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勇者は王妃の『推し』ですわ!  作者: gen.
第三章

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29/43

29. 王の帰還





「伝令――――!!」


 北方の演習地に選ばれた丘陵地帯は、その日も快晴が続いていた。

 その青空を貫くようなラッパの音が響き、本陣で大元帥らと地図を囲んでいたエゼルレッドは何事かと顔を上げる。

 彼の薄青い目は、その伝令兵が掲げる旗――――グウィンアルト王家の紋章に、一瞬見開かれた。

 大元帥らもそれは同じで「陛下」という声と共に、机の上が片付けられていく。

 エゼルレッドはといえばその声を待たず、既に歩き出していた。

 伝令兵の乗った馬は主が下りるのとほぼ同時に倒れ込み、荒い鼻息を漏らしている。その毛並みもまた、汗に濡れそぼっていた。

 エゼルレッドは一見すると常の無表情のまま、そちらへ向かう。


「で、伝令!エゼルレッド国王陛下に、火急の」

「聞こう」


 馬の巨体に押しつぶされかけた伝令兵はバランスを崩してその場に転げながらも、何とか起き上がって役目を果たそうとした。

 土塗れになった顔を上げたとき、逆光の中にその人物はいた。

 顔はよく見えなかったが、風に翻るそのマント――――王家の紋章が刺繍されたそれが、自分の目指していた人物だと気づいた伝令兵は跳ね起き、懐の筒を鎖から外して、震える手で献上した。


「こ、こちらをお届けするようにと」


 誰から、という問いかけはなかった。

 無言のままその筒を受け取ったエゼルレッドが筒を捻ると、小さな摩擦音と共に栓が外れ中から小さな巻紙が出てくる。

 それを太い指で苦も無く広げたエゼルレッドの目は今度こそ大きく見開かれ、その指は彫像のように動かなくなった。


「…………陛下……?」


 護衛騎士の一人、長年王の供をしてきた第一騎士団の団員が声をかける。

 その声で我に返ったのかは定かではないが、俄かにエゼルレッドの手はその巻紙を筒に戻したかと思うと、再び栓をした。


「よく休め」


 その言葉に平伏する伝令兵や、当惑する護衛騎士たちに一瞥をくれることもなく踵を返したエゼルレッドが、卓を囲んだままこちらを見守っていた大元帥らの方へと向かう。


「――――陛下、城からの報せとは……」

「…………」


 しかし卓に着いても無言であったエゼルレッドへ、大元帥が聞くべき問いを投げかけた。王家からの報せとあれば、場合によっては演習を短縮、あるいは中止せざるをえないからだ。

 それでもなお、その目元の影を濃くしながらしばしの無言を貫いていたエゼルレッドは、唐突に立ち上がった。


「王室存続に関わる事態が起きた。私は城へ帰還する」

「なんと……!」

「護衛はなんとなさいますか」


 大元帥のみならず、元帥たちも突然の内容と決定に驚きの声を上げるが、反対の声はなかった。すでに演習の大部分は消化されていたこともあるが、現国王エゼルレッドと共に反乱地を渡り歩いてきた彼らは、その決定に誤りなどなかったことを知っている。

 それこそ、エゼルレッドが築き上げてきた、強固なる軍事制度の成せる業だった。


「火急の事態だ。第一騎士団から選抜した者のみで行く。大元帥、あとは任せるぞ」

「はっ!畏まりました」


 端的な言葉で二、三の確認を経て引継ぎを終わらせたエゼルレッドのマントが翻る。

 国王が遠征を想定した演習から姿を消す。それは兵の不安を煽るかもしれない。


(君に怒られるだろうか。ベル)


 出立前の妻の姿が脳裏に焼き付いていた。

 だが、怒られるならば自分は喜んでそれを受け入れようと思った。彼女が自分を、怒ってくれるのなら、幸福だとすら思えた。

 伝令文に記されたごく短い単語の綴り――――『急報。摂政殿下、流産』の文字を見たいまとなっては。



 そこからエゼルレッドと彼の選抜を受けた第一騎士団の団員たちは、一週間かかって合流、行進してきた道のりをわずか三日間で踏破する強行軍を開始した。

 時に馬を乗り換えながら――エゼルレッドの乗るシシリの軍馬以外は――土煙を上げて疾走を続けた彼らが王都の城壁門を潜った時、時刻は三日目の夕刻。六つの鐘が鳴り響く時だった。

 騎士の一人が警笛替わりのラッパを吹きながら先行し、驚く王都民たちが両脇に飛びのいた後の道をエゼルレッドは駆け上がっていく。王城はすでに目前へ迫っていた。

 閉ざされようとする王城の城門が、鳴り響くラッパの音に動きを止める。

 一方で跳ね橋もその角度を変えつつあったが――――


「ッ陛下!!」


 さすがの急停止をした先導騎士の脇を、銀の風がすり抜けていった。

 疾風は城門の隙間を突破し、跳ね橋を駆け上がり、そしてその谷間を易々と飛び越えて正門広場へと駆けていく。

 騎手と馬体が完全に噛み合わさり、初めて成し得る離れ業だった。


「跳ね橋を下ろせ!国王陛下のご帰還である!!」


 取り残された騎士たちの声が虚しく響いた。



 城の正門に辿り着いたエゼルレッドを最初に出迎えたのは、険しい顔の侍従長だった。


「妻は」

「こちらです」


 挨拶も、多くを語ることもなく、エゼルレッドの軍靴が土をつけたままであるのを常のように指摘することもなく、侍従長が彼を導き、エゼルレッドが追従する。やがて赤い西日の差す、見慣れた廊下が見えてくると、エゼルレッドはその歩速を早めた。

 王妃の自室。その扉を侍従長がノックし「国王陛下のお成りです」と言うが早いか、扉が内側から開かれ、エゼルレッドが顔も名前も把握している数少ない侍女――エディスが現れた。

 彼女は軍装姿のままのエゼルレッドを見るなり、一瞬何かを堪えるように下唇を噛みしめた後、それでも素早く平服の礼を取った。


「中つ国の国王陛下にご挨拶申し上げます」

「妻は」

「奥におられます」


 そう言って脇に退いたエディスの前を足早に通り過ぎたエゼルレッドは、主はいないが侍医や神官長などが控えていた執務室を兼ねた王妃の私室を通り過ぎ、その寝室の扉を自らノックした。

 反応はない。

 眠っているのか、と思いきや、近寄ってきたエディスが「陛下のお成りです」と室内に向かって声をかけ、返事を待たないまま把手を押す。

 エゼルレッドは、そこで初めて自身の心臓の鼓動が大きく跳ねるのを感じた。

 いや、あの伝令を見たときから、ずっと鼓動は早かった。だが痛いほどのそれは、初めてのことだった。

 開かれた寝室にも、廊下と同じ赤い西日が差し込んでいた。

 そして寝台の帳が束ねられた柱の向こう、あれほど焦がれた人物の細い背中を見出したエゼルレッドは無意識のうちに駆け寄っていた。

 すぐにでも声をかけようとしたエゼルレッドは、しかし寝台の縁に座るベルグリンデの姿を前に言葉を失った。

 ノックの音も、自分の駆け寄る音も聞こえていただろうに、茫然と前を見たまま動かない光のない瞳。色を失った唇。

 エゼルレッドはその姿に似た彼女を、一度だけ見たことがあった。

 一年以上前、エディスに「陛下をお探しになったまま動かない」と報告を受け、駆けつけたときのベルグリンデの姿だ。


(いいや、あの時よりも、よほど――――)


 思考を断ち切ったエゼルレッドは歯列を軋ませながら、それでもそっとその傍らへ膝をついた。

 自身の両脇へ力なく垂れさがったままの妻の手を、手袋を脱いだ両手で包むように握る。


「ベルグリンデ……ベル、私だ」


 ぴくりと、反応があったのは手の中だった。冷え切った指先がエゼルレッドの声に反応したかと思うと、ベルグリンデの顔がゆっくりと動き、その光のない瞳にエゼルレッドを映し出す。


「…………あなた?」

「ああ」

「……どうして、ここに」


 短いやりとりの後、エゼルレッドが応える間もなく、ベルグリンデの唇が震える。


「あなた、あなたがいらっしゃる、のに、わたくし……わたくし、たち、の――――」


 そのあとは言葉にならず、感情の浮かばないその瞳が潤んだかと思うと、音もなく一筋の光が彼女の左頬を濡らしていった。躊躇なく膝を浮かせたエゼルレッドがその華奢な体を抱き寄せると、大人しく収まったベルグリンデの、静かなすすり泣きの声が胸元から聞こえ始める。

 寝台のそばに控えていたエディスのしゃくりあげる声もまた、聞こえた。

 窓の外では、西日が音もなく没していく。


 間に合わなかった。


 その一念が、エゼルレッドの胸中に青火のような感情を灯した。

 それが怒りであることなど明白だったが、このような冷たい感情の炎を、ついぞエゼルレッドは感じたことがなかった。

 

「誰ぞ―――王妃になにがあった」


 その低い声に、誰かが息を呑む。短い沈黙を破り、扉の向こうから進み出てきたのはあの神官長だった。

 仮面じみた無表情を崩すことなく、彼はエゼルレッドの眼光を受け止め、礼を示す。


「申し上げます。王妃殿下は清めの泉に御身を晒されました。いま王都聖堂へ参じている西方神殿長の説法で、割れてしまった民衆たちを再び一つにされるために」

「何故それが清めに繋がる?」

「西方神殿長はかつての教義を強調する説法に殿下を招待し、殿下が体調を理由にそれを拒まれた結果、その体調不良こそが昨今の新たな教義の解釈――邪説と呼んでおりました――の影響だと、清めが必要だと主張したのです」

「それを貴様は見過ごしたというのかッ!」

「――――エゼル」


 エゼルレッドが憤激した刹那、静かな、僅かばかり掠れた声が制する。


「ヨハネスを、責めないで……わたくしは、……わたくしが、決めたのです」

「ベル……!しかし」


 ベルグリンデは夫の腕の中から痛みをこらえるような泣き濡れた顔で、それでも訥々と続けた。


「忘れ、ないで……わたくしたちの、目指す、未来を」

「――――」

「っもし……もし、この子が、……かの地の子であったと、しても……誰しもが、祝福してくれる、そんな……未来」


 ベルグリンデの顔が歪む。涙を流しながら、それでも微笑もうとしたかのように。


「それこそ……わたくしたちが、世界とかわした約束、だったでしょう……?」


 偏見の打破。世界との約束。目指した未来。それは、彼女のいう通りだった。

 夢を見ていた。彼女とならできると信じていた。いいや、今からでも目指すことはできるだろう。しかしそこにはきっといるはずだった者がいない。

 怒りに震えていたエゼルレッドの手が、止まる。

 次いで震えたのは、彼の肩だった。怒りではなく――――悲しみに。

 ベルグリンデの眦に、ぽつりと雫が落ちる。彼女は今度こそ震えながらも微笑み、自身の手を夫の頬へと伸ばした。

 そっと、その涙を拭わんとしたために。


「ごめんなさい、あなた……」

「謝るな」

「ごめんなさい……」

「謝るな。謝らないでくれ、ベル。俺がそばに、君のそばにいれば……」


 それ以上は、お互い言葉にならなかった。わっと泣き出したエディスの声を聞きながら、互いを抱きしめ合う夫婦の姿だけが、そこにあった。



 やがて泣き疲れたのか腕の中で眠りに落ちた妻を抱き上げ、エゼルレッドはエディスが捲った上掛けと寝台の間へ、静かにその体を横たえさせた。


「泉から戻られて、お目覚めになってから……っほとんど、お眠りにも、なられなかったんです……」


 エディスが上掛けをかけ直しながら、ぽつりと呟く。

 ずっとそんな彼女を見守っていたこの侍女の心労も、どれほどのことだろうか。

 エディスは濡らしたハンカチを使い、ベルグリンデの寝顔から涙の痕をゆっくり拭っていく。

 その様子を見守り妻の傍らへ跪いたまま、エゼルレッドは背後へ声をかけた。


「神官長」

「はい」

「貴様は新たな解釈を邪説と思うか」

「いいえ、新たな解釈である以上でも以下でもなく、教義に反しているとも思っておりません。しかしながら今回は、神殿長と民、そして摂政殿下をお止めする力及ばなかった我が身の無力を心よりお詫び申し上げます」


 常の通り淡々とした声が返り、衣擦れの音が続く。恐らくは首を垂れているのだろう姿を想像しながらも、エゼルレッドは首を横に振る。


「いい。ベルグリンデもそんな詫びは望んでいないだろう――だが」


 立ち上がったその背中で、紋章入りのマントが揺れる。


「我らがなぜ白き熊(グウィンアルト)と呼ばれているかを、国から離れ過ぎた者たちは忘れているようだ」


 振り返った国王の顔に、もはや涙はなかった。代わりに満ちているのは、雪解け水よりなお冷え切った怒りの気配。今にも牙を剥かんとする白熊の唸りめいた低い声が、首を垂れたままの神官長ヨハネスにも降り注ぐ。


「今一度思い出させてやらねばならない。解るな、神官長」


 静かに顔を上げた神官長は常の無表情を保ってはいたが、その目には隠しきれない緊張があった。


「……はい。御意のままに、国王陛下」


 再び彼がより深い礼を見せる。それは神官長のみならず、国王の号令を聞いたその場のすべての者たちの姿だった。







 国王エゼルレッドが急ぎ城へ戻った姿を見た者がいた、という噂が一部に流れ、それを裏付けるように帰還した演習参加者の中に国王の姿がないことへ驚く声が市井へ周り始めた頃。御用商人ファーウェイはいつものように――しかし状況的にはずいぶんとしばらくぶりに――登城の馬車内で揺られていた。

 ファーウェイの情報網では、王妃ベルグリンデが清めの泉に入った後昏倒し、寝込んでいる時点で彼女の情報が途切れていた。一方で、国王エゼルレッドが緊急帰還したのは事実である、と確認済みの状況だ。

 ベルグリンデがただ寝込んでいるだけだったなら、彼女の性格からしてすぐに呼び出しがかかっていただろう。

 だがエゼルレッドが緊急帰還し、その後もこうして月の末まで連絡がなかったことが、ファーウェイの商人としての勘に嫌な気配を滲ませていた。

 なによりも、今回の呼び出し状は両陛下の連名だったのである。


「両陛下のお召しにより、御用商人ファーウェイ、参上仕りました」


 すでに顔なじみの番兵たちに呼び出し状を示して、ファーウェイは王城の内部へと入ることができた。

 見慣れたというか通い慣れた廊下が、妙に静まり返っていることに気づかないふりをしつつ、いつも通り侍従の案内を受けて、その部屋の扉の前へと立つ。


「御用商人ファーウェイ殿がいらっしゃいました」


 ノックした侍従の宣言に応え、その重厚な扉が開かれていく。

 中から顔を出したベルグリンデの筆頭侍女は、記憶より頬から丸みが薄れていた。


「いらっしゃいませ、ファーウェイさん」

「これはエディス殿、本日もご機嫌麗しく」


 それでもいつものように朗らかな笑顔を見せたエディスへ、ファーウェイもまたいつもの笑顔を貼り付けて見せる。彼女への礼儀として。

 そして通されるまま室内へ踏み込んだファーウェイは、予想通り、寄り添い合うように長椅子へ腰を下ろしている国王夫妻に向かって深々と礼をして見せた。


「御用商人アヴェン・ファーウェイ、中つ国の両陛下へご挨拶申し上げます」

「やっと顔を見せたわね、薄情者」


 下げた頭に飛んできた思いがけない言葉に、はたとファーウェイは顔をあげる。

 

「まあいいわ。さっさと座りなさい」


 そこにはいつも通りの、いや、いつも通り過ぎる王妃ベルグリンデの姿があった。

 だがとなりの国王エゼルレッドは、どこか審判するような冷えた眼差しでこちらを見ている。

 温度差に弱い魚じゃなくてよかった、などと考えても口には出さない。

 ファーウェイは王妃に促されるまま、もはや定位置となって久しい長椅子の対面席に腰を下ろした。


「早速だけど、水垢離は成功したわ」

「はい、そのようで」

「けれどその時の低体温と発熱で、流産したの」

「は……――――」


 今、なんと。口にせずとも表情が物語っていたのだろう。


「流産したの。妊娠していたのよ、わたくし」


 ベルグリンデの言葉は、あくまで淡々としていた。

 冷静な施策の構想を語る時と同じ声音で、彼女はファーウェイに告げる。


「それは……それは、誠に……心より、お悔やみ申し上げます」


 衝撃はファーウェイの武器である口をなまくらにしてしまったが、ベルグリンデは気にした風もなく「ありがとう」と事務的に返してきただけだ。

 ファーウェイはようやく、ここ最近の彼女の動向――食の好みや消極的な施策――の理由が一本の線でつながれたような心地がしていた。

 一方で、虚を突かれた表情のファーウェイを見ていたエゼルレッドは、その眼光の鋭さはそのまま、常よりも一段低い声を発した。


「この件を以って、いまもなお王都の聖堂に居座る強硬派を一掃したい」

「と、仰いますと」

「邪説に染まった王妃とわたくしを糾弾した者たちの手によって、わたくしが流産したという事実を公表するの」

「ッ!?ですが、殿下、それは……」


 二度目の衝撃に、今度こそファーウェイは言葉を失った。

 二人の言わんとしていることは解る。解るが、それは幼くして婚姻し、待望の世継ぎを喪った王妃としてベルグリンデこそ糾弾されかねない諸刃の刃だ。


「わたくしが妊娠していた事実はごく一部の者しか知らないわ。『妊娠していたとは知らずに泉へ詣でた』結果の事態とするの」


 それでも、ベルグリンデの声は決然としていた。


「世継ぎを待っていたのは民とて同じはず。安易にわたくしを危険にさらした者たちへ怒りの矛先を向けるのよ」

「この子は祝福されるはずだった。その祝福を奪ったのは誰か。民の不安を煽り、希望を奪ったのは誰か。解らせてやらねばならない」


 そんなベルグリンデの手を握ったエゼルレッドもまた、すでに覚悟を決めた人間の顔をしていた。

 息を呑むファーウェイの前で、ベルグリンデが言い放つ。


「どれだけかかってもかまわないわ。人という人を使いなさい」

「……畏まりました。王妃殿下」


 後ろで扉の開く音がする。お茶の用意をするため席を外していたエディスが帰ってきたのだろう。

 その音の方へ視線をやったベルグリンデが、ふと遠くを見るかのような眼差しを見せた。

 夫と繋がれていない方の彼女の手が、その腹部へと添えられる。


「……我が子の死を利用するなんて、わたくしは冷酷な母でしょう。でもこの子をただの過去にはしたくない。確かにいたのだと、未来を運んできてくれたのだと知らせたいのよ」

「――――殿下。皆までおっしゃらずともこのファーウェイ、その祝福を待ち望んでいた一人として、お力添えは惜しみません」


 ファーウェイが再び頭を下げた。そこで微かに、視界の外へ出たベルグリンデの気配が、揺らいだような気がした。


「……ありがとう」


 その震える声から一拍置いて、エディスの「失礼いたします!」という元気な声が間に入ってきた。

 ファーウェイは筆頭侍女の健気さをあらためて実感すると共に、損得を抜きにしてでも今はこの夫婦の味方でありたいと、心底からそう思った。







 その翌日の朝議において、エゼルレッドは『ベルグリンデの流産』と『原因は清めの泉での水垢離強要』であることを公表する。

 閣僚たちは摂政の急な体調不良の理由を知ると共に、その事実へ一様に驚愕した。神官長、ヨハネスを除いて。

 さらに閣議の間でのみ公表されたはずのこの話は、()()()噂として城内から飛び出し、国王の正式な公表を待たず王都中を駆け巡った。噂が単なる噂ではなく事実だと公表された後の王都民の衝撃はさらに大きく、瞬く間に国内にまで波及していく。「中つ国王室を一部の神殿長が攻撃している」という尾鰭までつけて。

 この噂の衝撃によって、イノケンティウスらに向けられていた大衆の目は大きく変わりつつあった。

 イノケンティウスはそれでも既存の教義に則った公開説法を続けていたが、追い打ちをかけるように「イノケンティウスは旧い教えに縛られて中つ国の未来を奪った輩」だとする噂までも出回り始める。

 やがて最初は驚き、徐々にしらけ始めていた民の感情が静かな怒りへ転化され始めた頃、状況を示すかのように公開説法への出席者は激減していった。

 神官長ヨハネスは、その様子をつぶさに報告させて、把握していた。

 そして月が変わり、アイリスが盛りを迎え終えた頃、彼は一通の書状を手に王都大聖堂を訪問していた。


「神官長殿、これは――――」

「よくよくお考えになることをお勧めします、西方神殿長」


 愕然とするイノケンティウスに対して、淡々と告げるべきことを告げたヨハネスは踵を返す。

 イノケンティウスのわなわなと震える手に残されたのは、国王エゼルレッドからの出頭命令状である。

 本来ならば、国家とは別の独立した組織である神殿の長は国王の命令に従う立場にない。

 本来ならば。だが、しかし。

 あの時期の水垢離が苦行に近しいものであることはイノケンティウスとて把握していた。しかし邪説を蔓延らせた国の代表を悔い改めさせる措置として、十分なものだと思っていた。それがまさか、このような事態を生むなど。


「ッ主よ……これは試練なのですね……!」


 イノケンティウスの手の中で、王家の紋章入りの書状がぐしゃりと形を変える。

 彼は今度こそ、国王に直接相対する機会なのであればなおのこと、邪説を許した元首を戒めろという神の思し召しなのだと、そう考えることで一切のその他の可能性を排除した。

 決して、世論に圧されたわけなどではないと、自らに言い聞かせることすらも放棄して。





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