アリシアの異変(1)
出目ちゃんは私について部屋を出た。通路を見渡し、どことなく偽物じみて感じられるのは果菜の記憶の影響なのだろうか。
「果菜、このマンションは部屋だけじゃなく通路も豪華だな」
豪華だけれど、日本に比べると不便だ。スマホどころか電話もないし、冷蔵庫も電子レンジもない。冷凍器はあるけれど、大きな設備のわりに氷がわずかにできるだけ。ガスが普及しているのが救いとはいえ、貴族令嬢は料理を食す側であって作る側ではない。
せめて塩と胡椒くらいは手に入れたかった。できれば食料も。食事量を増やさないことには、いつまでたっても虚弱体質のままだ。すぐ疲れてしまうから動くことを避けてきたけれど、散歩がてら野草や果実、木の実を探してみるのもいいかもしれない。
気をつけるべきは、果菜の食材知識がそのままライニール王国の食材にあてはまらない可能性があるということ。名前や見た目が同じでも、土壌、水質、餌が違えば成分組成も異なる。薬効のある野草が毒草に分類されるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。
感染症にも注意が必要だ。衛生観念は日本よりライニール王国のほうが劣っている。原因不明の流行り病は〝天の怒り〟とされ、王家の失政に由来すると考えられてきた。流行り病が発生した地域は封鎖して焼き払われるが、周辺地区には箝口令が敷かれ、多くの情報が伏せられている。
私がその事実を知ったのは王宮で侍女をしていたときのことだった。エンディン王国について調べようと王宮図書館に忍び込んだところ、官吏らしき男の会話を書架裏で耳にしたのだ。
――グレイアム家の火災の件なんだが、やはり侯爵夫妻は殺されたようだ。火災の少し前にモアナ伯爵領のルアーナ地区が封鎖焼却されただろう? グレイアム侯爵夫妻はルアーナ地区を訪問していて流行り病に罹ったらしい。グレイアムと言えばアリシア王太子妃殿下の母君のご実家だし、グレイアム侯爵領での患者は侯爵夫妻しか出ていないようだったから、ことを大きくしないよう二人だけを処理したってことだ。
息を殺して盗み聞きし、祖父母を暗殺されたアリシアに同情した。アリシアが悪魔だと知った今となっては、流行り病も、グレイアム侯爵夫妻の暗殺も、すべてアリシアの仕業なのではないかと思えてくる。
「果菜、男の召使いがいるぞ。異世界の男の召使いだ」
出目ちゃんに言われるまでもなく、モップを手に床を磨く青年が視野に入っていた。広々した通路にたった一人。
公爵邸内で一人遠ざけられているとはいえ、不意の訪問者――つまり、婚約者である王太子殿下の訪問に備えて別棟の清掃は行き届いている。毎朝かかさず花が飾られ、窓はピカピカに磨かれ、彫刻品は埃ひとつない。その状態を維持するために常に使用人が五、六人いるはずだが、今はヒョロッと背の高い青年が一人だけ。彼はしきりに中央棟への連絡階段を気にしていた。




