決戦前の違和感
訓練場へ向かう途中、アラロスがぽつりと尋ねた。
「アテーナさん。」
「ん?」
「どうして、あの日暴走したんですか?」
足が一瞬止まる。
思い出そうとしても、記憶は霧の中だった。
「……トーマスさんに刺されたところまでは覚えてる。」
それ以降は何もない。
自分じゃない誰かが、自分の身体を動かしていた。
「そこから先は、全部途切れてる。」
アラロスは少し考え込んだ。
「私の推測ですけど……。」
「命の危険を感じた時に、その誰かが表に出てくるんじゃないでしょうか。」
「命の危険……か。」
否定はできなかった。
胸の奥に眠る"何か"は、まだ目を覚ましている気がした。
「まあ、考えても答えは出ないね。」
僕は話を切り替えるように笑った。
「身体を動かそう。」
「はい。」
二人は訓練室へ入った。
冷たい空気が肌を撫でる。
僕は手を前にかざした。
「神よ、どうか御加護を。」
淡い魔法陣が浮かぶ。
「アイスランス。」
氷の槍が一直線に飛び、標的を貫いた。
乾いた音が訓練場に響く。
「……あれ。」
以前より深く突き刺さっている。
氷も透明度を増し、硬度が上がっていた。
「強くなってる……?」
眠っている間も、何かが僕の中で変わったのだろうか。
その時だった。
バンッ!!
勢いよく扉が開いた。
「おい!」
聞き慣れた声が響く。
エーギルだった。
「二人とも、出発するぞ!」
息を切らしながらこちらへ歩いてくる。
敵国からの内通から帰ってきたのだ。
「身体の調子はどうだ、アテーナ。」
「問題ない。」
軽く拳を握る。
「むしろ今が一番動ける。」
エーギルは安心したように笑った。
「そうか。」
その笑みも一瞬だった。
すぐに隊長の顔へ戻る。
「全隊、もう城門で待機してる。」
「馬も準備できてるぞ。」
僕たちは顔を見合わせ、小さく頷いた。
「行こう。」
城門前には、すでに八つの部隊が整列していた。
馬の鼻息。
誰も大声では話さない。
皆、この戦いが軽い遠征ではないと理解していた。
「アラロス。」
僕は立ち止まる。
「また後で。」
「はい。」
彼女は小さく笑った。
「またあとで。」
そう言って僕は第八部隊の列へ向かう。
トーマスがこちらに気付き、いつもの笑顔を浮かべた。
「お、来たね。」
僕はその隣へ並ぶ。
しばらく沈黙が流れた。
やがてトーマスが小さく呟く。
「……嫌な予感がする。」
「え?」
珍しく笑っていなかった。
彼は城壁の方を見つめたまま話す。
「この作戦、誰かが残るべきだ。」
僕は思わず眉をひそめる。
「どういうことですか?」
「もし敵の狙いが南方の街じゃなかったら?」
静かな声だった。
「僕たちが全軍で出払った瞬間、この本拠地を叩かれたら?」
その言葉に背筋が冷える。
「そんな……。」
「可能性は低い。」
トーマスは頷く。
「でも、ゼロじゃない。」
彼は僕の方へ向き直った。
「アテーナ君。」
「一番隊か五番隊に掛け合ってきてくれ。拠点防衛を頼めるか聞いてほしい。僕は三番隊に話をしてくる。」
その表情には、いつもの軽さはなかった。
隊長として、最悪の事態を見据える男の目だった。
◇
城門前では出陣の準備が着々と進んでいた。
馬の蹄が石畳を鳴らし、鎧の擦れる音が朝の静けさを押し流していく。
その中で、トーマスは一番隊隊長と短く言葉を交わしていた。
「ありがとう。」
一番隊隊長は小さく頷く。
「こちらこそ。拠点は任せてください。」
トーマスは振り返り、僕に笑いかけた。
「予定変更。」
「八番隊は四番隊へ編入。僕と一番隊はこの街に残る。」
「……やっぱり残るんですね。」
「嫌な予感は無視しない主義なんだ。」
いつもの笑顔だった。
けれど、その目だけは笑っていない。
「もし何も起きなかったら、それでいい。」
「何か起きた時に、誰も残っていない方が怖いからね。」
僕は静かに頷いた。
確かに、その通りだった。
そこへエーギルが馬に跨ったまま近づいてくる。
「配置は決まったか。」
「うん。」
トーマスは淡々と答える。
「一番隊と僕は拠点防衛に残ります。」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
エーギルの眉が僅かに動いた。
まるで、その返答が予想外だったかのように。
だが次の瞬間には、いつもの表情へ戻っていた。
「……そうか。」
それだけ言うと視線を逸らす。
僕はその反応が少し気になった。
反対するでもなく、賛成するでもない。
どこか計算が狂った人間のような間があった。
「何か問題でもあるのか?」
トーマスが探るように尋ねる。
エーギルは首を横に振った。
「いや。拠点を守る者も必要だ。任せる。」
短く言い残し、馬首を返す。
その背中を見送りながら、トーマスが小さく呟いた。
「……今の、見た?」
「え?」
「あの一瞬。大隊長は、拠点に誰かが残るとは思ってなかった。」
「そんな気がしただけだけどね。」
僕は苦笑した。
「考えすぎじゃないですか?」
「そうならいい。」
トーマスも笑う。
だが、その笑顔にはわずかな影が差していた。
やがて出陣の鐘が鳴り響く。
ゴォォン――。
重い鐘の音が街全体を震わせる。
エーギルは馬上から全軍を見渡した。
「各隊、出撃準備!」
力強い号令が飛ぶ。
兵士たちが一斉に武器を構える。
その光景を眺めながら、エーギルは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……チッ…予定が狂った。」
その声は鐘の音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
ただ一人、エーギルだけが遥か南の空を見つめていた。
その視線の先には、戦場ではなく――**彼だけが思い描く"新しい国"**があった。




