関する新しいルールを出しました。融資条件の全容開示、利息の上限、返済不能時の保護、抱き合わせの禁止。四つです。領内の全ての融資に適用すると」
四つ。カールの指が止まった。
開示義務。利息制限。債務者保護。抱き合わせ禁止。
一つ一つは単純な規制だ。だが四つ揃えて同時に出すのは、搾取の構造を理解していなければできない。どこを塞げば仕組みが回らなくなるか、分かっている人間の手順だった。
「……続けろ」
「条件を飲めないなら出ていけ、と。こちらは既存の融資先に全額返済を求めましたが、領主が債権を買い取ると」
「額は」
「金貨五百枚弱です」
端金だ。カールにとっても、帝国にとっても。
問題は金額ではない。
前の世界なら、利息制限法、貸金業法、割賦販売法。邪魔な法律だった。あの手の規制がある限り、どれだけ精綻に組んでも利幅に天井がつく。潜り方はいくらでもあったが、潜るたびにコストがかかった。この世界にはそれがなかった。だから三年で七つの国に手を伸ばせた。
その壁が、辺境の一領地に立った。
粗い。穴はある。外には及ばない。だが構造は正しい。正しい構造は模倣される。
「他の領地への波及は」
「今のところ、ありません」
「王都は」
「変化なしです」
ならいい。アーレン領一つが塞がった程度で、計画は揺るがない。王都の融資網はそのまま動いている。港町も予定通りだ。七つの取引先のうち一つが消えただけのことだ。
カールは椅子の背にもたれた。
あの令嬢。名はアイリス・ヴァレンシア。
「その令嬢、お前は直接会っているな。どういう人間だ」
ゲルツが少し考えた。
「……若いです。二十前後かと。娘ですが、余計なことを一切言わない。言葉に全部数字が入っている」
「言葉に数字」
「説明会でもそうでした。反論する隙がない。こちらが『総合的に』と言えば、『四つ全部に引っかかるということですね』と返される。曖昧な言い方が一切通じない」
カールは肘掛けに指を置いた。
これまでは事後処理の人間だと思っていた。循環取引を見つけた。中抜きを暴いた。公金輸送を止めた。全て、こちらが仕掛けた後の話だ。帳簿を辿って不正を拾う能力は認めていた。だが不正を見つけることと、不正が起きない仕組みを作ることは別の話だ。
今回、それをやった。
回りくどいが、論理が正しい。四つの条項はそれぞれが搾取構造の急所を塞いでいる。一つ欠けても穴が残る。四つ揃えて初めて、仕組みが機能しなくなる。
こちらが仕掛ける前に壁を立てた。事後ではなく事前。読むだけではなく、書く側に回った。
ゲルツの力量が足りなかったのか。
1,100。この世界の尺度で言えば、かなり優秀な駒だ。それが四つの条項に一つも対応できなかった。対応できなかったのではなく、対応する隙を与えられなかった。
「お前に融資先の選定を任せたのは、条件が通る相手を見極められると判断したからだ」
ゲルツが身じろぎした。
「開業したばかりの小さな商会を選んだのは悪くない。だが三件とも同じ型の契約を使ったのは手抜きだ。一件でも違う条件を混ぜていれば、四つの条項では括れなかった」
ゲルツの顔が強張った。
「……申し訳ありません」
「結果は変わらなかっただろうがな」
あの領主が契約書を見た時点で、どの道同じだ。条件を変えたところで、構造を読める人間には意味がない。ゲルツの手抜きは事実だが、それが敗因ではない。敗因はもっと手前にある。
あの領地に1,100の駒を一人で置いたこと自体が、見積もりの誤りだった。
「もういい。王都に戻れ」
ゲルツが立ち上がった。安堵の色が見えた。切り捨てられると思っていたのだろう。
カールも立ち上がった。机を回って、ゲルツの前に立った。
「ご苦労だった」
右手を差し出した。ゲルツが一瞬驚いた顔をして、握り返した。
握手は短かった。
ゲルツが手を離した時、わずかに目が揺れた。足元がふらついて、机の角に手をついた。何か言いかけて、口が動かなかった。自分に何が起きたのか分かっていない顔だった。
「……長旅だったんだろう。休め」
ゲルツが一礼して出ていった。廊下に消える背中が、入ってきた時より一回り小さく見えた。
扉が閉まった。
カールは自分の手を見た。何も変わっていない。机に戻り、報告書の束を引き出した。
七つの国と地域。アーレン領の欄に一行書き足した。
「制度導入。融資網は機能停止。切り捨て」
ペンを置いて、隣の欄に目を移した。王都。こちらの数字は順調に膨らんでいる。
あの令嬢は一つの領地を守った。一つの領地しか守れなかった。王都で同じことをやるには、領主権限では足りない。法が要る。法を通すには数が要る。数を揃えるには時間がかかる。
その間に刈り取ればいい。
報告書に目を落とした。王都では今月だけで新たに四件の融資が成立している。返済が始まり、利息が元本を追い始める頃には、あの令嬢が気づいたところでもう金額が違う。
窓の外で、帝国の鐘が午後を告げていた。
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