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婚約者でなくなった夜(2)

 緊張で手に汗が滲んでいる。公爵の前ではいつもすぐ顔を伏せてしまっていたけれど、今は目をそらしたくなかった。私の行動を変えることで、「のっぺり」を消すことができるかもしれない――そんな希望を抱いている。アンのように。


 ほんのわずかの沈黙の後、先に目をそらしたのは公爵だった。


「ラニア。今日正式にアリシアがレイモンド王太子殿下の婚約者となった。中央棟と東棟には手続きなどで王室の方々が頻繁に出入りされるだろうし、必要がない限りしばらくは別棟で過ごしなさい」


「承知しました」


「それと、急だが執事が辞めることになった。代わりの者が見つかるまで家令が執事の業務を兼任するから、何かあれば家令か侍女長に言いなさい」


「執事はなぜ……」


「実兄が病気になったそうだ。執事もいい年だし、残りの人生は生まれた場所で過ごしたいと言っていた」


 ハルフォードさんは私の言った通りにしてくれたようだった。心配事がひとつ消えて安堵しつつ、それを悟られないよう私は目を伏せる。


「残念ですが仕方ないですね。寂しくなります」


「明日には発つそうだ。おまえのところにも挨拶に行くと言っていた。私たちは時間がとれないだろうから、おまえが見送ってあげなさい」


「わかりました。ところで、アンダーヒル侯爵令嬢のお茶会に出かけてもよろしいでしょうか。明々後日のことなのですが、アンが招待状を預かってきているのです」


 公爵は思案するように腕を組んだが、「アンダーヒル侯爵ならいいだろう」と思いのほかあっさり許可が下りた。


「公式にアリシアと殿下の婚約が発表されたところだ。元婚約者のおまえが誘いを無視して閉じこもっているとなると、また下世話な噂の種になるだけだろう。社交の場に顔を出すのは構わないが、アリシアの面子を潰さないよう細心の注意を払いなさい」


 私の面子をまったく気にかけない公爵の言葉に内心苦笑した。アーロン卿には、この歪な父娘の会話がどんなふうに聞こえているのだろう。


「そういえば、お茶会にはアリシアも参加すると聞いていますが」


「アリシアにはお茶会に出ている暇などない。婚約式が一週間後と決まったからな。明日には新聞が報じるはずだ」


「ずいぶん急いで式を挙げられるのですね」


 私は驚いたような演技をする。公爵は「色々と都合があるのだ」とはぐらかしたが、婚約式を急いだのは半年後に大々的な結婚式を挙げるための日程調整の末の決定だ。


 一度目の人生のときも、婚約発表から一週間後に婚約式が執り行われた。場所はイマヘラ神教の聖地ともいわれるサヴァ・ライナ・イマヘラ大聖堂。本来なら私も出席すべき立場だったけれど、体調を理由に欠席しなさいと公爵に命じられて屋敷に残った。


 私は婚約式に出ない方がいいですか――?

 そう聞こうかと考えてやめた。

 間違いなく「やめておきなさい」と言われるだろうし、それでは前の人生と同じことの繰り返し。

 足掻けるだけ足掻かないと、破滅の未来も繰り返す。


「私はそろそろ失礼します」


「ラニア、下に行くのなら私の部屋に氷と水を持ってくるよう誰かに言っておいてくれ」


 飲み物を取りに来たことにしていたのを思い出し、私は「承知しました」と答えた。

 公爵とアーロン卿とが連れ立って正面ロビーの階段を下りていく。

 なぜか、出目ちゃんもふたりについて行く。


 アンダーヒル卿とは年が近く親しくしています、とアーロン卿の声が聞こえた。アンダーヒル卿といえば、アーロン卿と同じライニール騎士団のスタンリー・アンダーヒル。王宮警備隊に所属し、任務中にアーロン卿と立ち話をしているところを何度か目にしたことがあった。


 一方、アンダーヒル侯爵令嬢のことはハッキリと思い出せない。名前も覚えていないし顔もおぼろだ。何度か社交場で顔を合わせたことはあるはずだけれど、アリシアが王宮に呼び集めていた夫人や令嬢の中にアンダーヒルの名はなかった。


 アンダーヒル領に引っ込んだか、アンのように結婚してどこかに行ったか。

 アンの話によるとアンダーヒル侯爵令嬢はアリシアと親しくしているようだから――。


「ラニアお嬢様」


 名前を呼ばれ我に返った。使用人の当直室から顔を出しているのはハルフォードさん。


「こちらに何かご用が?」


「飲み物をもらえるかしら。なんでも構わないわ。それと、公爵様の部屋に氷と水をお持ちしてくれる? さっき踊り場で会って、そう伝えるよう言われたの」


 執事は当直室の中に「氷と水を公爵様に」と声をかけた。部屋から出てきた若い侍従は私がいることに驚いたようだが、軽く頭を下げて冷凍器の置かれたスティルルームへと向かった。


「ワインでよろしいですか?」と執事。


「あるものでいいわ。少しでいいから」


「では、部屋にお持ちしますので先にお戻りください」


「一緒に行ってもいいかしら。少し話したいことがあるの」


 執事は話の内容を察したのか、「かしこまりました」と私をスティルルームへ案内する。

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