祈る声
どれほど意識を失っていたのだろう。
暗闇の底を、ゆっくりと沈み続ける夢を見ていた。
水の中では音は届かないという。
けれど、その暗闇の海には一つだけ届くものがあった。
「……アテーナ。」
遠い。
父の声だろうか。
いや、違う。
父なら、こんな切羽詰まった声では呼ばない。
「アテーナ!」
今度ははっきりと聞こえた。
その声は水面を裂く一筋の光のように暗闇へ差し込み、沈みかけていた僕の意識を強引に引き上げる。
重たい瞼をゆっくり開く。
ぼやけた景色の中で、一人の青年が僕の肩を揺すっていた。
「エー……ギル?」
掠れた声が漏れる。
砂漠を何日も歩いた旅人のように喉は乾き、言葉は砂粒になって崩れていく。
「良かった……。」
エーギルは胸をなで下ろした。
その表情を見て、初めて気づく。
彼は泣きそうだった。
普段なら笑ってごまかす男が、今にも涙を零しそうな顔をしている。
それだけで胸騒ぎがした。
「何が……。」
起きた。
そう言おうとして身体を起こす。
「っ!」
背中に灼熱が走った。
まるで溶けた鉄を背骨へ流し込まれたような痛みだった。
呼吸が止まり、視界が白く弾ける。
「動くな。」
エーギルが僕の肩を押さえる。
「破片が掠っただけだ。傷は浅い。」
浅い。
その言葉とは裏腹に、身体は自分のものではないほど重かった。
腕にも力が入らない。
心臓だけが、檻の中の獣のように暴れていた。
僕はゆっくり周囲へ目を向ける。
そして。
言葉を失った。
街が、死んでいた。
昨日まで父と歩いた石畳は、赤黒い水たまりを映す鏡へ変わっていた。
市場は焼け落ち、店先を彩っていた果物や花は黒い灰になって風へ溶けていく。
いつもパンを焼いていた店。
父とレモンを買った八百屋。
近所の子どもが遊んでいた広場。
そのすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように崩れ去っていた。
風が吹く。
灰が舞う。
それは雪のように静かだった。
だけど冬の雪と違って、この灰は温かかった。
誰かの家が燃えた温もり。
誰かの命が消えた温もり。
それが空から降り続けていた。
「……夢、だよな。」
思わず笑ってしまう。
笑うしかなかった。
こんな光景を現実だと認めた瞬間、自分まで壊れてしまいそうだった。
「夢なら……。」
目を閉じれば。
家へ帰れば。
父が鍋をかき混ぜながら笑っている。
『レモネードできたぞ。』
そんな声が聞こえる気がした。
だけど…
どれだけ目を閉じても、
聞こえるのは爆発音だけだった。
耳を塞いでも。
鼻をつまんでも。
焼け焦げた鉄と血の臭いは肺の奥まで入り込み、僕の身体の中まで戦場へ変えてしまう。
「アテーナ。」
エーギルが静かに呼ぶ。
「ここを離れるぞ。」
「……。」
「九時になれば騎士団が来る。」
騎士団。
その言葉を聞いた瞬間、思考が止まった。
「助けに?」
無意識に口から出た。
騎士団は人を守るものだ。
そう教わってきた。
士官学校でも。
卒業演習でも。
命を懸けて人々を守る存在だと。
エーギルは首を横へ振った。
その動きはあまりにもゆっくりで、否定というより死刑宣告に見えた。
「違う。」
一言だけだった。
その一言が、胸へ突き刺さる。
「狩りに来る。」
世界が音を失った。
爆発も。
悲鳴も。
風の音さえ聞こえない。
聞こえるのは自分の鼓動だけ。
それは処刑台へ続く足音のように重く響いていた。
「……どういう、意味だ。」
震える声で尋ねる。
エーギルは答えない。
答えられないのだ。
その横顔を見ただけで分かった。
彼は何かを知っている。
そして、その真実は。
この焼け野原よりも残酷なのだと。
僕は無意識に家のあった方向を見る。
煙の向こうには、もう屋根すら見えなかった。
心の中で何度も叫ぶ。
父さん。
返事をしてくれ。
どこでもいい。
怒ってくれていい。
「心配したぞ」と笑ってくれるだけでいい。
だから…
お願いだから、生きていてくれ!
その願いだけが、灰色の空へ溶けていった。




