王太子殿下、来臨(1)
執事バリー・ハルフォードは、フランクリン公爵家に長く仕える品のいい紳士だ。しかし、公爵夫人の息がかかった侍女長ベラ・バーキンが邸内で幅を効かせるようになってからは、私とは滅多に顔を合わせることがなくなった。
「ハルフォードさん」
執事の名を口にした瞬間、小説の台詞を思い出した。
『ハルフォードさんが死んだのはきっとアリシアの仕業よ。過去に回帰してから気づいたんだけど、ハルフォードさんは体内のマナが極端に少ないの。魔法を修得していない一般人の場合、マナの体内蓄積量が多い人間ほど悪魔の洗脳にかかりやすい傾向にある。だからハルフォードさんを洗脳できなくて、邪魔になって殺した』
ブルッと体が震えた。
「ラニアお嬢様、体調がお悪いのですか? お薬をご用意――」
足音が近づいて、ハルフォードさんはピタリと喋るのをやめる。周囲をうかがうその表情に、彼の立場がすでに危ういことを察した。
一回目の人生でハルフォードさんが死んだのはいつだっただろうか。
たしか、アリシアと殿下が婚約して間もなくのことだ。突然ハルフォードさんが行方不明になり、三日ほどして河原に打ち上げられた死体が体格などからハルフォードさんと断定された。ほとんど何も身に着けておらず、強盗の仕業だろうということになったのだが――。
目の前の老執事は、このあとアリシアに殺されるのだろうか。
殺されるのだとしたら、なぜ?
洗脳が効かないというだけで?
それとも、アリシアの気に障ることをしたのかもしれない。もしくは、知ってはいけない秘密を知った。
この場で、私は彼にどう接するのが正解なのだろう。一回目の人生では、ほとんど接点もないまま彼は人知れず死んだ。それなら積極的に彼と接したほうがいいのだろうか。そうすれば未来が変えられる?
しかし、私と関わることでアリシアに目をつけられると結局は殺されてしまう。ハルフォードさんは、私のせいで死ぬかもしれない。
人の気配が遠ざかるのを見計らい、ハルフォードさんは「お薬は」と話を続けようとした。私は「平気よ」とそれを遮った。
「小腹がすいてここまで来たけど、みんな忙しそうだから部屋に戻ることにするわ」
「しかし、顔色が優れないようですが」
「白粉を塗りすぎたせいよ。メイドが中央棟のほうに出払っていて、自分で化粧をしたから」
執事は別棟の状況を察したようだった。踊り場へと続く、通路突き当たりの階段に目をやる。彼の視線が向いた方へと引き返した。出目ちゃんのことは気になるけれど、捕まって食材にされることはないはずだ。
数歩後ろを老執事がついて来る。ロビーが近づくと喧騒は大きくなり、階段下で踊り場を見上げると使用人がずらりと並んでいた。
「そこ、襟の歪みを直して! 背筋を伸ばしなさい! 王太子殿下をお迎えするのですから、粗相のないように!」
侍女長ベラの声。ハルフォードさんは私の半歩後ろで心配げにこちらを見ている。その眼差しは窘めるのではなく慰めるように、――レイモンド殿下の訪問相手はあなたではないのですよ、どうかこの場を離れましょう――そう懇願しているようだった。
なぜか胸が痛んだ。
死に戻る前の人生で、私がレイモンド殿下の愛を求めたことなどない。そんな資格はないと思っていたし、殿下とアリシアの邪魔にならないよう、言われるがまま息をひそめて過ごしていた。
小説のことを思い出さなければ、私は今、アリシアだけでなく殿下のことも恨んでいたはずだ。小説の主人公「ラニア」は、死に戻ったあと王家を破滅に陥れようと復讐心を燃やす。すべてが悪魔の仕業と気づくのは物語の中盤を過ぎてから。
けれど、私は知っている。
レイモンド殿下が洗脳されていたこと、
死に戻ったニ度目の人生で殿下と結ばれるという筋書き、
物語のクライマックスで、大魔道師の生まれ変わりである私は殿下の剣に魔法をかけ、その剣がアリシアの胸を貫くのだ。
小説の中で描かれていた私と殿下の愛は、他人事にしか思えなかった。今の私は役立たず。殿下が私に向ける氷のような冷たい眼差しは、おそらく今後も変わることはないだろう。私には魔法がないから。
ある意味、『虐げられ令嬢は救国の魔女』という小説は、私にとって唯一の〝魔導書〟かもしれなかった。筋書き通りにはいかなくても、多くの情報を得ることができる。
ひとつ思い出したのは、私と殿下の婚約は破棄を前提に結ばれたものだったということ。そして、婚約当初からレイモンド殿下はそれを知っていた。




