灰狼の悪魔
ナナは空から戦場を見下ろしていた。
炎。
崩れた森。
荒れた海岸。
そして、必死に足掻くジェシー。
その全てを、ただ静かに観察していた。
(想定通り)
彼女の中に焦りはなかった。
必要なのは、目的を達成することだけ。
敵がどれだけ強いか。
相手が何を考えているか。
そんなものは重要ではない。
結果だけが残ればいい。
ナナは視線を向ける。
ジェシーはまだ諦めていない。
最後まで戦うつもりなのだろう。
(理解できませんね)
なぜ、そこまで感情に左右されるのか。
なぜ、勝ち目の薄い状況で足掻き続けるのか。
ナナには分からなかった。
でも。
だからこそ、彼女たちは危険だった。
合理的ではない行動。
予測できない感情。
それは時として、計算を超えた結果を生む。
だからこそ。
これ以上の戦闘は避けるべきだった。
「今回の目的は達成しました」
ナナは淡々と言った。
◇
―――アテーナと別れてから。
隊長は、燃え始めた森の中を歩いていた。
周囲には炎の光が揺れている。
木々が焼ける音。
風に乗って流れる熱気。
普通ならば、一刻も早く離れるべき場所。
しかし、隊長の歩みに迷いはなかった。
「……来ルカ」
そう呟いた直後。
背後の木々の間から、声が響いた。
「おいおい」
軽い笑い声。
「逃げないとは思わなかったぜ」
姿を現したのはニッセだった。
いつものように、楽しそうな笑みを浮かべている。
「お前、なかなかやるじゃねえか」
ニッセは隊長を見る。
これまで何度も戦ってきた。
だが、目の前の男だけは違った。
どれだけ攻撃しても、どれだけ分身を増やしても、表情一つ変えない。
それが逆に気に入らなかった。
「だがな」
ニッセは周囲を見る。
ここは森。
木々が密集し、視界は悪い。
隠れる場所はいくらでもある。
「ここは俺の得意な場所だぜ」
「不意打ちし放題どこから攻撃が来るか分からねぇ。」
ニッセは笑う。
「つまり俺の勝ちってことだ」
隊長は静かにニッセを見る。
一瞬、隊長の目が鋭くなる。
「オ前、余裕デ殺セル」
その言葉に、ニッセの笑顔が止まった。
「……ヒッヒッヒ」
だが、すぐに笑い出す。
「言ってくれるじゃねえか」
「そこまで言うなら、見せてやるよ」
ニッセが手を広げる。
次の瞬間。
森のいたるところに、人影が現れた。
一人。
二人。
十人。
それ以上。
全て同じ姿。
全て同じ笑み。
「俺の魔法は分身だ」
ニッセの声が、森中から響く。
「分身は俺と同じように魔法を使える」
一体のニッセが前へ出る。
それに合わせるように、周囲の分身も動いた。
「どれが本物か分かるか?」
隊長は答えない。
「無理だろ?」
ニッセは笑う。
「数で押し潰してやるよ」
一斉に魔力が高まる。
炎、火球、火柱
様々な魔法が、四方から放たれる。
隊長は剣を抜く。
迫る攻撃を、最小限の動きで受け流す。
一歩。
また一歩。
しかし、分身は消えない。
攻撃を防いでも、次が来る。
「どうした?」
ニッセが笑う。
「さっきまでの余裕はどこ行った?」
「俺の分身は、俺と同じ魔法を使える」
「つまり」
ニッセは指を鳴らした。
「俺が増えたってことだ」
隊長は黙っていた。
その沈黙が、ニッセには不気味だった。
「……何だよまだ余裕ぶってんのか?」
ニッセは魔力をさらに高める。
「ならこれで終わりだ」
森全体に炎が広がる。
ニッセは笑った。
「インフェルノ・レグナント」
瞬間。
森全体が炎に包まれた。
炎が木々を包み込む。
逃げ場はない。
隠れる場所もない。
ニッセは笑った。
「ヒャハハハハハ!」
炎の中で、分身たちが揺れる。
「これでお前は逃げ場を無くしたな!」
「俺はあるけどな!」
勝った。
ニッセはそう確信していた。
この森は自分のための場所だった。
分身、魔法、地形。
全てが自分の味方だ。
だが――。
隊長は動かなかった。
「……?」
ニッセの笑みが少しだけ曇る。
「おいおいおいまだ余裕ってか?」
隊長はゆっくりと剣を鞘へ納めた。
「オマエ」
静かな声。
「浅ハカ」
「……何だよ?」
次の瞬間。
隊長が剣に手を添える。
「ヴァルヴァ」
剣が光を纏う。
その光は炎の中でも消えず、周囲を照らした。
ニッセは本能的に危険を感じた。
「……構えろってか?」
隊長が言う。
「構エトケヨ」
ニッセは反射的に構えた。
分身たちも同じように構える。
だが、その時。
ニッセは違和感に気づいた。
静かすぎる。
さっきまで響いていた炎の音。
分身たちの動く音。
全てが消えたように感じた。
「……何だ?」
周囲を見る。
そして気づく。
森が変わっていた。
炎を囲んでいた木々。
自分が利用していた障害物。
その全てが、いつの間にか切り払われている。
「……いつの間に」
ニッセの声が震える。
隊長は剣を下ろした。
「弱者二構ッテイル暇ハ無イ」
「おい……」
ニッセが一歩踏み出す。
その瞬間だった。
胴体が地面に倒れた。
体に力が入らない。
「……?」
視線を足元まで持っていく。
そこで初めて気づいた。
両足が丸太のように切られていた。
いつ斬られたのか、いつ攻撃されたのか。
何も分からなかった。
ただ、隊長の一撃はすでに終わっていた。
「ッ……!」
ニッセは息を飲む。
「足が…!」
自分の動きが止まっている。
魔法で支えようとしても、うまく魔力が集まらない。
「おい……」
ニッセは顔を上げる。
「まだ……終わってねぇだろ……」
隊長は振り返らない。
「オマエノ足」
静かに告げる。
「アイツニ喰ワセル」
ニッセはその言葉の意味が理解できなかった。
そんなニッセを背に、隊長は炎の向こうへ消えていった。
「待て……」
ニッセは必死に魔法を使おうとする。
いつもなら簡単に扱える力が、思うように動かない。
「なぜだ……」
「回復魔法が……」
焦りが広がる。
「……魔力まで持っていきやがったのか…誰か
助けてくれ!」
さっきまで笑っていた男の声から、余裕は消えていた。
ただ隊長の背中を睨むことしかできなかった。
「これが灰狼の悪魔……か…………クソっ…死にたくねえ…………誰…か……」
燃え続ける森の中、ニッセの声は誰にも届かなかった。




