喋る金魚と悪魔の妹(1)
尾ビレを振って、出目金が目の前を横切った。私は呆然とその様子をながめ、目を閉じる。
もう一眠りしたら、目が覚めるかもしれない。
きっと私は昏睡状態に陥って、病院のベッドで唸りながら生死の境を彷徨っているのだ。これは夢、夢に違いない。
「おい、果菜」
うっかり返事をすれば三途の川へと引きずり込まれてしまう。小さな尾ビレが何度か頬や額をかすめ、鼻をくすぐられてクシャミが出た。
「果菜、誰か来たぞ」
出目金の言葉どおりノックが聞こえ、私は諦めて目を開けた。
「あっ、フランクリン公爵令嬢! お気づきになりましたか?」
扉を開けるなり駆け寄って来たのはニール――、そう、ニールだ。
金髪に緑色の目をした童顔の侍従。私を嘘の証言で陥れて断罪へと追いやった。けれど、ニールは私を「フランクリン公爵令嬢」とは呼ばない。いつも親しげに「ラニア様」と、はにかんだ笑みを浮かべていた。
「果菜、知り合いか?」
出目金のせいで頭が混乱する。
この出目ちゃんは私のペットで、私は果菜?
私は断罪されて、果菜に生まれ変わって、果菜は死んで――。
ラニア・フランクリンの記憶があった。ラニア・フランクリンだという自覚もある。フランクリン公爵家に生まれ、母を亡くし、不名誉な噂と虐待の末に、死へと追いやられた生々しいほどのラニアの一生が。
――そんなバカな。
私のお腹に金魚鉢のガラス片が刺さったのはついさっき。「ラニア」は『虐げられ令嬢は救国の魔女』に登場する主人公だ。でも、つい今しがた断頭台で首を落とされたのも私。ここはライニール王国で、日本の病院でないことは間違いない。
「悪い夢でもごらんになりましたか? まだ顔色が優れないようですが」
傍らにひざまづいたニールが、心配そうに顔をのぞきこんできた。彼の首筋に赤い発疹は見当たらない。
「そうね、少し……、いえ、とても嫌な夢を見たわ。断頭台で処刑される夢を」
まだ少年ぽい顔つきに困惑の色を浮かべ、「それは恐ろしいですね」とニールは言う。制服は侍従ではなく侍従見習いのものだ。
「あの、ご令嬢。本日は侍女をお連れになっていないのですか?」
「一人いたはずだけれど、おそらくフランクリン公爵夫人のところでしょう」
「そう……、ですか。実は、フランクリン公爵令嬢が倒れられたことを王太子殿下に伝えようと思ったのです。でも、フランクリン公爵夫人に止められました。いつものことだからしばらく休んでいれば治る、殿下に不要な心配をかけることはないと。しかし、まだ調子が悪そうですし、王宮医を呼ぶこともできますが」
頭痛はほぼ消えかかっていた。頭は混乱しているけれど、ここが「ラニア・フランクリン」の二度目の人生のスタート地点だということは、なんとなく理解できた。
「ねえ、あなたはまだ侍従見習いよね。貴族の噂に詳しくないのかもしれないけど、あまり私に関わらないほうがいいわ」
ソファーに体を起こし、支えようとするニールの手を払う。彼は気まずそうな愛想笑いを浮かべた。
「噂は耳にしています。でも、噂は噂でしょう?」
「……どうかしら。私は近々レイモンド殿下との婚約が解消されるでしょうし、いずれ妹のアリシアが王太子妃として王宮に入ることになると思うわ。アリシアは私を侍女にしたいと言ってくるだろうけど、私は王宮になどいたくない。レイモンド殿下の顔も見たくない。濡れ衣を着せられて死ぬなんて、一度だけで十分」
「ずいぶん嫌な夢を見られたようですね。でも、夢は夢ですよ」
「酔っ払って転んで死ぬほうがマシだわ」
「死ぬなんて言わないでください」
私を嵌めたこの侍従は、アリシアに操られていた。処刑場の最前列で、涙声で私の名を呼んだのはニールだろうか。あのとき、ニールの洗脳は解けていたのだろうか。
「果菜」
私とニールの間に割って入ってきた出目金。ピンポン玉ほどの丸々した金魚は、思った通りニールの目には見えないようだった。
「見習いさん。悪いけど、しばらく一人にしてくれない?」
私を心配しているのか、ニールは立ち去るのを躊躇っている。
「月のもので貧血気味なの。殿下にも母にも知らせる必要はないから、一人にして」
嘘を信じたかどうかはわからないけれど、ニールは「承知しました」と部屋を出ていった。休憩室には四つのソファーが置かれているものの、私以外に誰もいない。動いているのは空中を泳ぐ金魚だけだ。




