静寂な街
トーマスたちと別れてから、およそ三十分。
僕たちは馬を走らせ、南方の港町へ向かっていた。
街道は整備されているものの、人影はない。
いつもなら荷馬車や旅人が行き交う時間帯のはずなのに、聞こえるのは馬の蹄が地面を叩く音だけだった。
僕は無意識に空を見上げる。
薄い雲の向こうから日差しが差し込み、風が草原を揺らしていた。
その穏やかさが、かえって胸騒ぎを強くする。
「オマエ。」
低い声が聞こえた。
前を走っていた男が振り返る。
灰色の長髪。
背中に一本だけ背負った長刀。
その鋭い眼光に思わず背筋が伸びた。
「アテーナ?」
僕は慌てて頷く。
「は、はい。そうです。」
男は僕をじっと見つめる。
まるで品定めをするような視線だった。
数秒後、小さく鼻を鳴らす。
「俺、ヨワイヤツ、興味無イ。」
それだけ言い残すと、馬の腹を軽く蹴り、先頭へ戻っていった。
「あ……。」
何も言い返せなかった。
傷ついたというより、あまりに突然で頭が追いつかない。
そんな僕の隣へ、一人の女性隊員が馬を寄せてきた。
「気にすんな、アテーナ君。」
明るい笑顔だった。
赤茶色の髪を後ろで束ね、年齢も僕とそう変わらないように見える。
「あの人、誰にでもあんな感じだから。」
「そうなんですか?」
「うん。」
彼女は苦笑する。
「褒めるときもあんな感じだし、怒るときもあんな感じ。」
「怒ってても変わらないんですか?」
「変わらない。」
即答だった。
「だから四番隊でも何考えてるか分かる奴、ほとんどいない。」
思わず笑ってしまう。
「そうだったんですね。」
「そうそう。」
彼女は親指で前を走る隊長を指差した。
「あれでも部下思いなんだけどな。」
「そうは見えませんね。」
「見えないよなぁ。」
二人で少し笑った。
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
ふと僕は気になって尋ねる。
「そういえば、あなたのお名前は?」
女性は「あっ」と声を上げた。
「ごめんごめん!」
頭を掻きながら笑う。
「自己紹介忘れてた!」
胸を張る。
「アタイはジェシー!」
元気いっぱいに名乗った。
「よろしくな!」
「よろしくお願いします。」
僕も頭を下げる。
「それで、隊長さんは?」
僕が前を走る男を見ると、ジェシーは腕を組んだ。
「えっと……。」
考える。
「……。」
さらに考える。
「……あれ?」
首を傾げた。
「名前……何だっけ?」
「え?」
「忘れた。」
あまりにも堂々と言うので、僕は聞き間違えたのかと思った。
「え、忘れた?」
「うん。」
ジェシーは悪びれる様子もなく頷く。
「ていうか、名乗ってるところ見たことねぇな。」
「隊長なのにですか?」
「隊長なのに。」
困ったように笑う。
「だから四番隊でも"隊長"って呼ぶ奴ばっか。」
僕は前を走る背中を見つめた。
本当に不思議な人だ。
「でも。」
ジェシーの表情が少しだけ真剣になる。
「あの人、本物だから。」
「本物?」
「巷じゃ【灰狼の悪魔】って呼ばれてる。」
その異名を聞いた瞬間、周囲の隊員が小さく笑う。
「また始まったぞ。」
「新人には毎回話してるよな。」
「だって知っといた方がいいだろ?」
ジェシーは肩をすくめる。
「敵から付けられた異名なんだ。」
「灰狼の……悪魔。」
口に出してみる。
なんとも物騒な名前だった。
「どれくらい強いんですか?」
「んー。」
ジェシーは少し考える。
「正直、アタイも分かんねえ。」
「え?」
「だって本気出してるところ見たことないし。」
さらりと言った。
「本気を出す前に終わっちゃうから。」
その言葉に冗談は混じっていなかった。
前を見る。
隊長は相変わらず無言で馬を走らせている。
その背中からは、不思議な威圧感だけが伝わってきた。
「だからさ、アテーナ君。」
ジェシーは笑う。
「暴走については心配しなくていいよ。」
「え?」
「隊長が必ず止めるから。」
それだけで十分。
そんな絶対的な信頼が、その言葉には込められていた。
僕は少し驚く。
隊員たちも誰一人否定しない。
この人たちは、本気で隊長を信頼している。
僕はまだ出会って数十分。
それでも、この空気だけは伝わってきた。
(……すごい。)
心の底からそう思った。
そんなことを考えていると、潮風が頬を撫でた。
「海だ。」
誰かが呟く。
視界の先に青い水平線が広がっていた。
その手前には港町。
大小さまざまな船が停泊しているはずの港。
……のはずだった。
「……。」
誰も喋らない。
違和感に全員が気付いたからだ。
船がほとんどない。
港に人影もない。
市場の露店は開いたまま。
木箱や網だけが転がり、風が布を揺らしている。
静かすぎた。
馬を止めたエーギルさんが周囲を見回す。
「敵の姿が見えませんね。」
その一言で隊員たちがざわついた。
「なぁエーギル。」
「ここで合ってるんだよな?」
「エーギルの内通がバレたんじゃ……。」
「最初から私たちの拠点を狙ってたとか?」
「待ち伏せじゃねぇよな……。」
不安が次々と言葉になる。
誰もが武器へ手を添え始めていた。
僕も剣の柄を握る。
嫌な予感しかしない。
エーギルさんは皆の声を最後まで聞いてから、静かに前へ出た。
「皆。」
その一言で隊員たちは口を閉じる。
「俺たちの勝利条件は、この港町の占拠だ。」
透き通るような青い瞳が全員を見渡す。
「だが、それ以上に大切なのは仲間の命だ。」
誰も反論しない。
「情報が不十分なまま突入する必要はない。」
ゆっくりと頷く。
「一度拠点へ戻ろう。」
その判断に、誰も異議を唱えなかった。
全員が馬の向きを変えようとした――その時だった。
「いいえ。」
澄み切った、美しい声。
まるで教会で歌う聖歌隊のような、透き通る声だった。
「その必要はありません。」
全員が同時に振り向く。
港の倉庫の屋根。
そこに、一人の少女が立っていた。
白い外套が風になびく。
僕はその姿を見た瞬間、息を呑んだ。
「だって。」
少女は微笑む。
その笑顔は、あまりにも綺麗だった。
「私が、皆さんを葬り去りますから。」
僕の喉が震える。
「……アラロス。」
思わず、その名を呟いていた。




