中身の止まった人間(1)
たどり着いた炊事場は、かなり年季が入っているけれどずいぶん立派な建物だった。風を通すためか前面の木戸は開け放たれ、私はアーロン卿に抱かれて中に入る。すると、一人の少女が立ち上がった。
彼女のそばには大きく開放的な暖炉のようなものがあり、鍋がふたつ。緋色をチラつかせ熱気を発しているのは石炭だ。それとは別に、煉瓦オーブンが造り付けられている。腰の高さに出し入れ口が三つ、扉はない。この規模のオーブンがあれば数十人か百人規模の料理が作れるはずだが、火は入っておらず暗く沈黙している。
「エマ、ラニアお嬢様にごあいさつなさい」
ハルフォードさんが少女に手招きし、アーロン卿は私を下ろした。「どうぞ」と差し出された手を私は無視する。
エマは十四、五歳くらいだろうか。緊張した様子で「こんにちは」と頭を下げた。鍋の番をしていらしく、手にはレードルが握りしめられている。
炊事場の奥にも部屋があるようだった。壁の小さなガラス窓に人影が動いている。その窓のちょうど下あたりの壁際に、荷物や服、ブランケットが雑多に投げ置かれていた。雑魚寝の跡といった雰囲気だ。
「ねえ、エマ。ここに寝泊まりしてるみたいだけど、何人くらいいるの?」
「えっと、全部で二十人ちょっとです。女が六人いて奥の蒸留室で寝ます。男の人たちはあそこに」
エマは奥の荷物の山を指さす。鍋の大きさを見る限り、その二十数人分の食事をここで作っているのだろう。
「エマ。その鍋は何を作っているの?」
「麦粥です。本邸からもらった野菜の端っことかも入ってます。力仕事する男の人たちには薄いって言われるんですけど。でも、そうしないと一人分がすごく少なくなってしまうから」
蓋を開けて見せてくれた薄茶色の粥は、たしかに薄そうだった。野菜もほとんど見当たらないけれど、かすかにミルクの匂いがする。
「エマ、力仕事をしてる人は汗をかくから塩を少し濃いめにしたほうがいいわ。特に夏場はね。それから、もしよかったらハルフォードさんが持ってるものも鍋に入れる?」
執事がハンカチを広げ、両手いっぱいのムカゴが現れるとエマはパッと顔を輝かせた。
「いいんですか?」
「エマはこれが何かわかるの?」
「オニユリのムカゴですよね。別棟の陰にあった。ハンスさんが野草に詳しくて、あれは食べられるんだって教えてくれたんですけど、屋敷内のものは勝手にとっちゃいけないから――」
「ハンスって、別棟の掃除をしてるハンス?」
「そうです! ご存知なんですね」
エマはなぜか誇らしげな顔をし、一方、アーロン卿と執事とは不審げに私を見た。公爵令嬢が掃除夫の名前を把握しているなどあり得ない。実際、ほんの一時間前までは知らなかった。
エマが裏手の水路にムカゴを洗いに行き、残された私たちは改めて炊事場を見回した。規模はメインキッチン、設備はひと昔前のもの。アーロン卿も物珍しそうにしている。
「王都にはガスが普及していますが、アーロン侯爵領の領地邸宅にはこれと同じものがあります。しかし……」
アーロン卿は使用人の寝床に目をやり、
「屋敷の規模が大きいからこその格差でしょうね」
そう口にした。執事はバツが悪そうに「ええ」とうなずき、その執事の状況すらアーロン卿は察しているようだった。本来であれば家主のそばで王太子を出迎えるはずなのに、私と一緒に使用人の後ろにいたのだから。
「戻りました」
駆け戻ってきたエマが、ムカゴと水の入った小鍋を火のそばに置いた。作業台からガラス瓶を手にとり、蓋を開けてパラパラ振り入れたのは――、塩!
思わずアッと声をあげ、三人の視線が私に向いた。
「公女様、どうかされましたか?」
「あ、……いえ。塩でアク抜きすることを知っていたようで、感心しただけです」
目の前の塩に興奮しながら、努めて冷静に答えた。エマは「ハンスさんに聞いたんです」と、うれしそうに胸を張る。その笑顔の背景で小さな異変が起きた。
ガラス窓をすり抜けて、能天気な顔で体をかしげたのは出目ちゃん。
「なんだ、果菜も来たのか? やっぱり匂いにつられて来たんだろう? あっちは果菜の部屋の匂いがする。ハーブとスパイスの匂いだ」
あっちとは奥の蒸留室。
蒸留室といえばスパイス加工やハーブオイルの抽出などを行う場所だ。使用人の寝床と聞いて器材は埃をかぶっているだろうと予想していたけれど、スパイス加工の下処理でもさせているのだろうか。家政婦長が仕切る公爵家本来の蒸留室は、東棟側の温室に併設されている。公爵夫人はよくそこに出入りしていたはずだ。
「ご令嬢、奥に何か? どうかされましたか?」
アーロン卿が訝しそうにしている。適当に言い訳しようとしたが急に外が騒がしくなり、知った声が近づいて来た。
――本当にあんなところにラニア様が?
――騎士の方が女性を抱きかかえてあちらの方へ行かれたのですが、お嬢様かどうかハッキリとは
――いくらラニア様でもこんな薄汚いところに……
木戸が押し開けられ、名前も知らないメイドと一緒に現れたのはアン・モーラ。私に一人だけ付けられている侍女で、モーラ伯爵家三女だ。
彼女は私の姿を見ると「ラニア様!」と苛立ちを吐き出した。しかし、傍に立つ騎士の正体に気づいてハッと息をのむ。当のアーロン卿は無表情でアンの様子を観察していた。
出目金が、鼻先をくっつけんばかりの距離でアンを眺めている。
「果菜、この女ちょっと変だぞ。端っこが止まってる」
アンの鼻を尾ビレで叩き、出目ちゃんは意味不明な言葉を口走った。




