26. 王妃の送り出し
雪が融け、その下から顔を出した泥が固まり、巻き起こった土埃を雨が拭う頃。
わたくしは王城の自室で、『難敵』の攻略に当たっていた。
「大丈夫です」
「しかしだな……」
「遠征演習に国王を欠くなど前代未聞ですわ。一体どう言い訳なさるおつもり?」
そう、誰あろう国王陛下ともあろうお方が、わたくしを残していくのは不安だから遠征演習を欠席する、などと言い出したのだ。
当然わたくしは猛反対した。
遠征演習は閉じ込められがちな雪の時期、なまった兵たちや騎士たちの体を動かさせ、国王の軍事統率力、すなわち総帥としての力量を見せる重要な行事である。
遠征による反乱鎮圧で功績を上げてきた陛下が、ある意味で儀礼より重視していたのをわたくしは知っている。
なによりこの演習があるからこそ、中つ国の軍事力と兵たちの士気は高水準を保っていられるのだ。
それを!たかが!妻が妊娠初期だから――しかも公には明かしてない――という理由で!
「だが、ベル……」
「いまは公務中です。国王陛下」
ぴしゃりと言えば眉尻が下がる。その表情で引き下がると思えば大間違いよ。
最近の陛下はわたくしに甘い。甘やかされてるわたくし本人がちょっと、と思うほどなのだから周りの感想など知れたこと。
だからわたくしは厳しく出るの。甘やかされることで甘やかし返してたら、一体この国はどうなってしまうの。
すうっと息を吸ったわたくしは、まだふくらみの薄いお腹に手をあてながら陛下をきつく睨みつけた。
「これから何度同じことがあるか分からないのに、その度わたくしへかまけるおつもりですか」
「それは…………」
それは、なによ。そうだとでも言うつもり?
何事かを言いあぐねていた陛下は、やがて諦めたように小さく息をつくと、その薄青い目に不安を刷いたままわたくしを見下ろした。
「…………君に、不安はないのか?」
それを聞くのは、ちょっとずるいわ。
「……ないといえば嘘になります。でも、それはいつも抱えているもの――――もって然るべき、緊張というものです」
だから恥じることでもない。誰かの助けが必要なものではない。
いつまでも、守られていなくてはいけない時ではない。
「それより、摂政補佐をどう宰相へ打診するかを考えてください。わたくしが摂政に付くとしても、ほとんどお飾りになるのは目に見えてますが、細かな朝議の報告などは聞き落したくないんです」
かつて摂政だった人物は、わたくしを内政のできない小娘とは扱わなかったけれど、もう彼はいない。現宰相の元内務大臣はわたくしが文化推進事業を手掛けているのは知っていても、その実が政治的な工作であることは知らない。
だから政治的な判断への信頼があるとは、言いにくい状況なのだ。
よっていくら補佐だとはいっても、実質彼がすべてを進めてしまいわたくしが取り残される、という状況になりかねない。
それだけは避けたい。
そんなことを考えているわたくしを見ていた陛下が、不意にぽつりとつぶやいた。
「……君は、強い……母親の顔になったな」
「そうですか?そういわれましても、わたくしはいつも通りのわたくしのつもりですが……」
そう、特別なことはしていない。目の前のことで手一杯なのも変わっていない。
けれど陛下は眩しいものを見るようにゆっくりと目を細めながら、首を横に振った。
「いいや。俺は――母親の顔は知らないが、きっと強い母とは君のような顔をしている、と、思う」
「……陛下の、お母様」
彼が初めて、そこに言及するのを聞いた気がする。
先代グウィンアルト国王は、身もふたもない言い方をすれば好色だった。
正妃や側妃だけでは飽き足らず、火遊びのように夜会でとある子爵令嬢に手を出し――――産まれたのが現国王にしてわたくしの夫、エゼルレッドである。
わたくし自身が生家と縁が切れたも同然だったためか、家族の話題、というのを無意識に避けてきていた。陛下も、語ろうとはしなかった。
厄介払いするように、自分を遍歴騎士などという体のいい形で放り出した父親と家を、どう語れというのだろう。
わたくしは、一時彼の母親がそれを止めなかったのかと思っていたが。
「俺を産んで亡くなった。だから、幼いころの肖像画しか見たことはない」
「……!」
それは、止めようもない、そして語り様もないことだ。
目を見開いたわたくしに微笑んで、もう痛みもなくなった古傷を見せるかのように、そっと、訥々と彼は続けた。
「彼女は俺を産んだせいで亡くなった。だから……初めての、君の中に宿った俺の子のことも――――なにより君のことも、心配でたまらない、んだと、思う」
そんな風に、あなたのことを語らないで。
言葉にするより先に、わたくしは彼の手を握っていた。
「わたくしはあなたを待ち続けます」
「ベルグリンデ……」
「約束です。あなたが無事に帰ってきてくださるなら、それがわたくしたちの無事につながるのだとお考えください」
驚いたように少しだけ目を見開いた陛下は、それでも静かに微笑んでそっと手を握り返してくれた。指と指が交差するように、確かに。
「……ああ、約束だ。無事に帰ろう」
その言葉は、彼の安堵と、決意に満ちていた。
わたくしは微笑みを返し、深く頷き返すと、引かれる手を拒まずに、その腕の中へと納まった。
大丈夫。これでもう、わたくしたちは大丈夫。
そう、信じていた。
結局、宰相への摂政補佐打診は、わたくしも同席のうえ陛下の執務室で行われることとなった。決してわたくしに報告を欠かさないように、いつまでもお飾りのままでいられては私が困る、という陛下の厳しい言葉に、宰相は真面目くさった顔で深く頷いた。
わたくしは宰相の協力があれば、摂政職も全うできますともっともらしい真剣な顔で訴えたわ。それもこれも全部、わたくしと陛下で決めた筋書き通りだったんだけれど。
具体的には、朝議にはわたくしも出席する。進行役は宰相が行う。わたくしの質問は朝議後に行う、わたくしの意見は朝議に反映させる、などといった取り決めをして、その場は解散となった。
思ったより円滑に行ったわね。と思うわたくしは宰相が退出した執務室で陛下と目配せし、笑いあったのだった。
そして、その日はやって来た。
よく晴れて、草木の若芽が芽吹き出した甘い香りが混じる風と共に。
城内聖堂でわたくしと短い祈りを終えた陛下が、軍装姿に着替える。マントは儀礼用だが、腰に帯びる剣は儀式と違って実戦のもの。
……やっぱりいまでも鍛錬を怠ってないだけあって、儀礼服より軍装の方が映えるわね。この人。
でもいまは統治の王として頑張ってる人に向かって、軍装が素敵ですというのもなんだか違う気がして、わたくしは黙ってその様子を見守っていた。
姿見と衝立が片づけられ、宰相が陛下の部屋にやって来る。装いを整え終えた陛下を筆頭に、わたくしたちは陛下の執務室へと移動した。
「王妃ベルグリンデ」
「はい」
まだ朝日は昇り切っておらず、城は薄青い影の中にあって、空は明るい。
そんな外を映し出す大窓を背に、陛下は手にした玉璽の箱をわたくしへと差し出した。
「ここに、君を摂政として任命する。私が不在の間、補佐たる宰相の意見も参考に、この城と国をよく守ってほしい」
「ベルグリンデ・ヴェルフ・エリネッド・オブ・グウィンアルトの名において、確かに拝命いたします。誓って、お言葉の通りにいたします」
箱は確かに、わたくしの手に渡された。ずしりとくる重みは想像の範囲内ではあったけれど、実際のこの箱が持つ『重み』にくらべれば、なんて軽いことだろう。
「宰相。摂政補佐として、私が戻るまで励み、よく王妃を支えてくれ」
「はっ!畏まりました」
宰相は箱を抱いたわたくしとも視線をかわし、頷き合う。
その箱はわたくしの自室兼執務室の鍵付きの抽斗へ保管される。出番が少ないことを祈るばかりね。
非公開の任命式はこうして静かに終わり、宰相は正門前広場の方へと向かって、陛下に促されるまま先んじて歩いて行った。いま玉璽の箱はエディスに手渡され、わたくしの手にはなにもない。
そんな手に、陛下の手が重なる。ここから先、わたくしはついて行けない。
だからここが分かれ道。そっとわたくしの右手を掬い取った陛下が、その指先に息を吹き込むように口づけた。
「……離れていても、魂は共にある――――いつか、君が言ってくれた言葉だ」
「……ええ」
忘れもしない、あの円卓会議を控えた夜のことだ。
「忘れないでくれ。君も。……行ってくる」
「……行ってらっしゃいませ。あなた」
最後に下ろされた手が、その指の背がそっとわたくしの腹部に触れて、離れていった。
「……妃殿下」
「行くわよ、エディス」
踵を返した彼の背中を、いつまでも立ち止まって見ているわけにはいかない。
わたくしはわたくしの立つべき場所へ、陛下と同じように。
階段を上り、もはや通い慣れた廊下を行く。衛兵たちと騎士の敬礼を受けながら、開かれた扉を潜れば――――朝日の中、正門前広場へ整然と整列している第三騎士団と、一部の第一騎士団の姿が垣間見えた。
そのままバルコニーまで進み出れば、わたくしの姿に気づいた第三騎士団団長、ブリン卿や第一騎士団団長、それに大元帥らが敬礼を見せる。わたくしが頷いて見せて間もなく、正門前広場全景を臨めるそのバルコニーの丁度真下へ位置する正門から、陛下の靴音が聞こえてきた。
せり出したバルコニーでは、陛下の後頭部がわずかに見えるばかり。けれどその声ははっきりと、私にも届いた。
「これは演習である。実戦ではない。しかし、実戦が起きたときに如何とすべきかを骨身に刻むためのものである。実戦はその集大成でしかない。よく、心得ろ」
短いけれど、戦場で生きてきた人の言葉は重い。
戦は結果でしかなく、その過程こそが重要なのだと短く語り終えたその声に、騎士たちは敬礼と短い発声を以って応える。
その整然とした姿が、これまで培ってきたものを思わせる。
実戦用の馬具を身に着け引かれてきた愛馬へ、陛下が事も無げに跨る姿が見えた。
角笛の音が鳴り響く。続いて、太鼓の音が進軍を指揮する。
「出発!」
風はあるが、重たい王旗を翻すほどではない。掲げられたそれらを見ながら、わたくしは遠ざかっていく彼らの背中を見送る。
陛下は、振り返らなかった。真っすぐに前を向いて――――わたくしに背を向けて、その隊列の中を進んで行った。
風に乗って、民衆の歓声が響く。王都中央広場には兵たちが控えており、陛下はそこで国境の安寧、軍規の厳守、そしてわたくしへの王都委任などを宣言する予定だ。
でもわたくしが、それを見ることはない。
「エディス。玉璽を部屋に置いたら、すぐ閣議の間へ向かうわよ」
「はい、妃殿下」
正門前広場で出発を見守っていた他の廷臣たちも、それぞれが踵を返し正門に向かい始めていた。
正式な摂政としての、初めての朝議だ。遅れるわけにはいかない。
今朝は深い青色のドレスを選んだ。それが相応しいと思ったから。装身具はマーガレットのブローチと小ぶりな耳飾り、指輪は結婚指輪のみ。
大元帥と国王を欠いた閣議の間で、わたくしが入室すると既に居揃っていた閣僚たちが席を立ち「中つ国の摂政殿下にご挨拶申し上げます」と礼の姿勢をとった。
「おはよう、皆、席についてちょうだい」
常に陛下が座ってらした席へ向かいつつ、声をかける。椅子が再び引かれる音を聞きながら、わたくしは普段自分が座っていた席を一瞥し、空の玉座へと視線を戻した。
エディスが玉座たる椅子を引いてくれることに礼を言って、わたくしは腰を下ろす。
右斜め後ろに、宰相が立った。
「はじめましょう」
まず始めに、各閣僚たちの担当分野からの報告。わたくしは質問があれば後で宰相が答えらえるよう合図を送る手はずだったけど、特に目新しい情報や分からない言葉がなかったので、その手はひじ掛けに置いたままだった。
だって財務も内務も、外交だって世論工作には把握しておかなきゃいけないことでしょう?
散々いじくりまわしてきたんだもの。ある程度の知識はあるわよ。
最後に立ったのは、神官長ヨハネス。彼の報告も春の宗教行事やその予定についての報告のみで、暦通りのものだから特に気にすることはなかった。
ただ、一点だけ。
「王都大聖堂へ、西方神殿の神殿長が出張してきており、近日中に公開説法を行うとのことです」
報告の最後、何気なく付け足されたようなそれに、わたくしの中の網が反応した。
西方神殿。光明神への教えについて厳格なことで知られる、遥か西の神殿だ。
単純な距離で言うなら、七つある神殿のうちもっとも離れてる東方、巨大な山脈を迂回する必要がある北西に次いで遠いところのはず。
(その神殿の長が、わざわざ王都に来ている……?)
ヨハネスは何事もなかったかのように着席し、そのことについて触れる閣僚たちはいなかった。
それからその日の朝議は、わたくしの確認なし、また指示判断が必要な事項もなしということで解散となった。
「――――ヨハネス」
「……摂政殿下」
閣議の間を退出し宰相とも別れた後、わたくしは神官長がその執務室に戻った、ということを確かめさせてから直撃することにした。
彼は突然の面会依頼に驚くでもなく、かといって歓迎するわけでもなく、普段通りの事務的な態度でわたくしを出迎えた。
「この通りの有様ですので、お茶などもお出しするのが難しいのですが」
「構わないわ」
神官長ヨハネスの執務室は整然としていたが、お付きの神官は一人だけ。豪華な応接用の椅子やテーブルは別室へ片づけさせたらしく、そのお付きの神官が慌てて、かつずいぶん苦労しながら引っ張り出してきた一人掛けへ、わたくしは腰を下ろした。
「お互い忙しい身だし単刀直入にいきましょう。西方神殿長に問題があるの?」
「…………」
黙ったわね。肯定とみなすわよ。
いつも淡々と即答してきたヨハネスが、眉ひとつ動かさないまま唇を閉じた様子にわたくしはそう判断した。
「ご報告した通りです」
「朝議の場でね。ただの出張ならあなたが把握しているだけで十分なのに、摂政であるわたくしに聞かせた。なら、そこにはなんらかの問題か、把握しておくべき情報があるはずよ」
そこでわたくしが反応するならよし、反応しないならそこまでとするはずだったのだろう。
これまでの行動からも、ヨハネスの思考は神殿重視とは考えにくい。かといって、王家に忠誠を寄せている風でもない。
つまり、中立なのだ。その彼が初めて口にした『問題あり』の事柄なら、それは、彼の中立性を脅かすもの、あるいは神殿と距離を置いている、ある意味で中立派ともいえる王家に対するなんらかの脅威とわたくしは考えた。
「……」
ヨハネスの逡巡は短かった。
「西方神殿長イノケンティウス。彼は、強硬派なのです。摂政殿下」
「強硬派……?」
わたくしの反芻に、ヨハネスは浅くうなずく。
「既存の教えを重視し、人間世界を尊重、魔界や魔族を敵対視する――――その傾向が極めて強い派閥を、神殿ではそう呼びます」
ヨハネスの出身は北西神殿だ。当該神殿は湖を通じて西方神殿とのやりとりも活発だと聞く。とはいえ、他神殿の神殿長の動向まで彼が把握しているというのは驚きだった。
あるいは興味がなかったヨハネスが記憶してしまうほど、件の人物が強烈だったか。
「……いま王都――市井では、三千年前の戦いで魔界にも我々の同胞がいるかもしれない、という新解釈が出回っていると聞くわ。お前もそれを知ってるの?」
「耳にはしております」
つまり、その新解釈に真っ向から反対するだろう人間がやってきた。
それも王都の大聖堂。この中つ国の中心に。
大体のことは解った。つまりは面倒の種が増えたということね。
本当、刈り取っても刈り取っても切りがないんだから。
「――――よく解ったわ。報告ありがとう、ヨハネス神官長」
「いいえ」
彼の返事は端的だった。自分の役目は果たした、ここまでだというかのように。
でもお前、気づいてるのかしら。自分が強硬派を問題視していると、わたくしへ告白したようなものよ。これは。
……まあ、解ってるんでしょうね。解っていて、わたくしたちに委ねている。
立ち上がったわたくしに、ヨハネスもまた立ち上がる。
「見送りは結構よ。ご苦労様」
お前も、とお付きの神官に一瞥をくれて、わたくしとエディスは整然とした、本来人を出迎える機能も削ぎ落したかったのだろう神官長執務室を後にした。
時刻は昼に近くなっていた。鐘の音が一一を数える。
「エディス」
「はい、妃殿――失礼しました!摂政殿下」
廊下を行きながら、慌てて言い直すエディスにふ、と笑みがこぼれる。
そこでわたくしは、あの執務室で自分も無意識に息をつめていたのだと思い至った。
お前を驚かせてしまった?だとしたら、ごめんなさいね。
そんな気持ちで、お腹を撫でながら。
「いいわよそれぐらい。それより、昼食は部屋でとるわ。それと――――ファーウェイを呼ぶよう伝えて」
陛下はいない。だから、なんだというの。
(陛下がいないくらいで、お前たちの思う通りになると思ったら大間違いよ)
わたくしはわたくしの手で、いまようやく育ちつつあるものを守ってみせるわ。
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