アリシアの異変(2)
「ねえ、あなた」
私が声をかけると、十代後半とおぼしき使用人は驚いた顔で振り返った。公爵令嬢が掃除係に声をかけるとは微塵も想像していなかったらしく、口を半開きにして私を見ている。
「礼儀を知らない者が、公女の部屋近くに配属されているのね」
「あっ……、申し訳ありま――」
「謝罪はいいわ。あなたが中央棟を気にしている理由を教えてもらえる? 他の使用人はどこに行ったの?」
青年は中央棟へ続く通路に目をやり、モゴモゴ言葉にならない声をもらす。
「公爵夫人にも侍女長にも言いつけたりしないわ。その汚水の入ったバケツ、廊下にぶちまけられたくないなら早く言いなさい」
さっきと同じように口を半開きにし、青年が私を見た。いつも使用人の顔色をうかがっていた公女が、人が変わったように高慢な態度をとったことに衝撃を受けたようだった。
私は変わったのだろうか?
いや、ずっとこうしたかったのを、自分にはそんな資格はないからと我慢してきただけだ。
心の中ではメイドを厳しく叱咤し、
侍女長に口汚い言葉で言い返し、
公爵夫人の首を何度も締めた。
鞭で打ち、
剣で斬りつけ、
斧を振り下ろして、
形がなくなるほど、何度も、何度も。
そして、それと同じ数だけ自分が死ぬところを想像した。
毒を盛られて血を吐くところ、
階段から突き落とされるところ、
湖に沈められて溺れ、
火に焼かれ、
レイモンド殿下の剣に刺されるところ。
結局、本当に殺されてしまった。
小説で死に戻った主人公「ラニア」は、しばらくのあいだ怪しまれないよう気弱な公女を演じていたはずだ。でも、そのラニアと違って私には魔法が使えない。窓から連れ出してくれる獅子精霊もいない。
バケツをのぞき込んでいた出目金が、「窒息しそうな水だな」と能天気な声を漏らした。
「きれいな水に換えたほうがいいわ」
バケツの縁に足をかけると青年は慌てて床に膝をつき、両手でバケツの縁を押さえた。その姿勢のまま「話しますから」と縋るように私を見上げる。
「それで、中央棟になにがあるの?」
「……今朝早くに先触れがあったんです。王太子殿下がアリシアお嬢様を訪問されるとかで、それで、みんなあっちの手伝いに行ってるんです。でも、アリシアお嬢様がお部屋から出てこられないらしくて……」
「アリシアが?」
前の人生でそんなことはなかったはずだ。おそらく小説でも。それとも、私が部屋に引きこもっていて気づかなかっただけだろうか。
「理由は聞いている?」
「詳しくはわかりませんが、昨夜舞踏会から戻ったあと、様子がちょっと変だったみたいです。一人になりたいからと寝支度もそこそこに侍女を追い出して、それなのに、夜中に部屋から誰かと話している声をメイドが聞いたみたいで。それで、公爵夫妻がアリシアお嬢様の部屋に行ったようなんですが……」
「それでも出てこないの?」
「今はもう出て来られたのかもしれません。公爵様が早朝に司祭様を呼びに行かせて、そのあいだに王太子殿下から先触れがあったようで、中央棟は大変な騒ぎだったみたいです」
「それで、司祭様は来られたの?」
「さあ、そこまでは」
青年は居心地悪そうに視線をさまよわせている。
「あなた、どう見ても下っ端なのにずいぶん色々知ってるのね。誰に聞いたの?」
「あ、……たまたま聞いたんです。お嬢様の前ではみんな無口ですが、別棟のメイドたちは口の軽くて、私がいようがいまいがあれこれ見聞きしたことを喋るので」
青年が上目遣いで私の顔をうかがった。その顔は血色が悪く、頬は痩せこけ、肌もガサガサに荒れている。それなのに、仕事に必要な筋肉だけはついている。
「あなた、名前は?」
「あ、えっと。ハンス、です」
「ハンス。すぐには用意できないけど、いずれ、今の情報に対する対価は与えるわ。仕事、お疲れさま」
私は彼に背を向けて連絡階段に向かった。ハンスは口を半開きにして私を見送っているかもしれない。
大人しくついて来た出目ちゃんが、窓の外の稜線を眺めて「田舎だな」と評した。ここはライニール王国で最も栄える地、王都〈サヴァ・ライナ〉だというのに。




