喋る金魚と悪魔の妹(2)
ニールがいなくなると、出目ちゃんは自分の存在を主張するように体当たりしてきた。なでてみるとちゃんと触れるけれど、感触はどこか曖昧で、金魚の生々しさはない。生臭くもない。
「果菜。なんでさっきのやつはぼくに気づかないんだ? ここはどこだ?」
「ここはライニール王国の王宮の、広間の近くにある休憩室」
「どこだそれは?」
「その前に、どうして出目ちゃんは喋れるの? 水がないところを泳いでるの?」
出目ちゃんは体をかしげる。
「水がない? ああ、たしかに何か違うと思った。しかし、喋るのはいつも通りだろう? まあ、今日は妙に会話が噛み合ってるから変な感じがする」
果菜だったときは会社の愚痴を出目ちゃんに聞いてもらっていたけれど、まさか金魚の口パクパクが返事だったなんて想像もしていなかった。出目ちゃんは金魚鉢から解放されたことにたった今気づいたように、「広いな」とマントルピースの方へ泳いでいく。
「果菜、わかったぞ! ここは異世界だろう?
果菜がいつも『異世界転生したーい』『ヒラヒラのドレス着て、召使いに全部やってもらうんだ』って言っていたじゃないか。その願いを叶えたのか?
異世界に行くには相当なお金が必要なんだろうと想像していたが、宝くじでも当たったか?」
一度目の人生は、惨めで悲惨で絶望的なものだった。その一度目の人生と二度目の人生の間に挟まれた果菜の人生。そこで読んだ『虐げられ令嬢は救国の魔女』も、中盤を過ぎて悪魔の存在を知るまではドロドロした復讐劇の様相を呈していた。それはある意味で今の私の「未来」と言えるわけだけれど――、
この脳天気な出目金は一体なに?
「ここが異世界かどうかはわからないけれど、出目ちゃんの知ってる果菜は死んで、私――ラニア・フランクリンに生まれ変わったのよ。……たぶん」
「生まれ変わったにしては、ずいぶん成長してるな」
「私も、果菜だった記憶をたった今思い出したところなの。それに、私――ラニアは一度死んで、まさに今、過去に戻ってきたところ。なにを言ってるのかわからないかもしれないけど」
「死に戻り令嬢か!」
金魚相手にラノベ談義をした記憶はないけれど、酔っ払ってしたのかもしれない。酔って記憶をなくすのはしょっちゅうだったし、果菜の死因はやけ酒だ。
それにしても、一度目の人生を思い出して胸に渦巻く絶望と復讐心とが、この出目金の一挙手一投足(実際には手も足もない)でバカバカしくなってくる。私は部屋の隅のテーブルにウォーターピッチャーを見つけ、立ち上がって水を飲んだ。
壁にかかった鏡にふと目をやると、映っているのは金髪をまとめ上げて羽飾りをつけた女。黒髪黒目の果菜とは似ても似つかない。
「出目ちゃんは、よく私が果菜ってわかったわね。私はもう果菜じゃなくてラニアだけれど」
「見た目は違っても果菜は果菜だろう? 今さら呼び方を変えるのは気持ち悪い」
そう言うと、出目ちゃんは天井のシャンデリアに向かって泳いでいった。ガスの火で焼かれることはないと思うけれど、「熱くない?」と聞いてみる。「ぬくい」と返ってきた。
出目ちゃんがシャンデリアの灯と戯れているあいだ、私はここにいるべき存在を探して休憩室を見回した。カーテンの陰も、窓の外も確認した。けれど、それは一向に現れる気配がない。
「いでよ、デミュチューン」
「呼んだか?」
天井際で出目金が振り返った。
「呼んでない。ねえ、出目ちゃんはデメチューンって知ってる?」
「ぼくはデメチューンじゃなくて〝デメちゃーん〟だ。異世界に来たら名前を変えないといけない決まりでもあるのか?」
治まった頭痛がぶり返しそうだ。
ここが二度目の人生の始まりであるのはほぼ確定しているというのに、私に従うはずの獅子精霊デメチューンはおらず、いるのは微妙に名前の似た出目金幽霊デメチャーン。
「ねえ、出目ちゃんは精霊なの?」
「精霊? 死んだのなら幽霊じゃないのか?」
予想通りの反応。
頭痛の種は契約精霊のことだけではなかった。大魔道士だった前世の記憶がまったく思い出せない。思い浮かぶのは『前世は偉大な大魔道士だった』という小説の一文だけで、代わりに思い出したのは「レシピの魔術師」「孤高の魔女カナカナ」を自称する料理オタク高槻果菜として過ごした日々。
何か、大いなる手違いが起こっているようだ。
『虐げられ令嬢は救国の魔女』によると、ライニール王国の人々を悪魔の支配から救うのは私とレイモンド殿下。殿下の洗脳を解くには私が魔法を使えなければいけないし、そのためには大魔道士だった前世の記憶を思い出す必要がある。第一歩はマナを鍛えて魔法を取り戻すこと。
「ねえ、出目ちゃん。マナの鍛え方って知ってる?」
「マナの鍛え方?」
出目金に期待するのはやめよう。
いっそ、すべて投げ出して逃亡したほうがいいのかもしれない。しかし、人質の私がいなくなればエンディン王国と軋轢が生じるかもしれず、それを回避するため王家は必死に私を探すだろう。スパイとされて殺されるか、良くて幽閉。逃げ延びたところでアリシアがライニール王国を支配したら平穏な場所などどこにもない。
愛らしい容姿の異母妹アリシア――あれは五〇〇年に討伐され、年月を経て復活した悪魔なのだから。
「ああ、もう。私にどうしろっていうのよ」
心の叫びが声になった瞬間、ノックもなく休憩室の扉が開いた。顔を見せたのは黒幕――アリシア・フランクリンだ。




