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婚約者でなくなった夜(1)

 ガス灯のゆらめきがアーロン卿をやわらかく照らしている。悪魔はこの炎のような赤髪を気に入っているのかもしれない――ふと、そんなことを考えた。


「アリシアに会いに行こうと思ったのですが、弟に止められました。大人しく部屋に戻るところです」


「なにをお話になるつもりだったのです?」


「婚約おめでとう、と」


 黙り込んだ騎士の鼻先を出目ちゃんが泳ぐ。

 出目ちゃんに聞かなくても、彼がまだ洗脳されていないとわかった。一度目の人生で、アリシアの護衛騎士だった彼とは比較的長い時間を一緒に過ごしている。長い時間、凍るような冷たい眼差しを向けられてきた。今の彼の瞳からはその冷たさを感じられない。


「アリシアの部屋の前に王室の派遣した見張りがいると弟から聞いたのですが、アーロン卿が?」


「いえ、私は秘書官と一緒に公爵閣下のところにいました。公爵邸の警備のことで少し」


「秘書官の方はまだ公爵様の部屋に?」


「少し前、先にここを出ました。私は見張りの者と少し話していて、今帰るところです」


 アーロン卿はまだ何か話したそうだったけれど、その表情に反して口をつぐむ。


 彼と距離を置くべきか、

 いっそ誘惑して彼の妻に――


 何度か頭を過ったその案は、いつもかすかな痛みをもたらす。


 レイモンド殿下の側近であるアーロン卿の隣に立つということは、これからも私の視界からレイモンド殿下が消えることはないということ。そして、そこにはアリシアもいるということ。


「私は部屋に戻ります。お気をつけてお帰りください」


 立ち去ろうとすると、「不満はないのですか」と押し殺した声が追いかけてきた。まっすぐな視線が私を射る。冷たいどころか、熱い――。


「不満を言ったところでどうなるものでもありません。卿も今回のことに反対しているわけではないでしょう? それとも、私が王太子妃になったほうがよかったですか?」


「そうではなく、……公女様が不憫に思えて」


「失礼な方。ずいぶん今さらな話ではありませんか? 私が婚約者だったとき、王室から見張りが派遣されたことなどありませんでした。殿下は最低限の義務をこなされるだけ。卿はあの頃も私に同情なさっていましたか? 違うでしょう? 王太子妃にふさわしくないラニア・フランクリンには当然の待遇――そうお考えになっていたのではありませんか?」


「そんなふうには考えていません。正直なところ、公女様の心境を考えてみたことがありませんでした。レイモンド殿下が、突然アリシア公女様に会いに行くと言い出されるまでは」


「いずれにせよ、卿には関わりないことです」


 このまま彼を放って部屋に戻ろうとしたが、ふと思うことがあって足を止めた。


「アーロン卿。あの舞踏会の日のことですが、アリシアとレイモンド殿下がふたりきりになった時間はありましたか? どこか、人目につかないテラスのような場所で」


 アーロン卿は怪訝そうに眉を寄せたけれど、すぐ「ええ」とうなずいた。


「二階のテラスで、二、三〇分ほど話し込んでおられました」


「そう……。では、アーロン卿はアリシアとふたりきりになる機会はありましたか?」


 彼の眉間の皺がいっそう深くなった。返答を察して私が「ないようね」と言い、彼が何か言い返そうとしたとき、


「カーティス卿、何かありましたか」


 頭上から声がし、反射的に身体が強張る。

 階段上から公爵がこちらを見下ろしていた。


「公女様と偶然お会いしたので、少し立ち話を」


「そうでしたか。……ラニア、こんな時刻にそんな格好でどこに行っていたのだ」


「喉が渇いたので飲み物をと。カーティス卿、お見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした。私はこれで」


「待ちなさい、ラニア」


 公爵は階段を降りてくると、帰る気配のないアーロン卿にチラと視線を向けた。アーロン卿は侯爵の視線に気づかないふりをしている。


「半分以上のっぺりだ」


 出目ちゃんが言い、私は促されるように父の瞳を見た。そこにあるのは悪魔の炎ではなく、冷酷な暗い闇。忌々しい赤の他人に向ける、鋭利な眼差し。



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