25. 王妃の記念日
「――――……ベルグリンデ………ベル。時間だ」
「ん……おはようございます、陛下」
「陛下?」
「……あなた」
あの誕生日の夜以来、わたくしたちの間に出来た暗黙の約束事。
陛下の寝台にいる時は、それがただの添い寝であれそうではない時であれ、「陛下」と「王妃」は封印。
ただのベルグリンデとエゼルレッドとして過ごすこと。
それからもう一つ、これは陛下の寝室へ立ち入る従者達への通達。
『王妃が泊まられた翌朝は、侍従長と王妃の筆頭侍女以外の出入りを禁ずる』というもの。
それが例え、この国で最も重要と言える祝祭の朝であったとしても――――
陛下の胸元に寄り添いながらずり落ちていたシュミーズの肩を直していたら、朝には珍しい空腹感を感じた。
昨夜は夜食も食べず、陛下と遅くまでボードゲームへ熱中してしまっていたせいね。明日は早いと解っていたのに、つい。
そんなわたくしの心中を読んだかのように、心なしか強めのノック音が扉の方から聞こえてきた。
陛下はわたくしへ毛皮のついたガウンを羽織らせると「入ってくれ」と声をかける。
「おはようございます、国王陛下。王妃殿下」
「中つ国の両陛下にご挨拶申し上げます」
扉を開いて入ってきたのは、洗顔用の道具とハーブティーを乗せたワゴンを押す侍従長。扉を押さえて後に続いたのはエディス。
二人とも、そんなにソワソワしなくても大丈夫よ。時間はたっぷりあるじゃない。
洗面器で顔を洗って、お湯を絞ってもらったタオルで拭う。ほっと一息ついたところで、エディスのハーブティーを一杯だけ飲めば、わたくしは退出の時間だ。
「またあとで」
「ええ」
またすぐ会えるのだから、挨拶は短く。代わりにガウンをぐるぐる巻きにされたわたくしが陛下の部屋から出ると、廊下はまだ薄暗く、淡い陽の光がまばらに差し込んでいた。
今朝も冷えること。陛下のガウンがなかったら風邪をひいていたかも。
そんなことを考えつつ、エディスを連れて廊下を急ぐ。
わたくしの自室の外では、身支度手伝いの侍女や下女たちがわたくしの到着を今か今かと待ち構えていた。
「おはよう、みんな。早速だけど部屋に入ってからにしましょう」
先んじてわたくしが声をかけると、目に見えてほっとした顔の彼女達がエディスの後に続く。
自室の中は暖炉の薪が赤々と燃え、すっかり温まっていた。
あらためて、わたくしはエディスを始めとする侍女下女達から祝辞を受け取る。なんのと言われたら、それはわたくしの即位一〇年と、同年数の結婚生活について。
そう。今日は『統治創始記念日』。国を上げて祝われる祝日であり、わたくしたちの即位記念日。また結婚記念日でもある。
当然、当事者たるわたくしたち二人にとって、最も忙しない一日。
今頃陛下も侍従長のお小言を受けながら身支度していることだろう。
なんて、エディスの手によりガウンを剥ぎ取られつつ思うわたくしなのだった。
後は流れに身を委ねるまま、香油入りのお湯での清拭、髪の下準備、新しい下着の着用、化粧をしてからのドレス着用、髪結いの最終調整と、エディス主導のもとてきぱき準備が進められて行く。
今日は誕生日とは違って、主役は統治を開始された陛下。しかしわたくしも共同統治者としての威厳を保った装いでなくてはいけない。
だからドレスは深紅の天鵞絨。アクセサリーは金細工に大粒のダイヤモンドが配された首飾り。耳飾りもダイヤを選び、同石が並ぶティアラと彩りを揃える。今日は重たくて逃げてるチェーンベルトも着けるわ。もちろん金細工のものをね。
自分で決めたこととはいえ、侍女達の手を借りながら全てを身につけ終わると軽い目眩を感じた。重いわ、本当。
それに今朝はお腹が空いて仕方がないの。コルセットをあまり締め上げないでとお願いしたくらいよ。
すべての準備が整い、エディス以外の侍女下女たちが退出したのと丁度入れ違いに、ノックの音が響いたのは天の助けだったわ。いえ、実際は夫の助け、ですけどね。
現れた陛下は濃紺の天鵞絨に金糸で王家の紋章が大きく刺繍された儀礼服に、やはり紋章入りの長いマント、そしてその腰にはわたくしのチェーンベルトと対照的な儀礼の剣を帯びていた。後々王冠を着けるためだろう。いつもよりしっかりと撫でつけられた銀髪が、濃紺の彩りに一層映えている。
「素敵ですわ。国王陛下」
「君もだ。……私の王妃」
差し出された腕を取り、食堂へ。長いマントを踏まないようにするのにも、お互いずいぶん慣れたわ。
祝宴ではどうせろくに食べられないのだからと、わたくしは食欲の赴くまま朝食を堪能した。
私の健啖っぷりに対して陛下は分かりやすい安堵の表情を浮かべていた。
なにかしら。最近はよく食べるようになったし、そんなに注意されてた頃みたいにほっとされると、気になるわ。
わたくしの怪訝な視線を読んだのか、陛下が小さく笑って弁解する。
「……今朝は、すこし顔色が優れなかったからな」
「仕方ありませんわ。夜更かしは美容の大敵ですもの」
楽しかったのだから仕方がない。陛下も共犯ですよ、と言ったわたくしに、陛下はなら仕方がないな、と笑ってティーカップを掲げた。
式典は、朝の一一の鐘が鳴るころに始まる。この日のために主要な貴族はもちろんのこと、普段は国境警備についている辺境伯も出席し、序列に沿った並びで最上手から着席していく。従者の数も誕生日の比ではないし、大広間への入場が許されるのは子爵まで。男爵級の貴族は城の見学が許され、正門広場での催しなどを楽しんでもらう。騎士たちは無論のこと、警備の責任者だ。
陛下による統治創始式典の開式が告げられ、姿がすっかり様になった元内務大臣の宰相が、建国史の朗読に入る。グウィンアルト王朝が陛下の代まで継承され、これからも続くであろうことを示す言葉で、朗読が終わる。
拍手の中、立ち上がった陛下が前に進み出る。次は国王陛下による演説。片手を挙げて場を静めた陛下の声が、大広間へ響き渡る。その頭上には、王者たる彼の冠が輝いていた。
「統治に終わりはない。それは守ること故だ」
一瞬、わたくしのほうへと陛下の眼差しが向けられた。深く頷いて見せたわたくしに、陛下も目を細めて再び聴衆へと向き直る。
「我らグウィンアルト王家はいままでも、そしてこれからも、国家と命運を共にするだろう――――中つ国の盾として」
途端、割れんばかりの拍手が起こった。国王陛下万歳の声も聞こえる中、今度はわたくしの番。静かに進み出ると、拍手もまた引いていく。
「これまでの歩みは、決して平坦なものではありませんでした。わたくしたちは一つ一つの石を埋め、石畳の道を造るように、この日までを歩んで参りました」
これはわたくし個人の実感もこもった言葉である。昨年――もうすぐ一昨年になろうとしている――からここまでは、本当に波乱の連続だった。
特に、まだわたくし自身に王妃として終えていない務めがあるからこそ、なおのこと。
「そしてまた、ここから先の道を敷くとき。わたくしはこの冬を越え、これからは春の芽吹きに喜びを感じるような文化の種を撒き、いっそうこの国を彩り豊かなものへと導いてゆく所存です。どうか皆が、その歩みに連なってくれることを願います」
そう、未知が待つ新しい世界へ、あなたたちは恐れずについてきてもらわなくてはいけない。再びの拍手喝采を受けながら、わたくしは微笑みを残して席へと退いた。
やがて始まった祝宴。今日は出席者が多いので立食形式で、出されるものも軽食中心。主役は白葡萄のワインだ。
わたくしたちも王族席を下り、歓談の場へと入って行く。多くは型通りの挨拶だが、中には「あら、一か月ぶりですわね」なんて冗談を交えた挨拶ができるようになった貴族たちもいた。
特に広場の奥、立ち見状態だった子爵級の貴族たちは、ここぞとばかりに縁のある伯爵家などの伝手を頼って、わたくしたちへ紹介してもらおうと懸命になっている。
その必死さに免じて、あと文化面に造詣の深い貴族を探すという目的もあり、わたくしは一人一人へきちんと応対していた。
その矢先だった。
「あ――――」
「……大丈夫か?」
「ええ、ありがとうございます」
軽いめまいで指先から力が抜けかけたのを、陛下の手が支えてくださった。
それを見てか、遠巻きにしていた貴族たちからわたくしの顔色について囁き合う声が聞こえる。
こんな大事な日に、余計な噂でも着いたらたまったものじゃないわ。
「本当に今年の葡萄、とくに白は素晴らしいこと。杯が過ぎるのも無理ありませんわ」
わたくしは微笑みながら、陛下が支えてくださったそのグラスを空にして見せたのだった。
主要な式典は終わり、いまは大広間で宴が続いている。
酔いを醒ますため、と少しその場を外したわたくしたちは、今にも雪が降り出しそうな雲と、そこから垣間見える白い日差しを眺めながら中庭を歩いていた。
「ベルグリンデ、今日はもう下がった方がいい」
酔いだけではないだろう、と大広間で隠していた分の心配を露にした声へ、わたくしはくすりと笑って見せる。
「統治一〇年の節目の年に、王妃が逃げられるものですか」
あなたの戦場があったように、わたくしの戦場はいまここなのだから。
ちっとも言うことを聞かない妻へ困ったように、けれど少し頼もし気な笑みを浮かべたように見えたのは、わたくしの気のせいかしら。
王冠を外した彼の顔を見上げる。いまではもう、どんな気分なのか、楽しいのか、つまらないのかもわたくしにはお見通しよ。
両手を伸ばして、少し赤くなっている頬をそっと包んだ。
「大丈夫です。戻りましょう」
わたくしたちが戻って、再びあいさつ回りを始めてしばらくのちに、宴の終了を報せる五つの鐘が鳴った。
その日最後の祝砲の音を聞きながら、わたくしたちはバルコニーに立って帰途へ着く貴族たちを見送る。
ああ、結局鴨のハムが挟んであるサンドウィッチ、食べられなかったわね。好きなのに、あれ。
にこにこ笑って見せながらも、わたくしは白ワインでたっぷり満たされてしまったお腹のことを考えていた。
ともあれ、中つ国における一二月最大のイベントは、こうして幕を下ろしたのだった。
「……少ないな」
「なんです。急に」
季節が流れ、新年を迎え、氷柱が雫を滴らせる頃。いつも通りの朝食の席で、至って真面目くさった顔で陛下が低く呟いた。
わたくしは素知らぬ顔でハーブティーを飲んでいるけれど、本当は言いたいことが解ってる。
食欲がわかないのだ。
食べ残しも増えてしまったし、なにより――――以前は好物だった鴨のハムやデザートまで残すようになっていた。なんだか、前より美味しく感じなくなっていて。
これじゃいつもこちらを観察してます、と公表済みの陛下の関心が傾くのもむべなるかな。
とはいえ、入らないものは入らない。
「以前の君の食べ残しは、好物を食べるための余白だっただろう。……いまはその好物さえ残している」
「味覚が変わったのかもしれませんよ」
他人事の風を崩さないわたくしへ、埒が明かないと思ったのか、陛下は一気に王手をかけてきた。
「侍医に診てもらえ。この後すぐ。俺は朝議があるから同席はできないが――――」
「なんです。たかが食欲が落ちた程度で……」
「王妃」
出た。陛下の最終兵器。
これ以上は言わせるな、という無言の力を秘めたその呼び方。
わたくしはといえば、これ以上この程度のことでやりあうのがばからしくなってしまい、白旗を上げることにした。
「分かりました。侍医を部屋に呼んで診てもらいます。それでよろしいですか?」
「ああ。それでいい」
満足そうにうなずいた陛下はハーブティーを飲み干すと、席を立ってわたくしの肩に少し触れてから退席していった。
わたくし、こんな調子で陛下にやり込められることが多くなった気がするわ。
ボードゲームも負けっぱなしだし。勝てはするのよ?でも負けの数が多すぎるの。
今に見てらっしゃい、とテーブルクロスの下で拳を握りつつ、わたくしはその背中を見送りながら密かに闘志を燃やしていた。
「――――おめでとうございます。妃殿下」
そんな闘志へ水をかけるどころか、凍らせるような言葉を聞くなんて、思いもよらず。
「……は……?」
「おそらく三か月目程度かと……今年はとくに、温かくしてお過ごしください。それと召し上がられるものにつきましては……」
硬直するわたくしをよそに、最早顔なじみの宮廷侍医はにこにこと言葉を続けていく。
何を言われてるか、よくわからないんだけど。
わたくしの呆然とした視線は目の前の彼を離れて、その後ろに控えているエディスへと向けられる。
エディスは頬と目元を真っ赤にして、今にも叫び出しそうなのを堪えるように重ねた両手を口元へあてていた。
エディス、それは驚いてるの?それとも、喜んでるの?
わたくし――――わたくし自身、よく解っていないんだけれど。
やがて侍医が退席すると、少し失礼いたしますと頭を下げたエディスが止める間もなくわたくしの部屋から飛び出していく。
一人残された部屋で、長椅子に座ったままぼうっと視線を巡らせた。あ、勇者たちの肖像画、ちょっと傾いてるわ。
直させないと、いえ、あれぐらいなら自分で。
そんなとりとめもない考えに逃げようとしたわたくしの耳が、慌ただしい足音を捉える。
「ベル!」
「……陛下」
いまは二人きりでもないんですから、その呼び方はちょっと。
そうお小言を言おうとした唇が、上手く動いてくれない。立ち上がろうとしたわたくしを制するように、小走りに駆け寄ってきた陛下が、すぐ眼の目の前で膝をついた。
あなた、どこから来たら、そんなに息が上がるの?
朝議は終わってる時間だろうし、執務室から?でもその程度で息を弾ませたりするかしら、この人が。
わたくしの目は冷静に陛下の様子を観察する一方で、その手はそっと、自分の腹部にあてられる。
この人が、こんなに息を弾ませて駆けつけてくれたなら。
「……ここに、いるようです」
これはどうやら、夢でも何でもないらしい。
「――――っ……!ベル、ベル……ありがとう」
感極まったと言わんばかりに抱きしめられて、耳元でそんな声を聞かされたら。わたくしだって認めざるをえないじゃない。
鼻をすする音が聞こえたかと思えば、陛下の肩の向こうでエディスがさっきと同じポーズ――ただし今度は目を潤ませて――で立っていた。傍らの騎士がそれに気づいて、ハンカチを差し出そうとしている。
「……陛下」
「っなんだ?」
「……うれしいです。あと、ちょっと苦しいです」
「!すまない」
ようやく緩んだ腕を導いて、わたくしの隣に座らせる。
そう、わたくし、きっと嬉しかったのよ。
嬉しすぎて、それ以外のことが上手く考えられなくなっていたの。
陛下の肩と腕に、こつりと頭を寄せたら、やっと落ち着いて呼吸ができた。
「おめでどうございまず、妃殿下ぁ……!」
借り物のハンカチは辞退したらしいエディスが、自分のハーブの刺繍が入ったハンカチをくしゃくしゃに濡らしながらそう言ってくれた。
わたくしは陛下に寄り掛かったまま、小さく微笑んで「ありがとう」と返す。
そして居合わせた騎士たちからも祝辞をもらい、わたくしと陛下、そしてエディスと騎士たちだけのわたくしの部屋の中は、温かな空気で満たされたのだった。
その後、初産は何が負担になるかわからない、という陛下の考えのもと、安定期に入るまで妊娠したことは極秘とすることが決定した。
わたくしにも反対する意思はなかった。なにが起こるのか分からないのが妊娠だと、王妃教育でも、なにより亡きお母様が産まれる筈だったわたくしの弟を亡くしたあと、寝たきりになってしまった幼いころの強烈な記憶が、わたくしをより慎重にさせた。
けれど、人の口に戸は立てられないというか、雰囲気がにじみ出てしまうというか。
わたくしたちのみならず、エディスや騎士たちの様子から、なにかわたくしたちに慶事があったらしい、という噂が城内を駆け巡るまで、そう時間はかからなかった。
そう、わたくしは目の前の足元に集中するあまり失念していたのだ。
わたくしとて、人の噂の的になることがあるということ。
それを、見聞きしている者たちは、決して味方ばかりではないということを――――
●
荘厳な白亜の礼拝堂へ、昼の鐘が響き渡る。
昼の祈りを終えたその老人がゆっくりと立ち上がると、その装束が静かな衣擦れの音を立てた。
重ねられた布地と刺繍。それに何よりその短く切り添えれられた頭に添えられた帽子が、その立場を物語っている。
ここは西方神殿、大聖堂内の礼拝堂。中つ国の国境から遠く離れた、西の信仰の拠点である。
この神殿は厳格な戒律と修行で知られ、優秀な数多の神官を輩出してきた。
そしてその神官たちの頂点に立つ神殿長こそが、いまここで祈りを終えた人物、イノケンティウスである。
礼拝堂は静粛であるべき。彼の教えに従い静寂を保っていたそこへ、不意の異物が混じりこんだ。
布を捌く人の足音。それも急ぎ足の。
しかしイノケンティウスはそれを咎めもせず、目の前にある光明神像の、唯一の黄金部分である光輪の美しさを見つめていた。
足音は、イノケンティウスのすぐ後ろで止まった。
「……何事だ?」
彼の後ろに着いた神官が、即座に耳打ちする。
「……なるほど……なるほどな」
イノケンティウスは目を細めると、ゆっくりとその視線を自身の足元まで下げてかぶりを振った。
「嘆かわしい。かの王都でそのような邪説が蔓延っているとは。しかも王城はそれを見過ごし、浮ついた空気が流れている、などとあっては――――」
そこで再び、彼のそれまでの苦行を刻み込んだかのような皺の寄る顔を上げたイノケンティウスが、光明神の光輪を見つめる。
「――――かの地は、教えの導きを欲しているようです。主よ」
その声の響きはどこか陶然としていたが、白亜の神像が答えることは無論、なかった。
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