50話:リンデ商会
午前中の帳簿を閉じて、トビアスを呼んだ。
加工場から来たトビアスは、袖をまくったままだった。軟膏の匂いが微かにする。作業の途中だったのだろう。
「すみません、手が離せなくて少し遅れました」
「いいわ。座って」
トビアスが椅子に座った。グレンが紅茶を三つ持ってきた。トビアスの前にも一つ置く。
帳簿を広げた。軟膏事業の帳簿。出荷量、売上、仕入れコスト、人件費。半年分の数字が並んでいる。
「これ、見てほしいの」
トビアスが帳簿を覗き込んだ。数字を目で追っている。この人は帳簿が読める。最初に来た時、私の帳簿を見て「順当です」と言った人だ。
「出荷量は半年で三倍。売上は四倍。仕入れコストの伸びは二倍以下。利益率が上がっている」
「レムリア草の採取効率が上がったのと、加工ロスが減ったのが効いていますね。リーゼが来てから歩留まりが良くなりました」
自分の成果を淡々と説明する。自慢ではなく、数字の裏付けとして。
「トビアス。あなたに商会を立ててほしい」
トビアスの手が止まった。顔を上げた。
「商会、ですか」
「今の軟膏事業は領地の事業として回している。あなたの給与は月額金貨15枚。でもこの売上なら、独立して利益を取った方がずっと稼げる」
帳簿の数字を指で示した。月の売上。コストを引いた粗利。トビアスの目がその数字を追う。
「領地にもメリットがある。今のままだと取引が広がるほどリスクを全部こちらが負う。商会として独立してくれれば、取引先の開拓はあなたの判断で動ける。こちらは税収が安定する。リスクが分かれる」
「……販路の開拓も、自分の判断で」
「そう。今はヴァルト商会経由の卸が中心だけど、他にも売れる先はあるはず。あなたの軟膏の品質なら」
トビアスが黙った。帳簿の数字を見ている。計算しているのではないと思う。この人はもう数字が読める。計算は終わっている。
「加工場はどうなりますか」
「そのまま使っていい。第二加工場も、稼働したらあなたの商会で運用する形にする。賃料は別途決めましょう」
「リーゼと、今の作業員は」
「あなたの商会の人間になる。条件はあなたが決めていい」
トビアスがまた黙った。今度は少し長かった。
窓の外から、加工場の作業音が聞こえる。トビアスが作った場所。トビアスが育てた人たち。
「……ありがとうございます、アイリス様」
静かな声だった。
「ここに来た時、私は何も持っていませんでした。母の治療費も、リーゼの居場所も、全部人質に取られていた」
知っている。あの日、この人の鑑定値は350だった。能力のある薬師が、350。
「帳簿を開いてくださって、全部見せてくださって。あの時にいただいたものを、今度は自分の手で返せるかもしれません」
返す、という言い方をした。借りではない。もらったものを、自分の仕事で形にしたいという意味だと思う。
「返さなくていいわ。あなたの軟膏が売れれば、税収で勝手に返ってくるから」
トビアスが小さく笑った。穏やかな笑い方。この人はいつもこうだ。
「商会名は決まっていますか」
「いいえ。何か——」
「リンデ商会、はどうかしら」
言ってから、少し余計だったかと思った。名前くらい自分で決めたいだろう。
「リンデ……菩提樹、ですか。薬効のある木ですね」
トビアスが頷いた。
「いい名前です。いただきます」
***
開業の準備は、思ったより早く進んだ。
もともとトビアスは加工技術責任者として事業を回していた。実態はほとんど変わらない。変わるのは帳簿の主体だ。領地の事業ではなく、リンデ商会の事業になる。
セバスが商会設立の届出と税率の設定をまとめた。私は取引条件の整理をした。ヴァルト商会への卸はリンデ商会が直接契約する形に切り替える。ヴァルトへはその旨の書簡を出した。
トビアスとリーゼが、加工場の棚卸しをしている姿を見かけた。二人で在庫を数えながら何か話している。リーゼが帳簿に数字を書き込んでいる。トビアスがそれを確認して頷いている。
(……いい組み合わせね)
開業の日は、静かだった。
加工場の入り口に、看板が掛かった。木の板に、トビアスが自分で文字を彫っていた。「リンデ商会」。几帳面な字。薬師らしく、一画が丁寧だった。
「彫るのは初めてでしたが、まあ、悪くないかと」
トビアスが看板を見上げている。リーゼが隣にいる。作業員たちが後ろに並んでいる。
「最初の取引は」
「今朝、軟膏三十壺をヴァルト商会の便に載せました。リンデ商会名義での初出荷です」
三十壺。数字としては大きくない。でもこれはトビアスの名前で出た最初の荷だ。
「おめでとう、トビアス」
「ありがとうございます」
トビアスが頭を下げた。リーゼも頭を下げた。
看板の文字に午前の光が当たっている。加工場の煙突から煙が上がっている。いつもの光景。でも今日だけ少し違う。
グレンが少し離れた場所に立っていた。腕を組んで、看板を見ている。私がそちらを見たら、小さく頷いた。何も言わない。でも、分かっている。この人はいつもそうだ。言葉にしない。頷く。それで十分。
(……十分なのよ、本当に)
帳簿のことを考えた。リンデ商会の設立に伴って、領地の帳簿を組み替える必要がある。事業の主体が変わるのだから、費目も変わる。税収の計上方法も調整が要る。
やることは多い。でも、いい忙しさだ。
***
その日の夕方、執務室で帳簿の組み替えをやっていた。
軟膏事業の費目を領地会計から切り離して、リンデ商会との取引として立て直す。加工場の賃料、税率、仕入れの流れ。一つずつ書き換えていく。
地味な作業だ。でもこれが一番得意な作業でもある。数字を正しい場所に置き直す。それだけで、物事の見え方が変わる。
ドアがノックされた。
「アイリス様。一つ、報告が」
グレンだった。定時の見回りはもう終わっている時間だ。定時外の報告。
「今日、南の街道から商人が二組来ています。片方は乾物の行商で、ただの通りがかりですが、もう片方が市場通りで店を出したいと言っていました」
「店?」
「常設のようです。布と糸の商いだと。リンデ商会の看板を見て、ここに商会があるなら人の流れがあると判断したようです」
今日掛けたばかりの看板を見て、もう動いている人がいる。
「条件は」
「まだ細かい話はしていません。明日改めて来るとのことです」
報告としては十分だった。詳細は明日確認すればいい。
「分かったわ。ありがとう」
グレンが頷いて、机の端に戻った。壁際ではなく、机の端。この人の定位置。
帳簿に目を落とした。数字の並びに集中しようとした。できている。できているが、横に立っている人の気配が、数字の合間に滑り込んでくる。
(……集中、しなさい)
視線を戻した。看板を見た。でもさっきまで見えていた文字より、少し離れた場所に立っている人の横顔の方が、目に残っている。
ペンを動かした。数字を書いた。書けている。
窓の外が暮れていく。リンデ商会ができた日の終わり。明日は、布と糸の商人の話を聞いて、帳簿の組み替えの続きをやって、ヴァルトへの契約切り替えの書簡を出す。
やることは多い。でも、いい忙しさだ。
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