図書室の幽霊(5)
警備兵は両開きの扉を開け放ち、入ってすぐのところのガス灯にマッチで火を灯した。卵の腐ったような独特な匂いに眉を寄せると、男は「マッチは便利だけど臭いがアレですよね」と笑い、さらに冗談を口にする。
「先ほど見回ったところなので幽霊は出ないと思います。今夜は邸内が騒がしいですし」
「あなたは幽霊を見たことがある?」
「残念ながらありません。普段はこのあたりに来ませんから。今夜は王弟殿下夫妻が宿泊されていますから、人の隠れられそうな場所にはすべて見張りを立てているんです」
彼はふと顔をあげ、私の背後を見て姿勢を正した。通路を振り返ると、夜着姿の公爵がこっちに歩いてくる。
「ラニア? こんな遅くに何をしているんだ?」
「眠れず、少し邸内を歩いていたところです」
「……そうか。せっかくだから中に入るといい。クレアは、いつもここでおまえに本を読んでやっていた」
口調がいつもより柔らかい。顔は赤いし、そばに寄るとワインの匂いがする。
「今まで飲んでいらしたのですか?」
「殿下を放って眠るわけにはいかないだろう?」
雲の上か夢の中を歩いているような和らいだ表情。幸せに満たされているふうではなく、むしろ悲しげだった。公爵は私の手からランプを取ると「こっちだ」と書架の奥へ向かう。
「……ラニア。私はいつどこで何を間違えたのか、よくわからないんだ。なぜ間違いを正すことができないのか、それすらもわからない。だが、領地にいるあいだだけは自分が少しまともになったような気がする。自分が父親失格だと自覚できる程度にはな」
「王都に戻るとそれを忘れてしまうのですか?」
「ああ。何かに操作されているように考えが反転するのだ。もしかしたら私は、……神経症を患っているのかもしれない。おまえにはすまないと思っている。ここではそう思っているのに、王都に戻るとそういう感情がひっくり返ってしまう。まるで別人になったように」
「それで神経症だと?」
「……おまえにしてみれば都合のいい言い訳を言っているように聞こえるだろう。自分でもそう思うさ。アリシアに頼まれた侍女のことも、王都に戻ればおまえにそうしろと強要してしまう気がするのだ。侍女など到底あり得ないと考えているのに」
書架の奥には窓があり、窓辺のソファーには色褪せたクマのぬいぐるみが座っていた。公爵はソファーに座ってクマを膝に乗せると、ぼんやり窓を見上げる。ずいぶん疲れているようだった。
「ここにはアリシアも?」
「……さあ、どうかな。双子はよく忍び込んでいるようだが、ぬいぐるみはもっと前からここにある」
つまり、私がここに来ていた頃からということ。
「お父様」
呼ばれ慣れていないせいか公爵は一瞬不思議そうに首をかしげ、そのあと「なんだ?」と私を見た。
「しばらく領地で静養されてはどうですか? 王都の空気が合わないのでしょう」
「娘の一人が王族との結婚を控えているというのに、そういうわけにもいかない。――ああ、そうだ。まともでいるうちに婚約の件もおまえに謝罪しておかなければいけない。レイモンド殿下の婚約は――」
「最初から破棄される予定のものだったのですよね」
先回りして言うと、公爵は自嘲の笑みを浮かべる。
「婚約の件は私も寝耳に水だった。あの頃、レイモンド殿下の成人を前に大陸各国から婚姻の話が舞い込んでいたようで、おまえとの婚姻の話が進んでいるということにして断ったのだそうだ。エンディンが絡む話なら大陸の国々は大人しく引き下がるから。だが、おまえが本当に王族になれば国内で反発が起きかねない。だから、いずれはアリシアに変更するということになった」
喋り疲れたようにひとつ息を吐いた公爵は、「私を殺したいか」と聞いた。
「殺してほしいのですか?」
「おまえを殺人犯にはしたくない。誰でもいいから後ろから頭を撃ち抜いてくれれば――そう思うときがある。王都にいるときの自分が恐ろしい。先日、大陸で出版された精神医学者の本を読んだんだが、同じ体に複数の人格が存在するという症例があって、多重人格というらしい。口調や顔つきまで変わるとか」
洗脳された人は、ただ私を毛嫌いするだけだと思っていた。心から私を憎むのだと。しかし、公爵の告白を聞く限りそうではなかったようだ。洗脳されて操られているのを、公爵は精神が病んでいるせいだと考えている。
侍女長もそうだったのだろうか。いや、ベラは公爵邸から出ることがないから、こんなふうに懊悩することなく私を虐げられたのかもしれない。
「お父様。やはり、しばらく領地で過ごされてはどうですか? デモの対応もありますし、こちらでやることも多いでしょう? 陛下も無理に戻れとはおっしゃらないはずです。それから、お父様には王都の食事が合っていないのかもしれません。王都でも魚介類を中心にした食事にされてみては?」
「ラニア、おまえは……」
公爵は何か言いかけたが、言葉を詰まらせて目元を覆った。「年をとるといけんな」と口元にだけは微笑を浮かべ、その横を涙が伝って落ちる。
隣に腰かけると、公爵は「おまえのだ」とクマのぬいぐるみを私の膝に置いた。外を散歩していたのか出目ちゃんが眠そうな顔で窓から戻ってきて、公爵の頭の上で寝息をたてはじめる。
どこからか使用人らしい話し声がしたが、遠くて何を言っているのかわからなかった。窓の外から鈴虫のような鳴き声がしていた。海を揺蕩うような夜だと思った。
どれくらい時間が経ったのか、図書室前の警備兵が交代する気配がある。それを機に部屋へと戻ったけれど、ベッドに横になったまま空が白むまで窓を眺めていた。




