第8話:宰相の息子
お昼寝の時間が終わり、午後のおやつ前の自由遊びの時間。
私は絵本の読み聞かせを終え、園児たちのお絵かきを眺めていた。
「リリアーナせんせー、だーいすきっ!」
不意に、元気な声と共に宰相の息子であるレオくんが私の腰にギュッと抱きついてきた。
黒髪碧眼の、将来有望な美少年の卵。父に似て頭がよく、ちょっとませた男の子だ。彼は私にすりすりと頬ずりをしてから、チラリと背後を振り返った。
その視線の先には、積み木のお片付けをしているアレク先生がいる。
「……ん?」
レオくんはアレク先生とバッチリ目を合わせると、ニヤリと生意気な笑みを浮かべ、見せつけるように私をさらに強く抱きしめた。
「せんせいは、ぼくのおよめさんになるんだよーだ!」
その瞬間、アレク先生の手から積み木がゴトッと落ちた。
「お前、またっ……」
アレク先生は立ち上がり、般若のような顔でレオくんに詰め寄ってきた。
「……おい。今なんと言った」
「ぼくのおよめさん! きのう、ママがみてたドラマでね、かっこいいおとこのひとが、こうやってたの!」
レオくんは私から離れると、今度は壁際に立っていた私の隣にサッと移動し、短い腕を精一杯伸ばして壁に手をついた。
――いわゆる、背伸びをした『壁ドン』である。
「……リリアーナ、オレだけのものになれよ」
5歳児らしからぬキメ顔と低音の可愛すぎる声。
私は前世の記憶を総動員して笑いを堪えたが、アレク先生の方は限界を突破していた。
「くそっ……! 羨まし……じゃなくて!調子に乗るなよ小僧!! お前みたいな鼻垂れが、リリアーナの隣に立てると思うな!!」
「うっ、うわ〜〜〜〜ん」
顔を真っ赤にして本気で怒鳴るアレク先生。
私は慌てて二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっとアレク先生! 何を5歳児相手に本気で張り合ってるんですか! あと、子どもに『小僧』なんて言わないでください!!」
「だ、だがこいつが……っ! 先に挑発してきたのはこいつだぞ!!」
「子ども相手に挑発も何もないでしょう! ほら、レオくんに謝って!」
「…………っ、……悪かった」
アレク先生は私の剣幕に押され、しぶしぶといった様子でそっぽを向きながら謝罪した。
レオくんは「べーっだ!」と舌を出して、おもちゃのコーナーへと走っていく。
(もう……本当に大人気ないんだから)
私がため息をついていると、その直後だった。
「あっ……!」
おもちゃ箱の縁に乗って遊ぼうとしたレオくんの足が滑り、バランスを崩して後ろへ倒れそうになった。その後ろには、角ばった木製の棚がある。
「危ないっ!」
私が駆け寄るよりも早く、アレク先生が弾かれたように飛び出した。
彼はレオくんの体を抱き留めると同時に、自らの体を庇うように反転させ、背中から床に滑り込んだ。
「ガッ……!」
「わぁぁん!!」
鈍い音と、レオくんの泣き声が室内に響き渡る。
幸いレオくんに怪我はなかったが、アレク先生は顔を顰めて右手首を押さえていた。
「アレク先生! 大丈夫ですか!?」
「……問題ない。これくらい、なんてことは……」
強がる彼の右腕を見ると、シャツの袖が破れ、肘の辺りを擦りむいているだけでなく、手首が不自然に赤く腫れ上がっていた。どうやら、床に落ちる寸前に手をついて庇ったらしい。
「痛くないわけないじゃないですか! 擦り傷だけじゃなくて、捻挫してますよ、これ! ほら、ちょっとこっちへ来てください。レオくんたちは、マルタ先生にお願いしますから」
私は有無を言わさず彼の左腕を引き、園児たちから見えない奥の医務スペースへと彼を連れ込んだ。
* * *
「……まったく。あんなに本気で怒っていたくせに、一番に飛び出していくんだから」
私は消毒液を含ませたガーゼで、アレク先生の擦り傷をそっと拭き取り、赤く熱を持った手首に冷湿布を丁寧に巻いていった。
「……っ」
「あ、ごめんなさい。痛みますか?」
「いや……痛くない」
(……つ、強がりさん!!)
アレク先生はそっぽを向いたまま、ボソリと答えた。
「……あいつに、怪我がなくてよかった」
照れ隠しのように呟いた彼の横顔は、不機嫌そうな普段の顔とは違う、とても優しく、穏やかなものだった。
私はクスッと笑い、手首の包帯をきゅっと結び終えた。
「はい、おしまいです。レオくんを守ってくれて、本当にありがとうございました、アレク先生」
「……ああ」
彼が嬉しそうに、少しだけ口角を上げたのを見て、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
(口は悪いけど、なんだかんだ言って、やっぱりこの人は『良い先生』ね)
その日の夕方。
保護者への連絡帳を書き終えようとしていた私は、ふとアレク先生が代筆した日誌のページを見て、目を丸くした。
右手を痛めている彼に代わって、私が書くつもりだったのに、「俺は左利きだから」と言い張って彼が書き上げたものだ。
「えっ……?」
そこには、達筆などという言葉では片付けられない、王宮の書記官が書いたような流麗で完璧な文字が並んでいた。
ぶっきらぼうで大雑把な彼からは想像もつかない、気品に満ちた文字。
(……やっぱり、ただ者じゃない)
昨日現れた『エドワード様』の、あのただものではない洗練された身なりとオーラ。
そして、この文字。
上級貴族、あるいはそれ以上の身分であることは間違いないだろう。
私は日誌を閉じながら、ちらりとアレク先生の背中を見つめた。
彼の本当の『正体』を知る日は、そう遠くないのかもしれない――。
* * *
その日の夜。
王宮の執務室では、アレクシス殿下が山積みの書類仕事に向かっていた。
しかし、彼の手は先ほどからピタリと止まったままだ。右の手首には、昼間リリアーナに巻いてもらった真っ白な包帯が巻かれている。
「……なあ、ルーク」
「なんですか、殿下」
部屋の隅で控えていた側近のルークが、書類から顔を上げる。
アレクシスは包帯に顔を近づけ、ボソリと呟いた。
「女の子って、なんであんないい匂いがするんだろうな」
「怒った顔も、良い!」
「…………ふ」
ルークは思わず、持っていた羽ペンを落としそうになった。
ぶっきらぼうで恋愛経験値ゼロ、今まで剣術や趣味にしか興味を示さなかった氷の王子から、初めて『女の子』という単語が飛び出したのだ。
ルークは必死に咳払いをして、込み上げてくる笑いを隠した。
(これは……殿下、完全に重症ですね)
王子としての激務や剣の稽古、空いている昼間は保育園での過酷な労働、そして夜は再び執務。倒れてもおかしくないスケジュールのはずなのに、今の殿下はかつてないほど生き生きとしている。
その理由は明白だった。
「殿下。そんなにため息を吐くくらいお悩みなら、いっそ早々に、婚約を申し込まれてみては?」
「こっ……!!?」
アレクシスが、ガタッと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
耳の先どころか、首の根元まで真っ赤に染まっている。
「こ、こ、婚約だと!? 馬鹿なことを言うな! まだ出会って数日だぞ!?」
「構わないでしょう。殿下が婚約を申請すれば、下級貴族の令嬢など断れる人はおりません」
「……」
「それに、彼女の身元は既に調べさせてもらいましたが……実家のアシュレイ男爵家が生活に困窮していること以外は、特に問題はありませんでした」
「……生活に、困窮しているのか?」
アレクシスの眉がピクリと動いた。
ルークは淡々と頷く。
「はい。ですから、王族からの求婚となれば、彼女にとっても実家にとっても、願ったり叶ったりの話ではないかと」
「……そう、かもしれないが」
アレクシスは再び椅子に深く腰を下ろし、自分の右手首を見つめた。
権力と財力で縛り付ければ、彼女は自分だけのものになる。王族の庇護下に入れば、あんな保育園で、毎日泥だらけになって働く必要もなくなる。
――けれど。
『ほら、レオくんに謝って!』
『手当てしますから!』
脳裏に浮かぶのは、自分を王族だと知らずに対等に叱ってくる、コロコロと変わる表情。
そして何より、子どもたちに囲まれて、太陽のように笑う彼女の姿だった。
(……あいつから、あの場所を奪うのか?)
もし王族と婚約すれば、身分の違いから彼女は間違いなく保育園を辞めさせられるだろう。
やんごとなき『第七王子妃』に、自分の子供の面倒を見てもらう貴族などいるはずがないのだから。
あのキラキラとした、誰のことも照らしてしまうような明るい笑顔は、王宮の窮屈な鳥籠の中ではきっと曇ってしまう。
「……嫌だ」
アレクシスは、包帯をきゅっと握りしめて呟いた。
「俺は……子どもたちに囲まれて笑っている、あいつの顔が好きなんだ」
「殿下……」
「自分が無理に婚約を申し込んで、あいつから大事なものを引き離すような真似は……したくない」
不器用で、けれどどこまでも真っ直ぐな殿下の言葉に、ルークはふっと目を細めた。
「……なるほど。では、正攻法で彼女の心を射止めるしかありませんね」
「ああ、そうだ。……俺のやり方で、必ず振り向かせてやる」
アレクシスは決意に満ちた目でそう宣言すると、再び勢いよく書類仕事に取り掛かった。が、すぐにペンの動きを止め、真剣な顔でルークを見上げた。
「……それと、あいつが俺と結婚しても、今まで通りあの保育園で働けるように……身分の壁をなくす特例や、保護者への根回しの準備も、今のうちから進めておく」
「……はい?」
ルークは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「殿下……。まだ両想いどころか、ご自身の正体すら明かしていないのに、結婚後の奥様のキャリアプランまで考えておいでですか?」
「う、うるさい! 準備をしておくに越したことはないだろうが! 宰相あたりを黙らせる法案の草案から先に片付けるぞ!!」
――またしても壁は宰相なのか。
今日、自分を生意気に挑発してきたませた5歳児であり、この右腕の怪我の原因でもある「宰相の息子」のドヤ顔を思い出し、ギリッと奥歯を噛み締める第七王子だった。
その右腕の包帯からは、まだほんの少しだけ、甘い消毒液と彼女の香りが漂っていた。




