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王太子殿下、来臨(2)

「ラニアお嬢様、大丈夫ですか?」


 ハルフォードさんが〝虐げられ令嬢〟を心配するその態度は、彼の死が私のせいではないかと思わせる。


「ハルフォードさん、あまり私に構わないほうがいいわ。もし公爵邸に居づらいなら、しばらく領地で休養してもいいと思う。私はそのほうがいい気がする」


 老執事は困ったように眉を垂らし、私はそんな彼をおいて階段を上った。整然と並ぶ使用人のすぐ後ろで立ち止まると、背後の足音も数段手前で止まる。やはり、頑固な老人は早いうちに領地に追い返すのがいい。


「王太子殿下、ご来臨されました!」


 家令の声で使用人たちが一斉に頭を下げた。私も反射的にそうしたが、頭をかすめたのは取引先に平謝りする保科主任のお辞儀。


 あの人は今も元気にやっているだろうか。二度と会うことがないと思うと嫌な思い出も多少は美化される。レイモンド殿下との思い出は、どんな形で私の中に残るのだろう。


 このあと、レイモンド殿下は公爵に婚約者の変更を提案するはずだった。訪問は王太子殿下の独断による突発的なもの。国王陛下に許しを得たものではなく、一度目の人生と同じならば、正式に私との婚約が破棄されるまで一週間ほどかかる。


 死に戻る前には部屋に引きこもっていたから、今日、この屋敷でどんなことが起きていたのか詳しいことはわからない。ただ、正門前に停められた王室馬車と、腕を組んで庭園を散歩するアリシアとレイモンド殿下の姿を自室の窓から密かにながめたことは覚えている。


 悪魔の思い通りにさせないため、婚約破棄を妨害すべきだろうか。

 しかし、それに何の意味があるだろう。

 私の死体が川に浮かび、物語が早々に幕を閉じるだけでは?


 踊り場には三十人か、四十人くらいの使用人がいた。誰も一言も発さず、開け放った正面扉から屋外の喧騒が流れ込んでくる。人の話し声、足音、かすかに聞こえる金属音は近衛騎士が腰にぶら下げた剣。


 フランクリン公爵の声が聞こえた。殿下と一緒にこっちに向かっているらしく、その声は次第に大きくなる。いくつかの足音の中で一番優雅なのがレイモンド王太子殿下。階段を上るその足音が踊り場で止まる。


 私はそっと顔をあげて様子をうかがった。使用人の背の向こうに殿下と公爵閣下、複数の近衛騎士の姿。そこへ、東棟階段から公爵夫人サビナが降りてくる。


「ライニールの小さき太陽、レイモンド王太子殿下にご挨拶申し上げます」


「公爵夫人。アリシア嬢は体調を崩していると聞いたが、様子はどうだ?」


 私の口からは苦笑が漏れた。昨夜体調を崩して先に王宮を出たのは私なのに、誰も彼も、夜更けまで宴を楽しんだアリシアだけを心配している。


「ご心配をおかけして申し訳ありません。今朝方まで熱でうなされていたのですが、司祭様の治療によりすっかり良くなりました。急いで支度をしておりますので、もう少しお待ちいただけますか」


 私の目の前にいたメイドが、「司祭様は断ったんじゃなかった?」と潜めた声で隣のメイドに話しかけた。話を振られた方は「シッ」と同僚の足を蹴る。

 つまり、アリシアは治療も祈祷も受けていないということ。悪酔いしてベッドに倒れ込み、寝ぼけて夜中にひとり言を喋っていたのだろうか。しかし、出目ちゃんのあの反応を見る限り悪魔が何かしていた可能性は拭えない。


「公爵夫人、急に押しかけたのはこちらだ。いくらでも待つつもりでいるから、アリシア嬢にはゆっくり支度をするよう伝えてくれ。それまでに公爵と話しておきたいこともある」


 公爵の口元に堪えきれない笑みが浮かんだ。ようやく、フランクリン公爵家の愛娘が王太子妃になる。その歓喜が公爵夫妻の表情に滲み出ている。


「王太子殿下、どうぞこちらへ」


 二人は中央棟の貴賓応接室へと向かうようだった。近衛騎士がぞろぞろと付き従って階段を上っていく姿を、集められた使用人たちが目にすることはない。下々の者は最初から最後まで頭を下げたまま。


 これが、本来あるべき形なのだろう。


 公爵家では、いつでも王太子殿下の訪問に応えられるよう別棟を整えてきた。けれど、殿下が別棟に来られたことはない。彼が公爵邸を訪問するのは当家主催の催しに参加されるときだけで、私と過ごしたのは王宮での月一度の面会と、主要な舞踏会くらい。彼にとっては義務であり、今その義務から解放されようとしている。


 私は無意識に殿下の後ろ姿を目で追っていた。

 階段の中ほどで彼の視線がこちらに向けられたのは一瞬。

 目が合い、私はまっすぐ彼を見据えてカーテシーをした。


 近衛の一人が私に気づいたようだった。今は殿下の近衛騎士であり、いずれアリシア王太子妃の護衛騎士となるアーロン・カーティス。私が侍女として王宮に上がった当初は親切だったものの、王太子妃を害する者としてすぐ敵視されるようになった。


 小説のように、アーロン卿は二度目の人生で味方になってくれるだろうか。それとも、また剣を突きつけてくるだろうか。


 困惑と同情とを宿したアーロン卿の眼差しが、私の視線と交差した。微笑みを向けると彼は逃げるように顔をそむけ、殿下の後ろをついていく。公爵夫妻はどれだけ浮かれていたのか、私に気づく様子はまったくなかった。

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