ユーリアの夜(1)
ミレー駅を発った日、予定より遅れてロイヤル列車は東中線の暫定終着駅となるユーリア駅に到着した。日はすでに暮れていたけれど駅周辺は明るく、外に出てみると建設中の鉄道が先に伸びているのが見える。
ここはハルフォードさんがいるパーセル子爵領の手前、ユーリア男爵領という、名前もほとんど知られていない小さな領地だ。本来ならユーリア男爵邸に宿泊するところだが、今夜はロイヤル列車に泊まって明日馬車でパーセル子爵領に向けて発つことになっている。
これは財政的に厳しいユーリア男爵への配慮でもあり、また、山の中の男爵邸まで馬車で向かうより大通り沿いにあるユーリア駅のほうが警備しやすいという判断でもあった。ユーリア男爵は私たちをホームで出迎え、名産品のユーリア木工などを贈り物として献上したあと、二十名ほど警備兵を残して帰っていった。
駅周辺にはガス灯が点っていたが、列車内からは満天の星空と漆黒の稜線とが眺められた。王都でもフランクリン領でも決して見ることのできない、畏怖すら覚える景色。
公爵の精神状態のことを王弟殿下夫妻に話そうという気になったのは、ユーリアの大自然のせいかもしれない。夕食を終えた後のことで、私と王弟夫妻の他に、今回もスタンリー卿が同席していた。
ひと通り話し終えると、ミローナ王弟妃殿下が「そういうことだったのね」と気遣うように私を見る。
「フランクリン公爵邸での晩餐のあと、ラニア公女は元気がないように見えたから心配していたの」
「すぐにお話できず申し訳ありません。気持ちの整理がなかなかつけられず」
「無理に整理する必要はない。しかし、公爵もしんどいな」
ため息をつく王弟殿下の姿は、年頃の娘を持つ父親のものだ。その手にはワイングラス。
「長年に渡って積もり積もった確執だ。一朝一夕に解けるものでもないだろう。感情的な問題は時間が解決してくれる。なにより、公爵の洗脳が解けた状態にあるというのは朗報だ」
「はい」
素直にうなずいたが、殿下はなぜか深刻げに眉を寄せた。
「朗報とは言ったものの、公女の話を聞いていると公爵を一人にしておくのは心配だな。自棄になりはしないか」
「私も心配ですが、私が生きているうちは最悪の選択はなさらないと思います」
洗脳が解けた状態のほうが精神的に不安定になりやすいというのは皮肉な話だった。しかし、一度目の人生で公爵は死を選んでいない。年に何度かは領地を訪れ、私がアリシアの侍女になり、王宮で酷い噂を立てられ、ついには王族殺害未遂の罪で処刑されることになっても。
ただ、私が死んだ後のことはわからない。
「そうだな」
王弟殿下は珍しく私に同情しているようだった。そうでなければ、公爵に同情している。
「父が王都でアリシアと接触しなければ良いのですが、悪魔に関する話をしないことにはそれは難しいです。話したところで信じてくださるかどうかわかりませんし、父からアリシアにこちらの思惑が伝わってはと思い話していません」
「洗脳で自白くらいさせられそうですからね」とスタンリー卿。
王弟殿下は「難しいな」と腕を組んだ。
「利用できるとすれば、アリシア公女の王宮入りだ。成婚を待たず秋に王宮入りするという話は昨日ラニア公女から聞いて初めて知ったが、レイモンドが秘密裏に進めているのかもしれん。事実ならば、アリシア公女の王宮入りまで公爵を領地に留めておくのがいい。公爵に手紙でも書いて、貿易関係者と漁業関係者の聞き取り調査でも命じておこうか。それか、ミレーで何かひと騒動あれば完全に足止めできるんだが……」
「なんてことを」
ミローナ殿下が夫に非難の眼差しを向ける。妻に弱い北部公は「失言」と笑ってごまかそうとしたが、手の甲を扇で叩かれた。
「フレディ殿下。お忘れのようですが、アリシア公女とレイモンド殿下は聖征記念祭に行く途中にフランクリン領を通るのですよ。そのときに洗脳されてしまうかもしれないでしょう?」
「ああ、そういえばそうか」
うんざりしたように王弟殿下は天井を見上げる。しかし、私はこの件についてはあまり悲観的に考えていなかった。
「それについてですが、父は洗脳が解けただけでなく、おそらく洗脳されにくい状態にあると思います」
「どういうことだ?」
身を乗り出した殿下に、私が説明したのはサビナ夫人とアリシアのこと。
フランクリン領に長期滞在することを避けており、なおかつ、案内役のサラや執事のヘイリーの話を聞く限り、領地の人々はあまりサビナ夫人を歓迎していない。エンディン王国展示館に公爵と前妻との結婚式を描いた肖像画が飾られているのは、サビナ夫人にとってみれば屈辱だろう。この状況は、領地邸宅の使用人をはじめ、領地の人々を悪魔の力で洗脳することができなかったということの証明ではないだろうか。
「たしかに公女の言うことは一理ある。だが、現状洗脳が解けているとはいえ、公爵が洗脳されていたのは事実だろう? 領地民が洗脳されないからといって、領地にいれば公爵も洗脳されない――とは言えんのではないか?」
「私は、フランクリン領の食文化が洗脳されにくい要因ではないかと考えています」
「食? ああ、魚か。そういえば、公女は晩餐のときにサビナ夫人がレイラング産の肉を取り寄せているという話をしていたな。あれも食と洗脳を念頭においてのことだったか」
「はい。レイラング産に限らず、洗脳を受けにくい人の共通点は肉をほぼ食べないことです。王都のフランクリン公爵邸では、私と元執事のバリー・ハルフォード、それと使用人の一部。ミレー周辺やセントラ地区で食されているのは肉よりも魚介。まだ仮説に過ぎませんが、父には王都に戻っても魚介を食べてはどうかと勧めました」
私はこの仮説にかなりの確信を抱いていた。今話したこと以外にも、侍女時代の友人ニールの例があるからだ。ニールは肉アレルギーで、洗脳されたとき蕁麻疹が出ていた。でも、残念ながらこの話はここではできない。
そして、王弟殿下が疑り深いのはいつものこと。「食事と洗脳なあ」と半信半疑の表情で羊乳チーズを口に放り込み、ワインで流し込む。




