27. 王妃の奮戦
『――――かくして正しく勤めを果たした肉体を手放せば、肉体から解放された魂は天に昇り、飢えも苦痛もない光明神のおわす天空の国に光の一筋として招かれるのです。よって我らは天より賜った命を清め、研鑽することこそ徳を積む道であり……』
「……と、まあ、そんな調子でして。伝承に基づいた神殿の経典引っ張り出した説法を神殿長自ら行うときましたら、面白がってる連中だけじゃなくいわゆる知識層も原点を学べると自ら繰り出してるようです。しかも件の神殿長、ずいぶん人の顔を覚えるのが得意なようで、終わった後よくあいさつ回りもしてるとか」
「……つまり、わたくしたちが小説で引っ張ろうとしていた層を取られつつあるってことね」
わたくしは手元の報告書に目を落としたまま、自室でファーウェイの補足を聞いていた。
報告書の内容は陛下の出立を見計らっていたかのように開始された西方神殿長、イノケンティウスの説法の内容をつぶさに記録したものだ。
陛下の出立から一週間が経過していた。
その間、イノケンティウスが公開説法を行った回数は実に三回。かつての神官長ドニロドトスですらもったいぶって月に二、三度あればいいほうだったのに、いつまでも王都には留まれないという理由でずいぶんな頻度をこなしている。
ちなみに現在の神官長、ヨハネスの公開説法は暦に基づいた宗教儀式以外では一切行われていない。
ある意味で、それが仇となっていた。
知識層の研究欲、いわゆる知的好奇心に対する飢えを満たす存在が、王都には不足していたのである。
(だからこそ、小説を刊行してその層を取り込もうとしていたのに……!)
小説は文章の塊。ファーウェイに作家の選定をさせたのが昨年の一〇月ごろで、執筆原稿が上がってきたのが一月の末。そこから印刷工房を急がせ、装丁させ、ようやくまとまった数の刊行にこぎつけたのが今月の頭のことだ。
王都の敏感な層にはもう行き渡ってると思いたいが、単なる娯楽とも取られかねない小説と、神殿長自らが経典をめくってその解釈を述べる説法ではやはりその希少性、届き方が全く違う。
「いまはまだこれまでの教えの復習みたいな内容だけど、強硬派ならこの後すぐ教えの強調に入るはずよ」
「仰る通りかと」
してやられた。その一念が脳裏を占める。
これは時機、内容ともに王都の事情を細かく把握していなければできないことだ。どうやら西方神殿の目と耳は、神官長まかせの神殿と違ってずいぶん王都に多いらしい。
時刻は昼を少し過ぎたあたり。空は青空を垣間見せながらも雲が多い。
気づけば窓の外――城壁のそのまた向こう――を睨んでいたわたくしは、気持ちを落ち着かせるべく報告書をローテーブルへ置いた。代わりにエディスが淹れてくれたローズヒップティーに満たされたカップを取り上げ、一口飲む。
鮮やかな赤のハーブティーはその爽やかな酸味が特徴だ。苛立ちと一緒にこみあげてきたものを、静かに下へ押し流してくれる。
「手を打たないと、なにか……」
わたくしはいま、必要以上に人前に立てる状況ではない。だから昨今の流行りを聞きたい、という名目でうかつに知識層を招くことも躊躇われた。
その理由はまだ、ファーウェイにすら明かしていないのだ。無意識のうち、腹部へやりかけた片手を戒めつつ、カップを置く。
「摂政殿下、いまはまだ目新しい商店が店を開いた、という段階です。その戦略と戦術をはっきりさせるには、やはり市場調査が欠かせません」
商人らしい物言いのファーウェイに一つ頷き、わたくしは結局考えうる中で最も消極的な対策を選ばざるをえなかった。
「……一先ず知識層のサロンに人を送って、イノケンティウスの影響のほどを確かめさせて。それと小説の反響もね。当然だけど、急ぎよ」
「御意に、摂政殿下。それでは――――」
小説の執筆者は王都では知られた気鋭の作家。それが新解釈に基づいて刊行した小説、とあれば話題性は十分のはず。
焦ってはいけない。わたくしがしているのは綱渡りから綱引きになった。力加減をあやまれば、一気に引きずられかねない、危険な綱引き。
ファーウェイの退出した部屋の中で、わたくしは報告書を睨みつけながらも腹部にやった手でそこを撫ぜることを止められずにいた。
そしてその不安は、後に的中することとなる。
「動きました」
「入って」
ファーウェイの対応と報告は、実に迅速だった。反響を確かめさせるために彼の間者を送り出してからすぐ、朝議を終えたばかりのわたくしを待っていた彼は、珍しくそのへらへらとした笑みを引っ込めていた。
相変わらず閑散とした自室の長椅子にファーウェイを座らせると、エディスがお茶の準備に退出している時間すら惜しいとばかりに懐から取り出した封筒をわたくしへ差し出してくる。
わたくしがその封筒を受け取り、ペーパーナイフで封蝋を剥がしている間もファーウェイの真剣な目はわたくしへ注がれたままだった。
「向こうはずいぶんと、人の取り込みに長けているようです」
「……なるほどね。説法に来た人間たちに、新たな聴衆を引っ張らせてくる、と」
報告書いわく、イノケンティウスは説法によく顔を出す知識層――その多くは貴族階級だ――の顔を覚え、彼らに細やかな挨拶をし、そして自分は王都に長く居れないから、もし説法に興味がありそうな人がいたらどうかお連れになってください、と言って回っているそうだ。
そうして、影響力のある人材を少しずつ、だがしかし確実に引き集めている。
いまや聖堂は興味本位の大衆よりも、そういった知識層に伴われた関心の深い、とくに信心深く新解釈が容易に浸透しない層で埋まりつつあるという。
「漁が上手いのね、神殿長様は」
「ええ、相当なやり手と見ました。小説も評判自体は悪くない、むしろこぞって買い求められているようですが……」
「そもそもそれにすら見向きもしなかった層が、向こうに集まりつつある」
わたくしが世論形成の主軸にしていたのは噂話が大好きな、いわゆる大衆だ。
しかしこういった『大波』に対し、頑なで慎ましやかな少数派をイノケンティウスは一つ一つ、確実に釣りあげていっている。
やがて聖堂が彼らで埋まったとき、イノケンティウスは持ち出すのだろう。旧来の教えを尊ぶべきだ、と。
「……同じ商品と値段を持ち出して、相手の縄張りで勝負するのは馬鹿げてるわ」
「仰る通りです。摂政殿下、いまはむしろ」
「こちらの顧客層が引きずられないように、より盤石にしていくべき、よね」
ファーウェイが深く頷いたとき、ノックの音と共に扉が開かれ、ティーセットを手にしたエディスが入ってくる。
それに伴い、前のめりに膝上で両手を組んでいたファーウェイは上体をおこして、いつものあのへらりとした顔をくっつけたのだった。
「やあ、今日も良い香りですね」
「ありがとうございます。最近の摂政殿下のお気に入りなんです」
ね、と目配せしてきたエディスに、わたくしもそうね、と思わず笑みをこぼす。
なみなみと注がれるローズヒップティーと、並べられていく茶請けの菓子。
最近は食べられるものと、そうでないものがずいぶんはっきりとしてきた。
妊娠中に禁忌とされるものは予想以上に多く、調べてくれたエディスいわく相当数のハーブが使用できなくなったという。
けれどその理由は明かせない。いまはまだ。
もどかしいけれど、わたくし自身は動けない。育てた苗を雨風から、そして強い日差しから守ることが、いまのわたくしに求められていることだと自らに言い聞かせるほかなかった。
「エディス、また歌劇の演出、始めるかもしれないわよ」
「ええっ!?ほ、本当でございますか!た、楽しみです~……!」
素直な感激の声にファーウェイと目配せしたわたくしは、自然と緩んだそこを隠すようにカップへ口をつけた。
けれど事態は、思わぬ方向から動いたのである。
「『――――……かの子爵殿らにより、摂政殿下におかれましては御名で救済院を運営され、冬の民にはよく施しもなされる大変慈悲深く神殿とも歩みを同じくする御方であると伺いました。この度の陛下御不在の折り、わたくしたちが王都に揃いましたのも光明神の御心のお導きと心得ます。つきましては』……はあ」
長い。長いが、要点をまとめるとこうだ。
お友達の貴族たちが神殿と同じことをしてるあなたを良く言ってました。私たち気が合いそうなので説法に来てみませんか、と。
神殿長イノケンティウス自らが、儀礼に則り神官長ヨハネスを通じてわたくしへ寄越した書簡の内容である。
「まさか、わたくしを狙い撃ちしてくるなんてね……」
「説法は先鋭化しつつあると報告があがっております。摂政殿下」
「でしょうね」
敵が本命を動かし始めた。だからこそ、今ここでわたくしを取り込み、いえ出席させるだけでも相当な影響力が見込めると判断したのだろう。
便せんをローテーブルへ放ったわたくしは、顎に添えた右手の人差し指で頬を叩く。
「出席はできないわ。当然だけど」
「はい」
「かといって真っ向から拒否すれば角が立つ」
「仰る通りで」
ファーウェイの相槌を聞きながら、わたくしの左手は無意識のうちに腹部へあてられていた。途中で気づいたけど、急に離す方が不自然と思ってそのままにする。
「……再演させた歌劇の評判はどう?」
「大好評です。やはりなじみ深いものは強いですな。聖堂からしめだされた、あるいは説法に飽いた面々も流れ込んでると」
しかしそれを報告するファーウェイの口ぶりは決して浮かれていなかった。
あの笑みも心なしか控えめだ。
「新解釈は間違いなく、大衆たちへ浸透しております。摂政殿下」
「でも、知識層の取り込みは間に合わなかった」
知識層でも純粋な信仰心からではなく、研究心から出席している者たちもいるだろう。
しかしそれでも、彼らが選んだのが劇場ではなく聖堂だという事実は揺らがない。
とはいえ、摂政は不在の陛下の代わり。子爵や伯爵級とはわけが違う。それを狙い撃ちするなんて。
(ずいぶんな賭けに出たものね)
断られることを想定していなかった?いいや、ここまで周到な人間がその場合を想定していないとは考えにくい。
ならば、この誘いの真の狙いは。いや、しかし。だとしても。
わたくしは腕を組み直す。選べる選択肢は、もはや限られている。
「……摂政業務と、それに体調不良を理由に王城を離れられない、という旨の返事にするわ。陛下が戻られたのち、また機会があれば、と」
「それが一番無難かと存じます」
深く頷いたファーウェイに、わたくしも頷きを返す。
これでよかった――――ちがう。これしか選べなかった。
窓の外を見やれば、雲間を割いて差し込んでいた陽の光が、ちょうど白雲に呑み込まれるところだった。
●
「中つ国はいま、危機に瀕しているものと私は考えます」
静まり返った王都大聖堂の中で、その年齢を感じさせない朗々たる声が響き渡っている。
演台に登っている人物は、聖堂内の座席を埋め尽くす聴衆たちに決して厳しくなく、むしろ典雅とすらいえそうな声で語りかけていた。
「俗世には教えを歪めた邪説が蔓延り、大衆たちはそれを鵜呑みにしている。信仰心が娯楽として消費されつつあるのです」
聴衆たちの中でも疎らに見える深く頷く姿を確かめるように、一拍の間をおいて西方神殿長、イノケンティウスは続けた。
「これまで瘴気が地中、かの魔界の背以外から生じた例がありましょうか。瘴気なき地で、モンスターが生じた例がありましょうか」
大聖堂の薔薇窓から差し込む、白雲ごしの陽の光は聖堂内を薄暗く、そして薔薇窓とその傍らに立つイノケンティウスの姿を一層明るく際立たせている。
「この中にもモンスターに追われ、その恐怖を味わわれた方もおられることでしょう。その恐怖を産み出したのはどこか?ほかならぬ、魔界です。魔の世界に生じたものは魔に染まります。モンスターがそうであるように――――例外はないのです」
そこで言葉を切ったイノケンティウスが、聴衆には見えない演台の手元から一冊の本を取り上げ、掲げて見せた。
深緑色の装丁はその本の品格を現すかのようだったが、イノケンティウスは静かだったその表情を厳しくゆがめていた。
「これは、私が市井に出回ってると知り、取り寄せた真新しい小説です。中には論文に近い文体でこのようなことが書かれておりました。いわく『三千年の大戦の折り、魔界では人、エルフ、ドワーフ、獣人らが神のお導きのもと力を合わせて戦い、多くが倒れ、多くが討たれた。しかし最後は我らが勝利し、魔界は世界の裏へと封印された。その際』……よろしいですか。『その際に、大戦以後行方のしれない初代勇者とその一族が、魔界を封じる要として魔界へと残った。彼らの末裔はいまも、魔界で生き続けている』――――なんと、嘆かわしいことでしょう」
聖堂内にざわめきが走る。その本は昨今気鋭の作家が手掛けた話題の書であり、この聖堂内にそれを手にした人間も多くいたが、イノケンティウスの説法を熱心に聞きにくる多くの聴衆にとって、それは寝耳に水ともいえる新説――いや、彼らの言葉を用いるのであれば『邪説』そのものだった。
「このような物語が、いまこの中つ国王都では堂々とまかり通っているのです。仮にかの大戦のおり、魔界に取り残された者たちがいたとして、光明なき瘴気に満ちたかの世界で、一体どうやって理性を保ち永らえるというのでしょうか。その果てにあった者こそ魔族であり、だからこそ瘴気はいまもなおダンジョンから吐き出され続けているというのに!そして、皆さまも記憶に新しいでしょう。中つ国は国内に瘴気が観測された地なのです」
さざ波のようだったざわめきが、しんと静まり返った。それは忘れるには衝撃的すぎる事件だったが、その拡大を看過したとして処刑された元神官長ドニロドトスが話題に上らなくなるにつれて、ゆっくりと大衆の記憶から遠ざかりつつもあった。
「私はこれを予兆と考えます。中つ国に迫る危機を現す予兆。その兆しは瘴気のみならず、大衆までも飲み込む邪説、さらには」
本を演台へ戻したイノケンティウスは、今度は一枚の便せんを取り出し掲げて見せた。
あまりに距離があるため、その細やかな文字は見えずとも、便せんの右わきへ押された紋章は最前列にいる聴衆たちの目に留まった。
「摂政殿下のご体調不良!――――私は先だって、かの慈悲深く神殿と歩みを同じくされている摂政殿下へ説法へのご参加をお伺いいたしました。しかし殿下は、摂政業務のお忙しさと昨今のご体調がすぐれない旨で、丁寧な辞退のお返事をくださったのです」
今度こそ、聖堂内にどよめきが起きた。国王エゼルレッドが演習に出かけて僅か二週間程度の間、摂政たる王妃ベルグリンデが体調を崩しているなど、どこからももたらされていない新情報である。
便せんを置いたイノケンティウスは、大きく両手を広げた。
「国内での瘴気の現れ、王都に蔓延る邪説、次いで起きた陛下のご不在、摂政殿下のご体調不良。これらは無関係でしょうか?光明神の御心はそれほどまでにこの国から離れておられるのでしょうか?……いいえ。いいえ、決してそうではない」
どよめきを貫くイノケンティウスの言葉が途切れる。
どよめきはざわめきに変わり、やがて囁き合いになり、再びの静寂が戻った。
「今この国は試練の時を迎えておられるのです。ゆえにこそ、天より賜った命を清め、徳を積むことが、今この国の御意思たる――――摂政殿下に求められている救いの道なのです」
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