04. 王妃の矜持
「いいこと?」
わたくしは人差し指をたてた。
その人差し指から僅か握りこぶし一つ分のところにある、委縮しきった画家の目をねめつけながら。
「とにかく急いでいるの。三日あげるわ。仕上げなさい」
「み、みっか」
「文句ある?ファーウェイから伝えさせて、お前が承知した条件と何か違って?」
「いいいいいえ!大番頭様からは大至急の精密画と言付かっておりまして、確かに承っておりますはい!」
「よろしい。まあそのサイズだもの、出来るわよね」
わたくしが目を移した先のカンバスは宮廷に多く飾られてるような、持ち運びに数名を要するようなものではない。
小姓の少年が小脇に抱えても余裕があるような、ごくごく小さなものだった。
手を下げつつ身を起こすと、画家は急ぎ自分の連れてきた弟子なのだろう若者たちに指示を出し始める。
その様子を横目に、わたくしは部屋――――宮廷画室の奥で立ったり座ったりしている勇者たちへ声を掛けた。
「そういうわけだから、みんな、今日はこの人たちの指示に従ってちょうだいね」
「はい、妃殿下」
あれこれと体や腕の位置を画家と弟子たちに調整されながら、勇者が朗らかに返す。元気がよくてよろしい。
ヴィオレットはいつもの通り緊張気味で、ゼニラはちょっと面倒くさそう。カイドウは相変わらず面白がってるのが見て取れた。
画室は壁の一面だけではなく、天井の一部まで贅沢なガラス張りの採光窓になっており、差し込む日差しは新鮮で、鮮やかな空の青の中に浮かぶ白雲は輝いて見える。
「……いい朝だわ。描画日和でしょうね」
描くのはわたくしじゃないけど。
昨晩の一件で下降気味だった自分の機嫌が、すこし上向くのを感じつつわたくしは踵を返す。
ここにいても画家たちが恐縮しきりになるだけなのは解ってるのよ。それに、文化事業として立ち上げる以上面倒だけど会わなきゃいけない人間や書かなきゃいけない書類は山ほどある。
そんなわけもあり、追いかけてくるエディスの足音を聞きながら、いつもの部屋に戻るだけのとは違う順路でわたくしは廊下を進んでいた。
「あのう、妃殿下」
「なに?エディス」
「勇者様方の肖像画ですが……あのように小さくてよろしかったのですか?いえ、お時間が足りないとのご判断だとは重々承知しておりますが」
進みながらも控えめにかけられた声は、なるほどわたくしの『推し活』の先人らしい、良い質問だった。
わたくしは口元が自然と緩むのを感じつつ、廊下の一角に飾られていた何代か前の将軍だとかいう人物画の前で立ち止まった。
「いい質問ね。まず、お前のいう通りこんな大仰なものを描かせる時間がないのもあるけど、あの肖像画はね、基礎となるのよ」
「基礎、ですか?」
人物画から首を傾げたエディスへ視線を移し、わたくしは頷く。
「そうよ。あの精密に描かせた肖像画をもとに、活版印刷用の図画を起こさせて、そうして印刷、彩色させた姿絵と一緒に、勇者の冒険譚を描いた絵本を作らせるの。その二つを同時に売り出すのよ!」
「!!わぁあ……!す、素晴らしいです妃殿下!そこまで見越されてのあのサイズだったんですね!」
「ええ、そうよ」
吹き抜けから差し込む朝日のもと、エディスの目がきらきらと輝く。
わたくしはますます上機嫌に――――なりたいところだったが、絵本のことを口にしたとき同時に昨晩の件が思い出されて少なからず複雑な思いにもなった。
昨日の晩、国王陛下御自らが主催する晩餐会に勇者一行を招待されたのまではよかった。しかし陛下ことあの男はその場で、わたくしを救った褒賞として支度金の増額と、彼ら自身が希望する装備の新調費用を王家が賄う代わりに、誰も王城であったことを口外しないとわたくしを含め勇者一行に約束させたのである。
ようは褒賞という名の、体のいい口止め料じゃないの!と頭に過ぎってもまさかそのまま口に出すわけにもいかず。おまけに勇者があの元気なお返事であっさり了承してしまったものだから、わたくしは公表予定だった彼らの功績リストから、大事な一部を削除するほかなかった。
自室へ戻り次第クッションにパンチを叩き込んだわたくしを、王城の警備不備が表沙汰になるのはさすがにまずい、とエディスが宥めてくれなかったら、きっと悔しさで眠れなかっただろう。
それに一応、一応ではあるが、支度金の増額と装備の新調。これはわたくしが最初に提案したものとほぼ合致している。だからこそ悔しかったのもあるが。
一晩たったいまでも、してやられた、の気持ちの方がやっぱり強い。
……いけない。この気持ちに囚われていては、この後の事業準備に差し支えるわ。気持ちを入れ替えよう。
エディスへ聞こえないように注意しながら、すーはーと呼吸を深くする。
うん。これでいい。丁度通り過ぎた吹き抜けの中庭、緑の残り香が気持ちをさわやかにしてくれた。
いつもとは違う角を曲がれば中庭に面した回廊も終わり、再び城の深部へとつま先が向かう。目映い朝日が途切れて、一瞬廊下と回廊の明るさの差異で一際暗さを感じた時だった。
「だからさァ!」
よく言えば気取らない、悪く言えばかしましい声が耳についたのは。
もう一つの角を曲がりかけた足は無意識のうちに止まっていた。その声は、それは、もう長い間聞いていなかったもの。
この城に放り込まれて間もない、思い出したくもない記憶を呼び起こす響きだったから。
「妃殿下のお部屋前を掃除する子が見たって言ってたのよ!殿下がブルーのドレスで着飾って、勇者様を部屋にいれたってとこ!」
「ほんと?じゃああの、妃殿下が勇者様に入れあげてるって話もホントなわけ?それってまずくない?」
「無理もないでしょ。勇者様っていったってとっぽい感じの男の子だったわよ。妃殿下とも同じ年ごろぐらいで――だって陛下は、ねえ?」
「つまり陛下に相手にされない子供同士で熱が上がっちゃってんのね!青いわねえ」
「それじゃ、アレよね。勇者様に美人を近づけたくなくて侍女下女全員クビにして、ぱっとしない侍女一人だけつけてるってのもホントかもねえ」
「いやだ、そこまで熱くなっちゃってんの?」
子供のころは――元乳母のアンが目を光らせてる間だけすまし顔の下女たちが、彼女がいなくなった途端ぺちゃくちゃお喋りしだすのを聞いてるだけだった。
さすがに面と向かってではないけれど、部屋の隅からでも机に向かってるわたくしにはちゃんと聞こえてたわ。
単語の意味がわからなくても、それが品のない好奇に塗れたもので、自分をよく言ってるわけじゃないってことぐらいは解ってた。
『お可哀想よねえ、あんなに小さいのに』
『陛下と並んだところみた?腰ぐらいまでしかなかったわよ』
『変わって差し上げたいわぁ、ほんと』
『いやだ、あんたは陛下と御一緒したいだけでしょ』
『あははは……』
あの時のわたくしは――――そう、あの時のわたくしは、それを聞いているしかなかったわ。
けれど、いまは違う。
すぐそばのエディスの顔が強張ってるのにあえて気づかないふりで、わたくしはそこへ踏み込んだ。八年前は背を向けるしかできなかったそこへ。
見えたのは、大理石の床を磨きながらこちらに背を向けておしゃべりに興じている三人の下女と、気まずそうに窓を拭いている一人の下女。
当然とでもいうべきか、靴音高く近づくわたくしへ最初に気づいたのは窓ふきの下女だった。
途端に青ざめたそばかす顔を一瞥し、それからほとんど間を置かず、靴音に気づいておしゃべりをやめた下女たちが慌ててこちらを振り返った。
けれどそこにいたのが、侍従でも騎士でも廷臣でもなく――話のタネ本人だったとは思わなかったみたいね。
間抜けに開いた唇が、見る見るうちに青ざめて震えだすのを、わたくしは我ながら冷めた目で見ていたわ。
「立ちなさい」
わたくしは端的に命じた。下女たちは雑巾を藁のように握りしめたまま、そろそろと立ち上がる。七月も終わりの暑さの中で、よくもまあそこまでというほど震えたまま。
「そこのお前」
「は、はい」
わたくしが何も言わずとも、もとから立ったままだった窓ふきの下女へ目線だけを向ける。
「鞭を持ってきなさい。それが終わったら侍従長を呼んでくるの」
はい、と上ずった返事のあと、小走りに駆け出した足音が遠ざかる。
背中を見送るなんてことはせず、わたくしは居並ぶ三名に視線を戻していた。
これから何が起こるか、おおよその見当はついたでしょうけど。想像だけで終わってくれるなんて、もちろん考えてないでしょうね?
「お前たちはずいぶんわたくしのことに詳しいようだからたずねるけど、わたくしと勇者たちにどんなことがあったかも、無論知っているのよね?」
わたくしの声に温度はない。
下女たちの顔色は青を通り越して蒼白に近かった。互いに目線を交わしながら、誰かが口を開くのを待っているような間があった。
そんな時間稼ぎ許すと思ってるなら、本当、舐められたものね。
「答えなさい」
「ッ……ご、ございま、せん……」
「なにが」
「で、殿下と、勇者様の、その……お関わり、は……」
あら、そう。
「そう。ならお前たちは根拠もない噂を、それも主人を侮辱するようなものを、誰が聞いてるかもわからない廊下でかしましく喋っていたということね――全員歯を食いしばりなさい」
言い終えるなりわたくしの足が、振りかぶった腕が、動く。そして空気の破裂するような音が三発。
指輪が一つ少ない右手でやったのはお情けよ。有り難く思うことね。
わたくしは右手の指先から肘を駆け上る、じんとした痺れを感じつつ、平手打ちを浴びせた下女たちを睥睨した。
もう涙目になるぐらいなら、その戦慄く唇を閉じていればよかったのよ。
それにもちろん、この程度で終わらせるつもりは毛頭ない。
「あ、あの……妃殿下、鞭をお持ちしました」
ちょうどいいタイミングね。息を切らせた窓ふき下女の差し出す懲罰用のそれを、わたくしは冷めた目のまま取り上げる。
もう一つの言いつけを忘れてなかったらしい下女は、すぐに頭を下げて再び走り去る。
さて。
細いなめし皮を編み込んだ持ち手。柳の小枝のような先が空を切ると、それだけで鋭い音がした。
こんなものを使う日が来るなんて、あの頃のわたくしには、いや、王妃の殻を被っていたほんの数日前のわたくしですら思いもよらなかっただろう。
だが、いまわたくしの胸中には怒りの念が激しい焔となって燃え上がっていた。
まるで長年の埋火がついに爆発したかのような、一歩間違えれば暴発しそうになるそれを、わたくしは細い呼吸で胸の奥深くへと押し込めていく。消しはしない。決して。
ようやく手に入れた『推し』への気持ちを、わたくしの王妃としての矜持を、感情だけに振り回されてたまるものですか。
「全員、手を出しなさい」
「ひ、妃殿、下……」
わたくしの目がまた一段階温度を下げたのを見てとったのか、握りしめていた雑巾を床に落とす音が三つ。
水を扱う仕事で整ってるとは言い難い手のひらが六つ、こちらへと恐る恐る差し出される。
「主人を侮辱した罰。主人の恩人を侮辱した罰。そして卑しい下女の分際で、わたくしの侍女を侮辱した罰――三人三回が妥当だけど、わたくしの手は忙しいの。一回に三回分をこめるから感謝なさい」
宣告は十分にした。わたくしは背後から近づいてくる無数の足音を聞きながら、かまわず腕を振り上げる。
空気を切り、そして震わせる独特の張り詰めた音が三回、廊下に響いた。
鞭の一撃は切るのとも擦れるのとも違うけれど、神経を直撃するような痛みがあるという。見る間に薄皮が破れ赤く腫れ上がる手のひらを眺めながら、わたくしは手を下ろした。
「ぁ、うう……ッ」
それをなんだと思ったのか、下女の一人が呻きめいた泣き声を上げつつ床にへたりこむ。
「誰が座っていいと――」
「――そこまでに。妃殿下」
近づいていた足音はいつの間にか止んでいた。
その代わりに弾んだ呼吸音がいくつかと、わたくしの背中へかけられた場違いに穏やかな声。
「事情は伺っております」
振り返ると、そこには肩で息をする侍従長と下女、そして声の通り穏やかな、といっても眉を下げて苦笑めいた表情の宰相がいた。
侍従長だけでよかったのに、とんだ邪魔が入ったわね。
「そう。なら聞くけど、夫が城内の出来事に箝口令を敷いたのに、妻であるわたくしが出来ないのはおかしなことよね?」
「仰る通りです」
宰相が頷くと、モノクルに繋がれた華奢なチェーンが涼しい音をたてる。
「ですがいまは、御手の手当を。勇者殿ご一行の僧侶殿へ、癒しを求めましょう」
「だめよ!」
気づいた時にはもう口に出ていた。
「こんな下らないことにあの子の大事な力を使わせないでちょうだい」
宰相は表情を変えぬまま、わたくしの答えが解っていたかのように口を閉じている。彼の静けさを前にしていると、指摘された右手がいまさら痛みを訴えだした。
鞭を扱うのは玄人でも負担がかかると聞いたことがある。力任せだったわたくしの手はどうなってることだろう。
でもそんなことより、いまは大事なことがある。
「部屋に戻るから侍医をよこして。それと勇者たちの耳に、このことも噂も、絶対入らないようにして!」
「御意に、妃殿下」
「行くわよ、エディス」
「は、はい!」
宰相の胸元へ役目を終えた鞭を押し付け、最後の命令を下すとわたくしは歩き出した。半端に手を出したままの下女たちは無視し、傍らを通り過ぎる。
放っておいても、宰相と侍従長がいるなら、あとは相応の処分が下されるだろう。
わたくしは行くはずだった内務大臣の執務室への順路を外れ、結局いつもの通り、自身の部屋へ戻っていった。
そうして歩いている間にも、握りしめた右手が腫れ上がり、熱を帯びるのを感じながら。
●
雲間に隠れていた朝日が、再び顔を出し始めた。下女たちはその明るさに照らされ、いまなお震えながらも冷酷な王妃から解放されたことにようやく安堵の息を吐き、全員がその場にへたり込んだ。
王妃を見送る若き宰相はその辣腕を振るいながらも、寛大かつ温厚なことで知られている。
たったいま王妃の横暴を止めてくれたように、自分たちを赦してくれるだろう。
そう思っていた。
顔を上げた一人が、ひゅ、と息を呑むまでは。
「……ぁ……あの、宰相、閣下」
残る二人もまた、顔を上げ、そして混乱した。
朝日を反射したモノクルの無機質な煌めきと同じく、宰相の切れ長の瞳が無感動に自分たちを見下ろしていたのである。
鞭を手にしたあの王妃とはまた別の、底冷えするような冷徹さがそこにはあった。
その薄い唇から、小さな溜息が漏れる。
「侍従長、沈黙は使用人の美徳。そうですね?」
「仰る通りで……誠、申し訳なく……!」
「では、彼女たちに城勤めは早かったようです」
『!!』
下女たちの背筋に冷たいものが走った。その言葉の意味するところを察せないほど、彼女たちの勤めは短くはなかった。
「沈黙の誓約書を書かせて全員家に帰しなさい。紹介状は付けないように」
「畏まりました、宰相閣下」
「妃殿下の侍医は私が手配します。そちらの手配を優先なさい」
それは使用人という職務に対する、死刑宣告同然の言葉だった。
沈黙の誓約書とは、解雇の際に何があったのかを一切口外しないと王家に誓うものであり、反したなら極刑もありうる機密保持の書類である。これを書かされたうえで紹介状もなしというのは、自力で新たな職場を探そうとしても「口にできないようなことを仕出かして城を追い出された」という烙印を押された状態に等しい。
この時代、そんな人間を雇ってくれる貴族や商家など、まずまともなところは望めなかった。
お慈悲を、と泣き叫ぶ下女たちの声が廊下にこだまする。
しかしそれを向けられた人物は、もはや彼女らを一顧だにせず歩み去っていった。
「お待たせいたしました」
「珍しいな……――――何があった?」
騎士が守る重厚な扉を潜り、より高く上った日の光が差す部屋へと入る。そこでトリスタンはようやく一息つけるという表情を隠しもせず、部屋の主へ詫びながらモノクルの位置を直した。
これまで出仕時間に遅れたことなどない彼へ目を向けたエゼルレッドは、その手に似つかわしくない物騒な品物があるのを見て片眉を上げた。
「アクシデントが少々」
「……まさか」
「お察しの通り、妃殿下についてです」
トリスタンは手にした鞭を執務机の傍らに置いた。エゼルレッドはその持ち手に真新しい痕を見つけ、眉間の皺を深くする。
「城内に勇者殿と妃殿下について好ましくない噂が流れており、それに興じていた下女を妃殿下が処罰されました。御手を怪我されていたので、侍医を向かわせています」
「また勇者か……」
溜息に疲労ともつかない苦さを滲ませて、エゼルレッドはその眉間の谷間をもみ込んだ。
その様子に眉を下げ、小首を傾けたトリスタンの肩口を、黒髪が滑り落ちていく。
「他人事ではありませんよ。陛下」
「なに?」
「噂の内容は……口にするのもはばかられますが、妃殿下の行動は陛下が殿下に無関心ゆえだ、と示唆するものでした」
「……!」
思わず手を浮かせたエゼルレッドが、傍らにやってきた自身の右腕を見上げる。
日に照らされた彼の顔はいつもの通り穏やかで、しかしどこか有無を言わせない空気を纏っていた。
「無論、我ら家臣は陛下の妃殿下に対するお気遣いを存じております。しかしながら陛下。最後に殿下と私的な会話をなさったのはいつですか?」
「……見舞いに行った」
「ああ、勇者殿への褒章はご自分に任せるように、とお話になったというアレですね。それは王と王妃の業務連絡というのです」
「ぐっ……」
容赦のない一撃がエゼルレッドを呻かせる。
それでもトリスタンは追及の手を緩めず、畳みかけるようにこう続けた。
「王と王妃ではなく――――エゼルレッド様とベルグリンデ様としてお話されていますか?陛下」
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