中身の止まった人間(2)
アンは、貴族令嬢には不似合いな古びた炊事場の戸口でカーテシーをした。
「ラニア様の侍女をしているアン・モーラと申します」
アーロン卿は名乗らない。ここにいたことを公の事実にしたくないのだろう。
「侍女殿、よいところに来られました。公爵令嬢はこの近くを散策中に倒れられ、私がこちらにお運びしたのです。日陰で涼めば治るとおっしゃるので」
「それは、ありがとうございました。
ラニア様に公爵夫人からの伝言がございます。王太子殿下が帰られるまでは部屋で過ごされるようにとのことです。王太子殿下には、ラニア様は体調不良で寝込んでいるとお伝えしてあるそうですので、人目につかないよう別棟裏口からお戻りください。騎士様も、ラニア様がこのような場にいらしたことは見なかったことにしてくださいませ」
アンは目上の侯爵家相手にひるむことはなかった。王太子殿下の近衛騎士がこんな場にいたことを口外しない代わりに、こちらの事情も口外してくれるな――そう彼女の目が言っている。
アーロン卿は何か言いたげに私を見た。アンの侍女らしからぬ態度を私が諌めないからだろうかと思ったが、
「公女様、体調がすぐれないようなら部屋までお連れします」
彼も面倒事は起こしたくないだろうに、意図がわからない。
「平気です。卿もそろそろ自分の持ち場にお戻りください」
「わかりました。では、侍女殿に軽食を部屋に運ぶようお命じになってはいかがですか? 自宅の庭で、空腹で行き倒れかけたのですから」
アンが呆れ顔で私を見て、その蔑むような目は調理中の古びた鍋にも向けられた。出目ちゃんは意外にも「大丈夫か」とすり寄ってくる。
私はアーロン卿を睨んだが、赤髪の騎士は気づかないふりをした。
「騎士様。ラニア様への気遣い痛み入ります。食事は私が責任を持ってラニア様のお部屋にお持ちしますので、どうぞお戻りください。騎士様とご一緒ですと注目を浴びてしまいますし、ラニア様もそれはお望みではありません」
「モーラ伯爵令嬢」
アーロン卿の声が、冷ややかな怒気を帯びた。ある意味、私にとって一番馴染みのある声だ。
「なんでしょう」
「あなたはフランクリン公爵令嬢の侍女なのだろう? 他家のことに口出しすべきではないが、仕える主人の意向も聞かず――」
「おやめください」
アーロン卿のお節介に、思わず吐息が漏れた。
半開きの扉の隙間から野次馬がこちらの様子をうかがっている。いや、彼らは野次馬ではなく、ここに食事をしに戻って来ただけかもしれない。
「卿のおっしゃる通り、侍女の管理は私の責務です。助けてくださったことには感謝しますが、余計な口出しはしないでください。ハルフォードさん、彼のことはあなたに任せます。私はこれで」
アーロン卿を置き去りに炊事場を出ると、先ほどよりも強まった日差しでめまいに襲われた。倒れかけた私の腕を掴んだのは、使用人にしては小ぎれいなシャツとズボンの青年。屋内担当の制服だ。
「あっ、申し訳ありません」
頭を下げ、不安げにそっと手を離したのはハンスだった。汚いものを見るようなアンの視線に、彼は恥ずかしそうに後ろに退いていく。
「ありがとう。おかげで倒れずに済んだわ」
「ラニア様、公爵令嬢たるもの下々の者に媚びを売るのはおよしください」
ここに集まっているのは、使用人の中でも一番の下っ端。十分な食事も与えられず、やせ細った身体でこき使われている。私は彼らより恵まれているけれど、同情くらいしてもいいはずだ。
「ねえ、アン。モーラ伯爵家にも彼らのようにやせ細った使用人がいるかしら。彼らを雇ったのは公爵家。彼らに最低限の衣食住を保証する義務があるのも公爵家。あなたは公爵夫人に目をかけてもらっているようだから、あなたから夫人に伝えてもらえないかしら? この屋敷の使用人の食事は工場労働者にも劣っているようだって」
アンは剣呑な目つきで私を睨んだものの、使用人たちを横目にうかがい複雑な表情を浮かべた。
モーラ伯爵といえば社交界でもお人好しの人格者として知られ、アンもこの屋敷に来た当初は無垢な箱入り娘といった雰囲気だった。いつの間にか性格が変わったのはアリシアの洗脳によるものかもしれない。
「無理なら聞き流してくれてもいいわ。あなたも色々事情があるだろうから」
言い捨てて歩き出すと、アンは大人しくついて来た。その後またどこかに消えたと思ったらスコーンとジャムと紅茶を持ってきて、「大人しく部屋でお過ごしください」と、今度こそ本当にいなくなった。
一度目の人生と同じように、私は自室の窓から殿下とアリシアが散歩する様子をながめた。あの時と違うのは、
「あの男も半分止まってるな」
出目ちゃんが殿下を見てそう言ったことだ。




