悪魔との夜散歩(1)
メイドが夜更けに私の部屋を訪ねてきたのは、公爵からの呼び出しを伝えるためだった。ショールを羽織って中央棟執務室に向かうと、公爵だけでなくアリシアもそこにいる。お茶会のことで何か言われるのではと身構えたが、「婚約式の件だが」と公爵は切り出した。
「私としてはおまえを婚約式に出席させるつもりはなかったのだが、アリシアがどうしてもおまえに来てほしいと言っている。王都貴族のほとんどが出席するだけでなく、大聖堂前広場には多くの王都民が集まるはずだ。元婚約者がいることで祝賀ムードに水を差されるのは正直本意ではないのだが」
「お父様」
アリシアが父親の袖をつかんだ。彼女は馬車から降りた時と同じ、王宮訪問にふさわしい外出着のままだ。
「お父様、私のお願いを聞いてくださるのではなかったのですか?」
「わかっている」
公爵は十六歳にもなったアリシアの頭をなで、諦めの吐息。
得も言われぬ嫌悪感で胸がもやもやする。
その理由もはっきりとわからないまま、私は事務的に呼び出しの主旨を問うた。
「閣下は私を欠席させるつもりでいらっしゃったのに、アリシアが反対したということですね。それで、私はどのようにすべきでしょう」
「もちろんお姉様も出席してください。レイも……あ、レイモンド殿下も私の気持ちを優先するとおっしゃってくださいました」
――レイ、と言っただろうか。
私の記憶にある限り、アリシアが王太子殿下をそのように呼んだことはなかったはずだ。ふたりが夫婦だった時ですら。
それとも、人目のないところでは呼んでいたのだろうか。レイ、アリ――そんなふうに呼びあっていたのだろうか。
果菜があの小説を読んでいなければ、私の前世が果菜でなければ、私は迷うことなく殿下を恨むことができた。憎むことができたのに。
彼はどこまで正気でアリシアを愛し、どれくらいの洗脳で私を追い詰めたのだろう。
それとも正気で私の首を落としたのだろうか。
執行せよ――、
最後に聞いた彼のその言葉は、正気の声か、洗脳されたものだったのか。
「ラニア、出席するとなると公爵家の席に並ぶことになる。なるべく目立たぬようにしなさい。婚約式では先日の舞踏会のように途中で倒れて退席するようなことがないように」
「承知しました。体調には気をつけますが、侍女長が減量に厳しく頻繁にめまいを起こします。婚約式まで少し食事量を増やしていただけませんでしょうか」
「まあ!」アリシアが演技じみた声をあげた。
「貴族令嬢が空腹でめまいなんて。お姉様は麦粥を好まれてらっしゃると聞いていましたが、そういった事情がおありでしたのね。お父様、お姉様はもう王家に嫁ぐわけでもないのですし、必死に減量する必要はないのではありませんか?」
アリシアの意図を推し量りかねた。
過度の食事制限と体罰で私を追い詰めてきたのは侍女長。それは公爵夫人の指示で、そもそもはアリシアが公爵夫人を洗脳してそうさせていたのだ。
「淑女は美しくあるべきですが、ベッドに伏してはその美しさは何の意味もありません。お父様もそう思いませんか? お父様だってお母様が美しいドレスを着ていても寝込んでは嫌でしょう?
お姉様、ベラには私から言っておきますから」
なるほど。
私に恩を着せ、感謝させようとしているのだ。
こんなにもしらじらしく、気遣うように見せながら貶めようとする言葉を、死に戻る前の私はなぜ気遣いだと思えたのか。アリシアの中身が悪魔だと知ったから違って聞こえるのか。
アリシアが、私の知らない他人のように感じる。
一度目の人生では悪魔を妹だと信じていたのに。
アリシアの顔を見た。目が合うと、彼女は花のような笑みで「ねえ、お姉様」と同意を求めるように言う。なんの話だったかも曖昧なまま「ええ」とうなずいた。
「ラニアの食事のことは私から言っておく。もう遅いから戻りなさい」
公爵は追い返すように手を払い、私は一人部屋を出た。ライニール騎士団から派遣された騎士が立っていて、無言で会釈する。ここに来たときはアーロン卿と何か話していたが、彼の姿はもう見当たらない。
歩き出してすぐ背後で扉の開く音がした。「お姉様」と呼び止められ、振り返らないわけにはいかなかった。
「アリシア、朝からこんな夜遅くまで毎日大変そうね。ゆっくり休んで」
「あの、お姉様。少し話しませんか?」
刹那迷った。密室でふたりきりになって〝悪魔の力〟で洗脳しようとしたら? 私には本当に洗脳が効かないのだろうか。
「……じゃあ、少し散歩しましょうか」
「はい」
駆け寄って来た異母妹は、躊躇いなく私の腕に手を絡める。無愛想な姉に寄り添う妹というふうに、背後の騎士の目には映っているのかもしれない。




