オニユリと騎士(1)
逃げなければという焦燥は、死に戻る前に彼に何度も突きつけられた剣のせい。息が切れ、足が前に進まなくなったとき、目に飛び込んできたのは壁際に咲き乱れるオレンジ色の花だった。
「オニユリだわ……」
追いつかれると確信し、私は煉瓦道を外れて雑草の中に足を踏み入れた。
手入れを怠った別棟裏手の壁際。野生の力を見せつけるように、橙色に茶の斑点が入ったオニユリが群生している。一メートル以上ある茎、その葉元に黒黒とした宝石のような、もしくはおせち料理に入っている黒豆のようなムカゴ。ライニール文化はヨーロッパ的だが、植生はアジア圏に近いのかもしれない。
「フランクリン公爵令嬢、いったい何をされているのですか?」
「散歩ですわ」
淑女らしい優雅さで振り返ると、アーロン卿が顔をしかめた。ハルフォードさんは心配そうに私を見ている。
「フランクリン公爵令嬢。あなたのお気持ちはお察ししますが、このようなことをされても状況は変わらないと思います」
「アーロン卿。それは、どういう意味かしら」
「レイモンド殿下が公爵邸に足をお運びになった理由は、じき、ご令嬢にも伝えられるでしょう。ご令嬢が殿下をお慕いされているのは存じ上げておりますが、こんな形で気を引こうなどとは考えられないほうが――」
「黙りなさい。卿は誰に向かって話しているの?」
アーロン卿がビクリと肩をすくめた。奇異なものを見たというように大きく見開いた目を私に向け、そのあと慌てて私の前に跪く。
アーロン卿の無礼な態度は私の責任だ。執事に「さん」付けで話しかけるほど過剰に自分を卑下し、格下の侯爵家であるアーロン・カーティスに対しても不必要に礼節をもって接してきた。この男に命令口調で話しかけたことなど一度もない。
「アーロン卿は親切のおつもりなんでしょう。それとも同情?」
「申し訳ありません。しかし、このような場所に足を踏み入れられては、虫に刺されてしまいます。どうか部屋にお戻り下さい」
「心配しなくても殿下と妹の邪魔をしたりしないわ。私がここにいるのは十分に食事を与えられていない使用人のためよ」
アーロン卿だけでなく、執事も首をかしげる。本当は十分に食事を与えられていない自分のためだったけれど、それを堂々と口にするわけにはいかない。
「一部の使用人の食事が不足しているようなの。オニユリのムカゴは食べられるから、採って持っていってあげようと思ったのよ。虫がいるというのなら、卿が変わりに採ってくださる?」
アーロン卿は、奇怪で哀れな生き物を見たというような、複雑な表情を浮かべた。そして、膝をついたまま私を見上げる。
「先ほど、私を見てお逃げになりましたよね」
「だって、卿は踊り場で私を見たでしょう? 使用人に紛れて婚約者を盗み見る、みすぼらしい公爵令嬢を」
アーロン卿は言葉を探すようにほんのわずか沈黙する。その後おもむろに立ち上がると、「これを採ればよいのですか」と無骨な手をムカゴに伸ばした。執事が慌ててやってきて、ふたり仲良くムカゴ採りをするのを私は後ろでながめた。




