24. 王妃の誕生日
「君の、本当に欲しいものをあたえると――――約束したんだ」
その晩、陛下の部屋を飛び出したわたくしはどうやって自室に帰ったのか。
翌朝、寝巻に着替えた状態で目覚めたから、エディスの手を振り払うことだけはしなかったのだと、そう思いたい。
けれどその朝からわたくしの熱はぶり返し、わたくしは寝台の上で、一日のほとんどを過ごすようになっていた。
食堂には一度も行っていない。……陛下の面会も、エディスにうつるといけないからという理由で断ってもらうようにした。
目覚めては寝台の上でも、熱っぽい頭でも片づけられる仕事をしては、また眠る。
そんなことを、繰り返していた。
その日の朝も、わたくしはもう慣れてしまったけだるさを感じながら顔を洗い、エディスに髪を梳いてもらった。朝食は、当然のように一応ドレスに着替えて自室でとった。
それから面会謝絶は続けつつ、溜まっている仕事や報告書に目を通そうとはしたものの、結局、無理だった。熱にぼやけた意識では並べられた文字列までふわふわ浮ついて、全然頭に入ってこない。急ぎのものだけに署名と捺印をした時点で、わたくしは体調に白旗を上げ、心配するエディスの手を借りながら寝巻へ逆戻り。
薬を飲み、寝台へ潜り込むとすぐ体がほっとしたかのように睡魔がやってきて、そのまま眠ってしまったの。
熱に浮かされたその眠りのなかで、わたくしはまた夢を見ていたわ。
ああ、これは夢だなと、はっきり解る夢。
だってわたくしは幼い少女。令嬢時代の姿をして、領地の城の庭を駆け回っていた。木陰のテーブルではまだ起き上がれていたころのお母様がいて、わたくしを見守ってらしたわ。やがて花冠を作り上げてお母様に手を振ったわたくしは、領地の庭の先に、まるで待ち合わせをしている人がいるかのように駆け出して行った。意識は、空を飛ぶように少女の背中を追いかける。
――――その人は、いいえ、少年は初夏の風に銀髪を揺らしていた。
わたくしが当然のように名前を呼びながら駆け寄ると、振り返ってあの薄青い瞳を細めてわたくしを出迎えてくれた。
そして、わたくしは下ろされた彼の頭に、花冠を被せてあげた。顔を上げた彼と、少女のわたくしは手をつないで歩き出していく。……遠ざかっていく。
知るはずのない。ありえるはずもない光景。
(……これは夢よ、ベルグリンデ)
だから、目覚めなさい。あの晩、彼の手を振り払ったのは、お前自身なのだから。
幸せな光景の中でも、幸せに満ちているからこそ、虚飾と解るそれが歪み、色を無くしていく。
すべてが白く、とけていく。
「――――…………」
目覚めても、視界は緩く歪んでいた。瞬けば眉間を横切り、枕につけた右側の眦を通って熱いものが伝っていく。
わたくしは無造作に、その顔を濡らすものを手でぬぐい取った。バルコニーに面した大窓から差し込む光は、昼の白さから金色を帯び始めていた。
寝室は、独りの静けさに満ちている。
そう、これが現実。
丁度聞こえた控えめなノックの音に、わたくしはまた寝台へ横たわりながら「どうぞ」と声をかけた。
「お目覚めでしたか、妃殿下。ご気分はいかがですか?」
扉を開いて顔を出したエディスが、いつも通りの確認をする。
「薬がずいぶん効いたみたい。よく眠れたし、熱っぽさは残ってるけど朝ほどじゃないわ」
「それはようございました!」
このやり取りもいつも通り。そう、わたくしの体調は一進一退を繰り返していた。まるで、足踏みをするように。
「ご昼食は召し上がられそうですか?」
「そうね、スープとか……軽いものなら」
「畏まりました!」
そんな会話をかわしながら入ってきたエディスの手の中に、いつもはないものを見つけてわたくしは瞬く。
「あら……摘んできてくれたの?」
その手にある鮮やかな紫や黄、青や白といった細やかな彩り。大きさからパンジーとビオラを織り交ぜてあるのが解る。そんな小さなブーケを生けた花瓶を、エディスは寝台のサイドテーブルに据えた。
寝室にはもう大きな花瓶に温室育ちのいろんな草花が活けてあるけど、このパンジーやビオラは多分、中庭で咲き始めたものだろう。
わたくしの問いに顔を上げたエディスは、微笑みながら、ゆっくり首を横に振った。
ちがうの?じゃあ、誰が――――
「――――陛下が、お休み中にいらっしゃいました」
心臓が跳ねる。上掛けの胸元へ載せていた手は、無意識のうち、そこへ皺を寄せていた。
「……そう」
わたくしの声の硬さに気づいた風もなく、エディスは微笑まし気にその花弁を眺めている。
「妃殿下、パンジーやビオラの花言葉をご存じですか?」
「…………『私を思って』」
パンジーとビオラは、実質同じような花だ。名前を分けているのはその花弁の大きさだけ。だから、花言葉も共通したものが多い。
昔、まだ庭を自由に出入りすることが出来た頃。わたくしに草花の楽しさを教えてくださったのは、今は亡きお母様だった。
思い出を手繰り寄せて答えたわたくしへ、エディスの眼差しが向けられる。
「仰る通りです。ほかにも『心の平穏』。両者は似ているためか、共通したものでは、紫は『思慮深さ』、黄色は『小さな幸せ』などがございます。白いビオラは『純真』、青は『誠実な愛』でございますね」
素敵なブーケですね――――そう言った彼女は、華やかな色どりの中を支える小ぶりな白や青へそっと触れて、すぐに手を放した。
昼食をご用意しますねと言い残し、エディスは退室していく。
また独りになった寝室で、わたくしは枕元から少し離れた、けれど手を伸ばせばすぐ届きそうなその花弁を見つめていた。
「…………ちいさな、しあわせ……」
茫然とした呟きを、拾い上げる人は誰もいない。
戦場上がりで花言葉などろくに知らないだろうあの人が、間近に迫ったわたくしの誕生日や、来月に行われる統治創始記念日――その即位と結婚を記念した祝日――の準備で忙しいだろう人が、中庭で小さな寄せ植えを前に身をかがめている姿が思い浮かぶ。
ブーケになるような背の高いものを選ぶのは大変だっただろうに。
忙しい合間を縫って、冷たい空気の中、あの太い指で摘んだのだろうか。
(……国王のすることじゃないわ)
冷ややかな感想が浮かぶ。それなのに、胸から喉へこみあげたものは目頭までを熱くして、そのまま溢れ出ていってしまった。
「……っほん、とうに……なにを、してらっしゃるの――――……あなた」
ブーケを受け取った日から徐々に、わたくしの熱やけだるさは失われていった。
そして日々は淡々と過ぎ、その日を迎えた。
一一月の半ばも過ぎ、鮮やかに色づいていた木々が寒々しい枝を残すばかりとなった晩秋。
わたくしの、誕生日当日。
念入りな確認から完全回復、と侍医の太鼓判を押されたわたくしはエディスを筆頭にした侍女下女たちを率いて、慌ただしい支度に追われていた。
彼女たちからの祝辞を受け取り、エディスが選んだハーブの香油を垂らしたお湯で軽い清拭をした後は、髪を梳いて巻き上げるように結い上げる準備を。侍女たちの手を借りながらリネンのシュミーズ、コルセット、ペチコートたちを。それからようやく鏡台の前に着いて、エディスがわたくしの顔に化粧を施していく。
「……頬紅は薄い方がいいかしら。熱は下がってるけど」
「ご安心を、もとより淡い色でもいまの妃殿下のお顔色なら十分に映えます!」
いつもより気合の入ったエディスの声にくすりと笑みがこぼれる。
紅をさし終えてからは、ドレスの着付け。エディス達の手を借りながら、わたくしは熱が下がったあとに選んだ象牙色に金銀の刺繍が施された淡い色のドレスを身にまとう。
再び鏡台の前に戻ると、エディスが首元や耳元用に用意された装身具を確認し、バランスを見つつ真剣な顔つきでわたくしの髪を結い上げていく。
ここは下女に任せる婦人も多いみたいだけど、わたくしはエディスを重用し始めてからほとんどすべて彼女へ任せることにしていた。だって、その方が安心するんだもの。
勉強熱心なエディスはどんどん器用になっていく。今回もあっという間に、わたくしの長い髪をまとめ上げてくれた。
銀糸で刺繍された細いリボンのような細帯がスクエアネックの首元に着けられ、わたくしの耳元には陛下から送られたあのアクアマリンの耳飾りが揺れる。
最後にティアラを身に着け、やはりエディスの選んだ香水を一吹きすれば――――
「おめでとうございます……っますますお美しいです、妃殿下」
「……二回目よ。でも、ありがとう。エディス」
感無量、といった感じのエディスにやはりわたくしは笑ってしまっていた。
姿見の中には、淡い色を基調としながらも、その中に二粒の青が映える装いとなったわたくしが映っている。
わたくしが選んだ、今日の日のための装いだ。
(……大丈夫)
大丈夫。あの靄のようなけだるさは、もうどこにもない。
頭の中は、心臓は、落ち着いている。
支度を終え、下女たちが下がって間もなく、朝の陽ざしが差し込むなか、自室の扉がノックされた。
その時が来たことを感じながらも、わたくしは部屋の中央に立って動かない。
当然のように扉の方へ駆け寄ったエディスが、そっと扉を開き、そして深く礼をするのを見守った。
彼女の前を通り過ぎたその人が視界に映っても、わたくしの頭の中は平静だった。ただ、鼓動はゆっくりと、すこしだけ速度を上げた気がした。
光の中に立つわたくしを見た彼の薄青い目が、僅かに見開かれる。薄く開いた唇から漏れた「……綺麗だ」という呟きは、本当なら、もっと近くに来てから仰るべきよと思いつつ、わたくしも彼へ向かって歩を進める。
「中つ国の国王陛下に、ご挨拶申し上げます」
「ああ……体調は、大丈夫か?」
「ええ」
深い礼から上げられたわたくしの顔色を確かめると、ようやく少し安堵したように「そうか」と呟いた陛下。その手が何気なくわたくしの紅色の頬へ伸ばされ、寸前で壊れ物に触れようとしたかのように止まる。
「――――大丈夫です」
もう、大丈夫。わたくしはゆっくりと顔を傾ける。あまり強く押し付けたら頬紅が取れてしまうから、そっと添えるだけ。
それでも、その温もりは十分に伝わった。陛下にもそれが、伝わるといいと思いながら。
その後、陛下のエスコートで食堂へ向かい、侍従長やほかの使用人たちの祝福を受け取りながら、ここにはいない宮廷料理人たちが贈ってくれた無言の祝辞――わたくしの好きな物ばかりを並べた朝食を食べた。
久しぶりの、二人での食事。美味しかったけれど、それよりもお互いに距離を探るような少ない会話が、なんだか無性にくすぐったかった。
「すこし、歩けるか」
わたくしが食後のハーブティーを飲んでいると、同じものを飲み干した陛下がそんなことを言い出した。
食事をしたばかりだけど、お茶も飲んだし少しくらいなら苦ではないわ。
「はい」
「よし……行こう」
何か決意を秘めたようなその声音に、わたくしは内心首をかしげる。
席を立ち、差し出された腕を取って歩き出す。食堂を出て、エディスや騎士たちの足音を聞きながら、廊下を進む。
「……一体なんです?」
少し歩く、というならいつもの中庭などかと思ったけれど、陛下の足はどんどんそこから遠ざかっていく。
「俺の選んだ、君への贈り物だ」
「陛下の……こんな奥にしまわれたのですか?」
「ああ。相応しい場所が、あそこにしかなかった」
場所?そんな大きなものを用意したの?
馬、は今の時期あまり出回らないし、なによりわたくし自身は乗馬が得意じゃない、というか、ほぼできないわ。
それに厩舎からも外の庭からもここは遠い、城の奥。廊下も薄暗い。
こんなところに来るのなんて、いつぶりかしら。ひょっとしたら初めてかもしれない。
そんなことを思ってるうちに、陛下が一つの扉の前で立ち止まった。扉の前には衛兵が二人。
「ここからは、遠慮してくれ」
後ろにいる面々へかける声が、頭上から降ってくる。
いったい何?隠すようなものなの?
わたくしの疑問符だらけの心中を知る由もない陛下は、行こう、とわたくしを促し、衛兵に目配せしてその扉を開けさせた。
途端、差し込んできた光が、廊下の薄暗さに慣れた目へ一瞬刺さった。
光?それに、緑、真新しい――――土の香り。
香りとほぼ同時に視界へ飛び込んできたのは、回廊に囲われた、真新しいと一目で解る庭だった。
庭自体は吹き抜けになっていて、晴れた空がよく見える。
唖然とするわたくしの腕を引いて歩き出した陛下が、「ここを」と言葉少なに、回廊柱横の短い石柱へ掲げられたプレートを指す。
自然と向けたわたくしの目に映ったのは。
『ベルグリンデの庭――――即位一〇年によせて』
ごく短い、けれどあまりも分かりやすいその言葉は。
「君の庭だ。……ベルグリンデ」
驚きを隠せないわたくしが振り仰げば、微笑む陛下がそこにいた。
「庭……庭を、造らせていたのですか……?」
「ああ、間に合ってよかった」
歩こう、と腕を引かれるままに、そのプレート横にあるゆるく弧を描いた石畳の道を行く。
そこは城の一番大きな中庭よりは小ぶりな、けれど一人には十分すぎる広さの庭園だった。
やがてたどり着いた道の先は円い広場。椅子やテーブルを中央に配置すれば、きっと小規模なお茶会くらいはできるだろう。
広場は四方に――わたくしたちが今きた道もふくめて――やはり弧を描く路が続いていて、ぱっと見ただけではその先は見えない。ただ、回廊や、あの出入り口に続いているだろうことはすぐ解った。
広場の隅にはやはり真新しい石造りの水盤が、真鍮製と思われる蛇口をつけて出番を待っている。きっと雨水をためて使うのね。
それぞれの区画には、まだ緑を残しているもの、香るものもあったけれど、多くは苗であったり、球根をうえたのだろう土が重ねられてる。
「……美しいです」
ぽつりと呟いたわたくしに、よかった、と笑みの気配が降ってくる。
「春の区画には、デイジー、プリムラ、勿忘草。初夏の区画には、山査子、野薔薇、ラベンダー。豊穣の区画には……麦、セージ、ローズマリー……常緑の区画には、樫、柊、それに……、……あとは忘れてしまったが、いつも緑の木々だ」
一つ一つを目で指しながら、陛下が説明を重ねていく。
「まだ空いているところも多い。あとは君が、好む花を植えてやってくれ」
「あの、正直、とても驚いています。あなたがこんなに草花に通じていらっしゃるなんて……」
正直な、ちょっと正直すぎたかもしれない感想だった。
だって、そうでしょう?わたくしの作った花冠を見てきれいだということはあっても、その花の名前はしらなかった陛下が。戦場にばかりいて、花は見るだけだったと仰ってた、あの陛下が。
「……覚えたんだ。君は、花が好きだろう?」
そんな、照れくさそうに苦笑しながら仰るなんて。
「話題についていけるほどじゃないが、妻の愛するものは、知っておきたい」
「……陛下」
そう付け足された言葉に、わたくしがどれほどの気持ちでいるかなんて、知りもしないで。この人は。
俄かに緊張を帯びたその横顔、わたくしの視線から逃げるようにしていたその横顔がこちらを向いて――――驚きの表情に、変わっていく。
わたくしは、瞬きをしたくなかった。その驚きの表情をつぶさに見ていたかった以上に、瞬いたら、きっと睫毛を濡らすものが頬紅も落としてしまうから。
「愛しています。――――あなたを。エゼルレッド」
驚きの表情が深まる。切れ長の瞳が円くなると、この人でもこんなにあどけない雰囲気になるのね。
「……いま」
「……何度もは呼びません」
そう言ったわたくしは、手袋のはまった指先で涙を吸い取った。よかった。間に合ったわ。
少し不服そうな声が斜め上から降って来たけれど、素知らぬ顔を通す。
「呼んでくれないのか」
「大切にしたいのです。知っておいてください。あなたの妻は、愛するものを大切にしまっておくこともある、と」
このアクアマリンの耳飾りのように。
つんと澄まして言ってやれば、少しの間をおいて、小さな笑い声が返ってきた。
「ああ……覚えておく。ベルグリンデ」
わたくしたちは、しばしそこで黙ったまま寄り添っていた。まだ遠い春を、こんなにも愛しく、待ち遠しいと思えるようになるなんて。
あなたは『推し』に嫉妬なさるけど、あなただって、わたくしのことを変えていらっしゃるのよ。
でも、いまはまだ言わないでおいてあげましょう。大事なものは、特別なときに、ね。
そうこうしているうちに太陽が庭園の吹き抜けからも見えるようになり、わたくしたちは体を冷やさぬうちにと城内へ戻っていった。
ヨハネスの淡々とした祝福を聖堂で受けて昼を迎えれば、始まるのは謁見の間での対応だ。主要な貴族たちが献上品を持参し、わたくしの誕生日への祝辞を述べていく。
この日ばかりは謁見の間の、王族の段の中央、普段は陛下の玉座がある位置にわたくしの椅子が据えられ、陛下の玉座はその斜め後ろに配置されていた。
けれど陛下は玉座に腰を据えることなく、なんとわたくしの椅子の傍ら、半歩後ろにたって来客たちを出迎えたのだ。
昨年は陛下が不在で訪問対応は取りやめたし、一昨年の距離なんていわずもがな。
そんなわたくしたちに、いつものすまし顔を取り落とした貴族たちの顔はちょっとした見ものだったわ。
彼らへの対応が終われば、今度は正門前広場を臨むバルコニーへ。この日ばかりは一般へも開放された広場に、大勢の王都民たちが詰めかけている。陛下の腕をとって現れたわたくしを、歓声が出迎えてくれた。
笑顔で手を振って応えながら、まかれる花びら、子供たちの無邪気な「ベルグリンデさま、おめでとうございます」の声にわたくしは驚いて見せたり、そちらへ手を振ったりと楽しいひと時を過ごした。
広場の民衆たちはわたくしが現れたあとは衛兵たちに整理され、順番に入れ替わっていく。やがて祝砲の音とともに開放時間の終了が知らされると、わたくしはゆっくり踵を返してその場を後にした。今頃、王都中央広場ではわたくし名義のスープや粥の配給が進んでるはずよ。寒いなか待っていてくれたみんなが、温まってくれるといい。
そしてここまでくれば、あと残っているのは一つだけ。
待ちかねていた貴族たちが円卓を囲んでいる。彼らは謁見を許された、限られた面々だ。
とはいえ大広間の両脇に控える従者の数を考えれば、小規模といってもそれなりの人数が集まっている。
「皆、わたくしを祝うため集まってくれたことに感謝します。今宵は城の料理人たちが腕を振るった贅を楽しまれてね――――乾杯」
『乾杯!』『王妃殿下、万歳!!』
長い言葉はいらない。というかわたくしもこんなこと言っている暇があったら、早く温かい料理を食べたいのよ。
笑顔を返して杯を干し、わたくしが着席すると同じく着席した彼らの席へ料理が次々に運ばれてくる。
根菜のスープに、鹿のロースト、鴨のパイ。白パンに蜂蜜酒や白ワインなどなど。最後は、林檎の焼き菓子。
艶やかな飴色になった林檎をふんだんに載せたそれが運ばれてくると、右の席に座っていた陛下が立ち上がる。
広間中の注目を浴びながら、この人は全く動じた風もなく、そして感情を大げさににじませることもない――きっとはたから見れば無表情ね――横顔で、口を開いた。
「我が王妃ベルグリンデの二〇年の健在に、そして共に王国を支えてくれた一〇年の歩みに、祝福を」
あとはごく短く、この節目となる祝いの日に、私は彼女へ城のある庭を贈った、とだけ。
庭について多くは語られなかったけど、装身具一辺倒だった彼が庭を選んだ、という発表に「おお」と声が上がる。驚きでしょう?わたくしだって驚いたもの。
陛下の祝辞のあと、デザートを食べ終えれば広間へ流れる音楽が変わった。貴族たちは席を立ち、わたくしたちも王族の席を離れると、手早くテーブルや円卓が両脇へ片付けられ、広間は歓談の場へと変わる。
さあ、あとひと踏ん張り。階段を下ったわたくしたちは、貴族たちへ声をかけながら進んでいく。散々お祝いしてもらったあとだけど、ごく短く個人的な挨拶も混じるそんな大事な時、一人の赤ら顔をした伯爵――格は落ちるけどその裕福さで知られてる――がわたくしにこんなことを言った。
「いやあ、今年は実り多く、両陛下も大変仲睦まじく過ごされているご様子に感服いたしました。これであとの実りは――――っとと、失礼、今年の葡萄の実りは格別だったようで、いささか杯を過ごしました」
格が落ちる理由も知れたものね。
そんな言葉で、今更わたくしが動じるとでも?
わたくしはにっこりと、あえて最上級の微笑みを進呈する。
「民の努力の賜物……あなたは、これからもその美酒へ酔いしれられる日々が続くとよろしいわね」
最後、目からだけその笑みを消して。
わたくしの返事へにやついたその口の端を引きつらせたその伯爵は、「は、はは、まことに……」とだけ絞り出すように返してきた。
わたくしは見せつけるように傍らを見上げると、ぱちりと視線の合った陛下が微笑みかけてくれる。
あの国王が笑った、と驚く周囲の気配がひしひしと伝わってきた、そんな時だった。
「妃殿下」
聞き覚えのある――当然よね、謁見の間で聞いたばかりですもの――重く太い声。その声を助けとばかりに、まるで声の主に場をゆずるというかのように件の伯爵は人垣の向こうへ引き下がっていく。
代わりに進み出てきたのは、髪に白いものが増えた、誰あろうエリネッド侯爵閣下。
……わたくしの、お父様。
「豊穣祭といい、今宵も素晴らしい宴でした。これからも王国と王室に、実り多き日々が続かれますように」
「ありがとう。侯爵家にも実り多い日々が続きますように」
頭を下げる姿も様になる、けれど淡々とした、事務的な挨拶。それなら謁見の間でもうしたでしょうに。こういう場でも必ず一度は挨拶に来る。それが礼儀だと言わんばかりに。
本当、変わらないわねお父様は。
そう思った時だった。顔上げたエリネッド侯爵が不意に、まるでわたくしたちを眩しいものでも見るかのように目を細めて、そして何かを堪えるような表情へと変えた。
「……お言葉、誠にありがたく。妃殿下もどうぞ、陛下とご一緒に、つつがなく過ごされますように」
初めてだった。そんな、噛みしめるような声と言葉は。
わたくし、上手に笑えていたかしら。目を丸くしたりしてなかったかしら。
なんとか平静を保っていたと、思うのだけれど。続いて、元は従弟で今は義弟、つまりわたくしに代わる跡取りとなった小侯爵の挨拶があり、小さく微笑んだ彼がお父様の背に手を添えると、彼らは静かにその場を後にした。
わたくしは、それだけで十分だった。
十分すぎるほどに、受け取った。
やがて窓外の空が宵闇の青から黒を深めるころ、宴は解散となった。
これで今日のわたくしの仕事は終わり。ようやく本当に、誕生日って祝われる日だったのねと頭の中が追い付いてきた時だった。
「部屋へ送ろう」
傍らの陛下が、組んでいた腕を解いてそっとわたくしの背にあてる。
わたくしは何重にも重なった布地の上からでも伝わる、その温かさに笑みをこぼしながらこう返した。
「……酔ったようなので、陛下のお部屋で風にあたってもよろしいですか」
陛下の片眉が上がり、わたくしの視線が逸らされないと気づくと、少し困ったようにその眉尻を下げる。
「……わかった」
それでも彼は微笑みながら、腕を差し出し直してくれた。
わたくしは遠慮なくその腕をとって、もはや通い慣れた大広間から陛下の私室への道のりを行く。
その間に、言葉はなかった。わたくしは自分の左胸の鼓動を聞きながらも、この夜の城内のように静まり返った心地でその廊下を歩いた。
「――――体を冷やすといけない」
そういってご自身のものだろうガウンを、バルコニーに立つわたくしの肩にかけてくださる。その気遣いは有り難く受け取って、けれど離れようとしたその手を、わたくしの手は掴んでいた。
左手と左手。右手と右手。
わたくしたちが、向かい合えるように。
「三つになってしまいましたね」
「?」
「陛下からの贈り物です。……パンジーとビオラのブーケ、ありがとうございました」
「……あれは、見舞いの品だ。誕生日のそれとは」
でも、今ならわかるのよ。
あの彩りに込められていた、あなたの気持ちが。
それがどんなに、わたくしの心を解かしたか。
「でも、うれしかったんです」
「それなら、よかった。だが……」
ベルグリンデ、と困ったように陛下が続ける。わたくしは陛下の右手をわたくしの腰へ、左手をわたくしの頬へと導いていた。
「……頬が、すこし冷たい」
「酔いは覚めましたもの」
「なら……」
けれどその先は言葉にならない。陛下の手はわたくしの腰と頬を捉えたまま、離れてはいかない。
だからわたくしが、今度はその腕を辿って、一歩前に踏み出した。
真っすぐに見つめていた瞼を、下ろして。
……ほんの少しの間を置いて、降りてきたその熱を確かめるように、すこし唇を動かすと、乾いた柔らかな熱がそれに応えるように二度、三度と啄んで、離れていった。
「……本当は」
「……本当は?」
いまや陛下の手はわたくしの背中と、頭の後ろにある。吐息も判るほどの距離では、目を開いても何も見えないけれど。
彼の、あの少し困ったような表情は、解る気がした。
「本当は……俺がそうだったように――――君が二一になるまでは、白い結婚のままでいる、と……誓いを立てていた」
「いますぐ捨ててくださいそんな誓いは」
どれだけ空気が読めないのだろう。いえ、読んだうえで言ったわね?ここまで平静を保ってたわたくしを怒らせるなんて、やるじゃないの。
だってその誓いは。
「その誓い、わたくしの気持ちはどこにあるのです?」
そうよ。わたくしの気持ちなんて、まるで考えてない。
「わたくしは……!わたくしは豪華な宴も、高価な贈り物も、もうなにもいりません。ただひとつ願いを聞いてくださるというなら。あの時の約束がいまもあなたの胸にあるのなら――――わたくしを抱き締めて!」
怒気の熱を帯びた言葉を、最後まで彼が聞いてくれてたかは判らない。
判らないけれど、気づけばもう、わたくしは強く。僅かな痛みすら感じるほどに強く、抱き締められていた。
かと思えば、その腕が緩んでいく。わたくしは咄嗟に、その胸へ顔を、背中に手を回していた。
「離さないでください。エゼルレッド――――わたくしのエゼル」
「遅い」
端的な低い声が降ってくる。それと同時に、まるで奪い取るかのように顔を上向かせられて、わたくしは深く口づけられていた。
「……もう、離せない」
はっきりと覚えている。その晩バルコニーで聞いたエゼルレッドの言葉は、それが最後だった。
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