婚約者でなくなった夜(3)
侍従が、氷と水をのせたトレーを手に私たちとすれ違った。入れ替わりにスティルルームに入ると、ガス灯がふたつ、作業台に手提げランプがひとつ灯っている。
奥には数十本のワインが寝かせて置かれた棚があり、その脇には記録用紙とペンがあった。
「赤、白、どちらにされますか?」
執事はランプを手にワインラックへ向かおうとしたが、私は「それでいいわ」と、作業台に置かれた飲みかけのワインボトルを指さした。全部で六本、うち四本が白ワインのようだ。それぞれ開栓日を書いた小さな紙が貼り付けられている。
「それは料理用として明日厨房に持っていくものです。味が落ちています」
「構わないわ。新しいボトルを開栓したらあの紙に記入しないといけないんでしょう? ハルフォードさんがそこに名前を書いたら、さっきの侍従が私のためにボトルを開けたんだと察するわ。そういう記録は残さないほうがいいと思うの。その代わり、氷をひとつ入れてください。ワインは白で」
「承知しました」
執事は開栓日を確認し、一番新しい日付のボトルを手に取りガラスキャップを外す。グラスを選ぶ彼の背中に、私は声をかけた。
「明日発つと聞きました」
「はい。少し急ぎ過ぎかと思いましたが、公爵邸も世間も騒がしくしている今なら、あの方が私を気に掛ける余裕はないのではないかと」
あの方とはアリシアのことだろう。
「私もそう思います。ただ、後で誰かを送ってハルフォードさんの動向を調べようとするかもしれません。お兄様がご病気というのは事実ですか?」
「いえ」
執事の声と、氷をグラスに入れる涼しげな音が重なる。彼はグラスに皺々の手でワインを注ぎ、私の前に差し出した。
「兄が生きているのか死んでいるのかもわかりません。王都を出たら偽名を使おうと考えています。手紙はここには送らないほうがよろしいですよね?」
「そうね。そのほうがいいわ。ハルフォードさんの居場所がわからない限り私から連絡するのは無理だし、どこか……」
少し迷い、私はアン・モーラの名前を出した。
「モーラ伯爵令嬢ですか? 彼女は公爵夫人と通じているようですが」
「今日会ったら、〝洗脳〟が解けてる感じがしたの。他にあてもないし、彼女には私から伝えておくから、ひとまず、何かあれば王都のモーラ伯爵邸にアン宛てに送ってください。ハルフォードさんの居場所が定まったら、私も偽名で手紙を送るわ」
私はボトルに開栓日を貼り付けるための小さな紙に、『カリナ・タッカー 高槻果菜』と書いて渡した。
「これは? 上のは偽名でしょうが、下に書かれているのは文字ですか?」
「私を意味する暗号のようなものよ。もしカリナ・タッカーから手紙が届いても、この暗号が添えられていなければ偽物だと思って」
紙を渡すと、ハルフォードさんは丁寧に小さく折りたたんで胸ポケットにしまう。そして、自らも紙片に『テイラー・ハルフ』と書きつけ私に差し出した。
「年寄りなので、まったく違う名前にすると呼ばれても気づかない可能性がありますから、姓はハルフ。名前は女性でも男性でも通じるテイラーにしました」
どうやら、あらかじめ偽名を考えていたようだ。
テイラー・ハルフと、私は声に出して言ってみた。老執事とはまったく違う、見知らぬ女性の輪郭をぼんやりと想像する。
「では、手紙は同年代の女性相手のつもりで書くことにしますね」
私が言うと、ハルフォードさんが笑みを浮かべる。ふと胸が締め付けられ、どうか無事にと心の中で祈った。
四〇年近くフランクリン公爵邸に仕えてきたバリー・ハルフォード。執事の肩書を捨て、ひっそりと裏口から発ったのは翌日の昼前だった。見送りに出たのは炊事場の使用人たちと私。それと、物陰に隠れたつもりのイーノック。
この日もアリシアと公爵夫妻は王宮に行っていた。
私はあの舞踏会の夜以降、アリシアと顔を合わせないままだ。それが少し気になっている。




