ミレーの砂浜(3)
海岸通りを馬車が走っていくのが見えた。道沿いと遠くの浜辺に人影がいくつか。顔を認識できる距離にいるのはこの場の五人と、エンディン王国展示館の警備員ふたり。
彼らにはあとで口止めをしておかなければと考えながら、私はアンディー・ロカに向き直った。その青い瞳は淡く灰色がかっている。
「ミスター・ロカ。どのような噂をお聞きになったのかは想像がつきます。状況をご存知のようですし、私と会ったことは他言しないでいただけますか。シルス大公家の関係者と接触したとなれば、やはりスパイだったと言われかねませんので」
目尻に笑い皺を作ったまま、彼はわずかに眉を寄せた。
「ネィ ノイ エンディネ ドラ ルイエ」
「わからないわ。サラ、彼は何て?」
「レディー、今のは訳さないでください。ネラ シルシィ デュナ エリア カルロス デディ セキュリ」
サラは困惑した様子で私とアンディー・ロカの顔を見比べた。一方、彼は悪戯っぽく人さし指を唇の前に立て、横に滑らせる。『内緒』の仕草のようだ。
「そろそろ私たちは失礼します。公女様、どうか素敵なお時間をお過ごしください」
アンディー・ロカは一礼し、「カルロス オヤ!」ともう一人の男に声をかけた。
外見の対象的な二人。馬を引く男は短い黒髪で、アンディー・ロカが曲線ならこの男は直線。アンディー・ロカが海ならこの男は岩礁。
「公女様、一緒に馬に乗って散歩するのはいかがですか」
アンディー・ロカは鐙に足をかけ、私を振り返った。
「遠慮しておきます。あまり体力がありませんので」
「そうですか。では、またの機会に」
「もうお会いすることはないと思います。明後日の午前にはミレーを発ちますので」
「きっとまたどこかでお会いすると思いますよ。では、よい旅を」
宿に戻るのではなく、砂浜をさらに先まで行くようだった。馬に跨るスードラ姿の男と、その隣で手綱を引く男は、絵画のようにこの砂浜に溶け込んでいる。サラに促されて波打ち際まで歩き、海に足を浸した時、二人は小さな豆粒くらいになっていた。
波が足の下の砂を奪い去っていく不思議な感覚。アンは裾を持ち上げて波から逃げ、いつになくはしゃいでいる。
「スタンリー卿も靴を脱いだら?」
「遠慮します。そういうのは休暇の時に」
「サラは?」
「私も遠慮しておきます」
「サラ、さっきミスター・ロカはなんて言ったの?」
サラが視線を泳がせ、私はある推測に確信を持った。
「ねえ、サラ。彼、本当は高位貴族ではないかしら? 従者をカルロスと呼んでいたようだけど、カルロスと言えばシルス大公家の後継者カルロス・サルガード・シルスと同じ名だわ」
サラは嘘がつけないタイプらしい。その口からは「あ、えっと」と言葉にならない声が漏れる。
「手綱を引いている男がカルロス・サルガード・シルスだとは思えない。主従関係は明らかにミスター・ロカが上だったから。だから、アンディー・ロカは偽名で、本当は彼が大公家のカルロス。彼がその事実をサラに明かしたのではないかと考えているのだけど、私は見当違いのことを言っているかしら?」
サラは「内緒と言われたのですが」と観念したようにうなだれた。アンとスタンリー卿は唖然としている。
「サラ、彼が『訳すな』と言った言葉は何? エンディンと聞こえた気がするのだけど?」
「ネィ ノイ エンディネ ドラ ルイエ。『やはり、あなたをエンディンに連れ帰るべきだ』そうおっしゃいました。公女様のことを心配なさっての発言のようでした」
「……それは、求婚状が届くかもしれませんね」
スタンリー卿が口にし、アンが「あぁ……」とため息。ふたりともまだ困惑している。
私はスタンリー卿の言葉について考えた。
一度目の人生、シルス大公家から求婚状は届いたのだろうか。もし届いていたとしても、その求婚を利用して大陸に手を伸ばすのは無理だったはずだ。なぜなら、アリシアは私を洗脳できなかったから。
実際にシルス大公家と婚約の話が持ち上がったのは異母弟デリック。相手はカルロス・サルガード・シルスの妹でシルス大公家公女ディアナ・エルミニア・シルス。
悪魔は大陸進出のためディアナ公女に目をつけた可能性がある。でなければ、私が死ぬ直前のあの時期にフランクリン公爵家の後継者とシルス大公家公女の婚約が持ち上がるはずがない。
「いずれにせよ」
スタンリー卿の声で我に返った。彼は砂浜の先を見ている。
「先方も素性を伏せているのですから、ここで公女様と会ったことは他言されないと思います」
「そうね。でも、彼が私の前でだけ偽名を使ったのか、入国時から偽名で活動してるのか確認しておきたいわ。サラ、あとで宿に照会してみてくれない?」
承知しましたとサラは答えたが、宿に問い合わせるまでもなかった。彼らはエンディン王国展示館にも何度か訪れているらしく、警備員から話を聞けた。
「シーライン商会のアンディー・ロカ様だとうかがっています。展示品のことで館長と面会されていました」
ふたりが口を揃えてそう答えた。つまり、カルロス・サルガード・シルスはアンディー・ロカという名前で実際にシーライン商会で仕事を任されている――ということだろうか。
マダム・クロエのことが頭を過る。
身分に縛られず、もうひとつの名を持って自由に生きる人。
カルロス公子もそういう人なのかもしれない。




