30. 王の断罪
五月の末日、その日の朝早くからイノケンティウスとその側近たちは登城していたが、謁見を許されたのは正午を迎える頃だった。
謁見の間の薔薇窓から指す光が、玉座の形に切り取られて絨毯上のイノケンティウスらに降り注ぐ。
イノケンティウスは長時間待たされたのもこの目映さを使うためだろうと考えていた。
所詮三〇いくつの若輩者が考える浅知恵だと、そう考えてすらいた。
だが――――
「まず問おう、西方神殿長イノケンティウス」
重厚な声が謁見の間に反響する。玉座から振り下ろされたその声は、久しく感じていない王者の圧というものを、彼に思い出させていた。
「この出頭命令に心当たりはあるか」
「全く以って、ございません。国王陛下」
それでも、イノケンティウスにとってすべきことは変わらない。
彼は背筋を正し、逆光の中にある国王エゼルレッドの顔を真っ向から見据えた。
それが例え虚勢だと、エゼルレッドに見抜かれていても、である。
「そもそも――――」
「では清めの泉という水行場へ我が王妃に入るよう要求したのは貴様か」
神殿は国王の命令に従う立場にない、と教導せんとした声はエゼルレッドの声に退けられた。
イノケンティウスの口は薄く開いたまま固まり、その目が一瞬国王の傍らの席へ向けられる。
王妃ベルグリンデは、まるで人形めいた無表情でイノケンティウスらを見下ろしていた。
「要求したと申し上げるよりも、私は妃殿下の御身の潔白を証明するために……」
「『はい』か『いいえ』で答えろ。貴様の考えは聞いていない。行動を糺している」
影の中から放たれるエゼルレッドの声は冷徹かつ、容赦がなかった。
イノケンティウスが心の支えとしていた『邪説を蔓延らせた元首を戒める機会』という信念すら断ち切らんばかりのその言葉に、イノケンティウスは我知らず生唾を呑み込んでいた。
「……はい」
「貴様ら神殿が王城から独立し命を受ける立場にないというならば、王城とてそれは同じこと。王妃が何故貴様の要求に従ったか解るか?」
「そ、それは……はい!ご自身の潔白を――」
「違う」
エゼルレッドの声が一層冷える。
一方、殺気が滲み出したその傍らに座り、そして問答の中心人物でありながらなお、王妃は一言も発さない。
再度発言を断ち切られたイノケンティウスは、その声に感じた殺気めいたものへ表情を強張らせる。
「断じて違う。我が妻は己可愛さのために雪解け水へ身をさらしたのではない」
冷気じみたその殺気は玉座を下り、イノケンティウスらを取り巻き始めていた。
硬直する自分たちの指導者を前に、趨勢を悟った側近たちの顔色も徐々に青ざめていく。
またその殺気を感じ取っていたのは彼らだけではない。謁見の間の両脇に控える廷臣や城付きの神官らも、普段淡々としながらも決して冷徹ではなかった国王の変貌に驚愕しつつあった。国家に臣従していない神殿の長を如何様に裁くというのか。その一点を注視していた彼らにとって、今の国王はまるで別人のようだった。
「不安を煽られ分断された民の心を、今一度一つに団結させるため身を挺したのだ――その結果、我らの未来が、尊い命が一つ喪われた」
その言葉に、これまで微動だにしなかったベルグリンデの目と手が動き、己の腹部をそっと撫ぜた。伏し目がちになった彼女の姿を見、イノケンティウスはようやくこの場が己のための舞台ではないことに気づき始めていた。握りしめた拳の指先から、血の気が引いていく。
それは我らの預かり知るところではなかったと主張すべきだと脳内が警鐘を鳴らしていても、それ以上の本能的な恐怖――そう、恐怖がイノケンティウスを束縛しつつあった。
「民の分断を煽ったのは何者か……?」
エゼルレッドが静かに立ち上がった。
「我が妻に邪説の徒などと濡れ衣を着せ、我が子を雪解け水へ追いやり殺したのは何者か?」
マントが翻り、微かな衣擦れの音をたてる。それすらも聞こえる。
「一体その者には如何様な権限があったというのか?」
一歩、また一歩とエゼルレッドが、国王が階段を下ってくる。薔薇窓から差し込む光の逆光の中、彼の鍛え上げられた肉体が鎧などなくともなお黒々とした巨大な影となってイノケンティウスらに迫ってくる。
しかし目前まで迫った段階で、エゼルレッドの顔は唐突に向きを変えた。
「神官長!」
「はい」
「民の間に広がる『邪説』に心当たりはあるか」
謁見の間、イノケンティウスらから見て右手脇に控えていたヨハネスが進み出る。咄嗟にヨハネスを縋る目で見てしまったイノケンティウスらだったが、間を置かずにヨハネスが口にした「ございません」という端的な返答に目を見開いた。
「古来よりの教義に則った、邪神と世界の戦を再解釈する向きはございますが、これは教義との矛盾がございません」
「神官長殿!なにをっ……」
堪え切れずにイノケンティウスが声を上げた。
それでもヨハネスの視線は一瞥もよこされることなく、ただ淡々と言葉が紡がれていく。
「七つの神殿のうち南方、北東、北方、南西の四神殿から同様の回答を得ております。北西、西方、東方からは回答が届いておりません」
事務的で、この上なく明瞭な報告だった。イノケンティウスの肩がわなわなと震え出す。西方――――自身の神殿からすらも『邪説』に対する回答がないというのはどういうことか。
この時、イノケンティウスは完全に失念していた。「長くはいられない」と口にしながら、実に三か月近く王都に留まり続けたという事実を。それが勢力の変動に十分な時間であるということを。
そう、今まさに報告をしているヨハネスのような神官が、西方神殿にも属している可能性というものを。
「つまり、過半数の神殿が『邪説などはない』と認めたのだな」
「はい」
「回答のないものは我らに判断を委ねたと断ずるがどうか」
「問題はないものと存じます」
「は、…ッな……ッ」
イノケンティウスの乾いた喉からは、もはや言葉の形をした音が出てこなかった。
ゆっくりと振り返ったエゼルレッドの氷のような視線に射抜かれ、完全に立ちすくむイノケンティウスを、エゼルレッドの言葉が追い立てていく。
「ではあらためて貴様に問おう。邪説とはなにか。その根拠はどこにある」
「そ、れは……」
「貴様は日々説法を繰り返し、我らの世界の裏側には悪しかいないと喧伝していたそうだな。これは各神殿の判断に反するものではないのか」
「それは――――いいえ!いいえ、私は教えに反することなど決して……!」
「神殿の教えとは貴様一人で形作られるものではない。その結果がこの回答群と解らないか?」
「それは……それ、そ………」
言葉が続かず、ついにイノケンティウスががくりと片膝をついた。その戦慄く唇からはぶつぶつと「魔族は悪」「瘴気を生む」「魔界には魔族しかいない」「悪しかいない……」などという言葉が漏れていたが、神殿長、とその肩へ側近らが触れようとした途端、弾かれたように顔を上げた。
「そう、悪しかいないのです!そしてその悪を正すのが我らであり、ゆえに正義は我らにあるのです!」
「それは貴様個人の見解だ」
それすらも、エゼルレッドの振るう刃が両断していく。
「王都の聖堂で声高に説くに相応しくはない、民の不安を煽り我が身可愛さに自らを正当化する――――まさに『邪説』だ」
エゼルレッドはその宣告を最後に、片手を挙げた。その瞬間、謁見の間の両脇に控えていた騎士らがイノケンティウスらを取り囲み、そのうち二人の騎士の手によって『邪説』と断じられ硬直していたイノケンティウスのみが拘束される。
絨毯に叩きつけられた衝撃で我に返ったイノケンティウスは「何をする」「放せ」と口角から泡を飛ばして喚いていたが、それを見下ろすエゼルレッドは眉ひとつ動かしてはいなかった。
「民に邪説を説き、王妃に濡れ衣を着せ、我が子を殺した罪を贖え。貴様の愛する過去と共にな」
ただ淡々と、告げるべきを告げたとばかりに、その手を下ろした。
「連れていけ」
「こんなッ馬鹿な!!私が、そんなッ悪は魔族――――魔族がァア……!!」
引きずられながらそれでも喚き続けていたイノケンティウスの声が、扉の向こうへと断ち切られる。
エゼルレッドはその場に残され、騎士に囲まれ震えている側近らに淡々と告げた。
「西方神殿より回答を得るまで投獄する。自らの長を尊ぶなら早急にこれらの罪を如何様に裁くのか問い、我らに知らせよ」
騎士たちが両脇に退き、扉までの道ができるや否や、何度も頷いた側近らはその向こうへ自分たちの指導者が連れ去られたのも忘れたように、足早――というよりも逃げるよう――に退出していった。
他方、事の推移を固唾をのんで見守っていた廷臣たちは、目の前で繰り広げられた断罪劇に動揺を隠せないでいた。即位から一〇年、エリネッド家らの後ろ盾と戦の功績のみで地盤を固めていったと、表向きはどうあれ裏ではまだそう見る向きが強かった『薄氷の王』が、この場で下した鉄槌は正に『白き熊の王』と呼ぶに相応しいものだったからだ。
そのざわめきも、エゼルレッドがマントを翻した音で水を打ったように静けさを取り戻す。
彼らに背を向けたこの場の王者が見つめる先は、自身の玉座の傍ら。
そこには、先ほどまでの凍りついたような無表情とは違い、どこか穏やかな顔で静かに頷いて見せるベルグリンデがいた。そんな彼女に対し、エゼルレッドもまた寂寥を滲ませながらも穏やかさを取り戻した顔で頷き返すのだった。
後日、王城には西方神殿から『今回の件は神殿長の独断であり神殿は一切関与していない。しかし道義的責任に則り、イノケンティウスの一切の権限を剥奪し、後の裁きは中つ国の法に任せる』という旨の回答状が届けられた。
「……なんて澄ました内容がお届けされたものとお見受けしますが、内部で『相当な騒動』があり、権力均衡が完全に崩れて穏健派が巻き返したようでございます。そんなバカにかまってられるか好きにしてくれ……というのが本音、でございましょうね」
王妃の私室にて、ティーカップを掲げつつ自身の伝手で得た内部事情を暴露しているのは、当然のように御用商人のファーウェイである。
「勝手なものだな……」
エゼルレッドはこめかみに青筋が浮かぶのを止められなかったが、傍らの妻が彼の手の甲へ自身の手を重ねたことで、すぐ落ち着きを取り戻した。
その様子を確かめてから、ベルグリンデは澄ました顔のファーウェイへ振り返る。
「なんにせよ――――よくやってくれたわね、ファーウェイ」
「およしください殿下。いつもの通り、わたくしどもはちょいと西方で『商売』させていただいただけでして……情報も商品ってことで」
いつもの軽薄なノリで片眼を瞑って見せたファーウェイに、ベルグリンデがくすりと笑みをこぼす。
「神殿長、いや元神殿長の説法こそが『邪説』だったという噂も順調に広がっております。まったく世の中というものはコロコロ転がって忙しいものです」
「……けれど、これでまた一歩、未来に近づけるわ」
世間を皮肉るファーウェイに笑いながらも、ベルグリンデは無意識のうちに腹部を撫でていた。ファーウェイもまた、唇の片端をあげて微かに笑って見せる。
「たとえ勇者たちが魔王を連れて帰ったとしても、彼らを同胞として迎え入れる、祝福を贈れる。そんな、未来へ……」
微笑みながらも、その眦に浮かんだ光るものを、彼女のそれとは違う太い指先が静かに拭っていく。
顔を上げたベルグリンデは、そこへ共に未来を約束した夫の笑みを見出した。
涙を拭った手を静かに下げたエゼルレッドは、その手を今繋いでいる妻の手に重ね、包み込むように握った。
そんな二人の様子を見たファーウェイはカップの中身を飲み干すと「……それでは、わたくしめはそろそろ」と辞去の礼を取り、退出していく。
ハンカチで目元を拭っていたエディスもまた「新しいお茶をご用意しますね!」と扉の向こうへ立ち去った。
「――――陛下」
「いまは二人きりだ、ベル」
「……あなた」
「ああ」
二人の手が重なり合う。静かな私室の中で、しばし窓の外から差し込む明るさだけが移ろっていた。初夏を迎えつつある空は白雲が過ぎ去り、顔を出した陽の光が燦々と降り注ぐ。
「もうすぐ、六月ですわ」
「……そうだな」
六月はエゼルレッドの誕生月だ。エゼルレッド自身には、また今年も一つ歳重ねるのかという以外の感慨のない日だった。昨年までは。
愛する者から誕生を祝福される喜び。それを知ったいまとなっては、その日を心待ちにするという人々の気持ちも解るような気がしている。それを与えてやりたかった存在を喪ったという、痛みと共に。
「ほしいものはございますか?」
「それを聞くのは――……悪手じゃないか?」
昨年の妻の誕生日前、そう自分が口にしたせいで起きた騒動――しかしそれによってより思いを深め合うことができた――を思い出したエゼルレッドの口元が、若干の苦みを帯びて笑う。
夫の反応を読んでいたように、ベルグリンデの口元が意味深に笑みを深めた。
「あの時のわたくしの気持ちが、すこしでも伝わったなら幸いです」
「ベル……」
眉尻を下げた夫の姿に、くすくすとベルグリンデが笑う。
「冗談です。今年も楽しみにしていてくださいね」
「ああ」
流行り廃りに疎い自分でも解るような、きっと素晴らしいなにかを贈ってくれることだろう。
そう思ったエゼルレッドが、ふと笑みをこぼしているベルグリンデの耳元に唇を寄せた。
「……もう一つの願いごとが叶うなら、君との時間がほしい」
「!」
不意のそれにぱっと頬を赤らめたベルグリンデへ、今度はエゼルレッドがくつくつと笑みをこぼす番だった。
唸るような声をこぼしつつ、それでも重ねた手を振り払わないベルグリンデが、すぐ横にある夫の顔を睨む。
「…………夜通しボードゲームでも致しましょうか?陛下」
「それも悪くないが、盤面を睨むより俺のことを見ていてほしい。王妃」
「またそんなことを仰って……ファーウェイの影響ですか?」
出入りを制限させようかしら、などとぶつくさ続けるベルグリンデの耳元で、またエゼルレッドが囁く。
「そう、そうやって、敬語をなくした君と過ごしたい」
「え……」
「前から思ってた。君は、本当はもっと奔放だろう?」
いや、行動では十分すぎるほど伝わっていたんだが、と続ける夫の思いがけなさすぎる願いに、ベルグリンデは目を瞬かせた。
そんな妻の額へ自分のそれを合わせて、祈るように、窺うようにエゼルレッドが尋ねる。
「だめか?」
「だ、だめかと仰られても……そんな、そんなすぐには」
「ああ、誕生日まではまだ十分ある」
「そ、そういうことを申し上げてるわけでは、なくてですね……」
いつにないしどろもどろな妻の落ち着きを無くした瞳に、エゼルレッドは笑みを深める。そっと抜き取った片手を彼女の後頭部へと回し、その髪を撫ぜながら。
「もう決めた」
「エゼルレッド……!」
「そう、そんな風にいつも呼んでほしい」
「いつもは無理ですと、毎回申し上げてっ――――」
とうとう頬を膨らませんばかりに拗ねた表情になったベルグリンデの言葉が不意に途切れる。
途切れさせた犯人は、彼女の唇を覆ったそれを少し離すと、吐息すら交じり合う距離であらためて問いかけた。
「……本当に、だめか?」
「そ、そんな風にするから、だめなんです、あなたは……!」
一体どこでそんなやり方を覚えたのだと、むしろ自分の方が追及したい気持ちになりながらも、ベルグリンデは二度目、三度目の口づけを拒み通すことができず、結局長椅子のクッションへその背中を預けることになる。
窓の外では陽の光を浴びたガーデニアの花が、その白いつぼみを膨らませつつあった。
けれど長椅子の上の二人は、いま、互いの姿しか目に映っていなかった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
下の☆☆☆☆☆から評価をいただけますと大変励みになります。ぜひお願いいたします!




