第6話:アレク先生の兄上登場
翌朝。王立貴族保育園の朝の準備中、アレク先生の様子が明らかにおかしかった。
「……アレク先生? そのバケツ、もう水で溢れてますよ?」
「…………あ? ……ああ」
私が声をかけると、アレク先生はハッとしたように蛇口を締めた。だが、その顔はどこか心ここにあらずで、視線が宙を泳いでいる。
(……まさか、昨日の「かっこいい」って独り言、やっぱり聞こえてた!?)
私の心臓がドクンと跳ねる。
アレク先生は昨日の寝顔からは想像もつかないほど不自然な動きで、床を拭いたり、絵本を並べ直したりしている。……が、上下逆さまに並べていることに本人は気づいていないようだ。
「その、昨日……」
「昨日?」
彼が何かを言いかけた、その時だった。
「おーい、ここかい? ウワサの『子守王子』が修行している場所は」
保育園の入り口から、場にそぐわないほど華やかで、どこか聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、いろんな宝石集めて一つに圧縮したような「キラキラオーラ」を撒き散らしている、アレク先生とどことなく似た青年が立っていた。
緩くウェーブした金髪に、いたずらっぽく細められた琥珀色の瞳。
「なっ……兄上……っ!!?」
アレク先生が、持っていたバケツをガシャンと落とした。
そこにいたのは、グランツ王国第三王子、エドワード・フォン・グランツその人だった。
「やあ、アレク、せ・ん・せ・い!」
「元気そうだね。ルークから聞いたよ。君がこの保育園で『生涯を添い遂げようとしている』と」
エドワードは、アレク先生の隣で呆然としている私に視線を移すと、形の良い唇でこれ見よがしにニヤリと笑った。
「ずいぶん楽しそうだよ〜、ね!」
「なっ、なななななな……っ!!!」
エドワードがウインクすると、アレク先生の顔が、一気に不機嫌になった。
「ルークの奴、余計なことを……っ! 帰れ! 今すぐ帰れ!!」
「噂の『リリアーナ先生』ってどこ?」
「はい、私です!」
自分こそが光源だと言わんばかりのイケメンに名前を呼ばれ、凡人の私は口を半開きにして見惚れてしまった。もはやアニメの王子様が画面から飛び出してきたみたいだ。
「初めまして、僕のことはエドワードって呼んでね。ずいぶん弟がお世話になってるようで」
「あ、やっぱりお兄さん!?ちょっと雰囲気が似てるな〜て思ってました」
「あー! あたらしいパパだー!」
「きんぱつ、きらきらしてるー!」
登園してきた子どもたちが、テーマパークの人気キャラクターに群がるゲストのようにエドワードに飛びついた。
彼は「おっと、元気な子猫ちゃんたちだね」と、目をしぼめたくなるようなキラキラした笑顔を振りまいている。
しかし、驚いたのはその後だ。
エドワードは子どもたちに囲まれると、驚くほど自然に彼らの輪に溶け込んでしまったのだ。
「いいかい? パズルはね、まず似てる形を集めてごらん。そうすれば、ほら、はまりやすいだろう?」
「わぁっ! できたー! おにいちゃん、すごーい!」
「あはは、君の瞳はとても綺麗だね。将来は美人さんになりそうだ」
泣きそうになっていた女の子を魔法のような手つきであやし、積み木で遊ぶ男の子たちには絶妙なアドバイスを贈る。初対面なのに、子どもたちの心は一瞬で彼に掴まれてしまった。
「な……っ」
隣で、アレク先生が絶句していた。
毎日、あんなに四苦八苦して、時には園児に指を噛まれそうになりながら「パパ役」に挑んでいるというのに。ふらりと現れた兄が、いとも容易く『完璧な先生』を体現している。
その圧倒的なハイスペックぶりに、アレク先生のプライドがガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
「……すごい、エドワード様! 初めてなのに、子どもたちの扱いがめちゃくちゃ上手ですね!」
私は純粋に感動して、彼のそばに駆け寄った。
「エドワード様はきっと『いいお父さん』になれそうですね!」
なんでもやってあげるんじゃなく、実力を見てその子に合ったコツを教え、自分でできるように諭すようなマネジメントをさらりとやってしまう。
そのスマートな手腕に純粋に感動した私は、悪気など微塵もなく、最大級の褒め言葉を贈った。
……けれど、その瞬間。
「…………くそッッ!!!」
背後で、アレク先生が雷に打たれたように硬直した。
顔面は蒼白、あるいは絶望。
よりにもよってリリアーナに、目の前で兄を「理想の男性像(父親像)」として絶賛されたのだ。そのショックは計り知れない。
「あはは! 聞いたかい、アレク? 君の先生が僕を『いいお父さん』だって」
エドワードが、これ以上ないほどの勝ち誇った笑顔で、リリアーナには聞こえない低音で追い打ちをかける。
「……兄…上……ッ!! 帰れ!! 今すぐ帰れ、この人たらし!!」
ついには叫び声を上げたアレク先生が、エドワードを力ずくで入り口へと押し出していく。
王宮では決して見せないような、必死すぎる弟の姿であった。
エドワード様が嵐のように去っていき、ようやく静まり返った保育室。
アレク先生は、エドワードが座っていた椅子を奪い取るように座り込むと、そこにあった木製パズルを無言で手に取った。
「俺だって、パズルぐらい」
ボソリと、地を這うような低い声が漏れる。
彼は迷いのない手つきでピースをはめていき、エドワード様よりもずっと早いスピードでパズルを完成させた。……けれど、その表情はちっとも晴れていない。
「……リリアーナ」
パズルを完成させたまま、アレク先生が顔を上げずに私を呼んだ。
「お前はなぜ、兄上は『いいお父さん』になると思ったんだ?」
その声は、いつになく真剣で、どこか縋るような響きを含んでいた。
私は少し考えてから、素直な感想を口にする。
「ええと……教え方が、すごく優しかったですから。子どもが自分で気づけるように待ってあげて、できた時にあんなにキラキラした笑顔で褒めてくれたら、子どもは絶対に嬉しいだろうなって」
「…………」
「ああいう、心の『余裕』がある教え方って、あんなに若いとなかなかできないんですよね。これぐらいの時期の子どもたちは『自分できた』ことを大人に褒めてもらって、自己肯定感を育てる大事な時期だから」
「良いお父さんになれるんじゃないかなって」
私が前世の理想のパパ像を重ねて熱弁していると、アレク先生の手がピタリと止まった。
パズルを握りしめる指先に、みるみるうちに力が入っていく。
「……余裕、か」
彼は絞り出すように呟くと、ようやく顔を上げた。
その瞳は、嫉妬と焦燥、そして「自分にはそれがない」という自覚に激しく揺れている。
「……悪かったな『余裕』なくて」
低い、地を這うような声。
いつもなら不機嫌そうに鼻を鳴らすだけの彼が、今はまるで、大切な試験に落ちてしまった子供のような、ひどく傷ついた瞳をしていた。
「あ……ご、ごめんなさい! そういうつもりじゃなくて……」
私が慌てて弁解しようとした、その時だった。
アレク先生が、スッと目を細めて私を真っ直ぐに見た。
「というか……お前」
「えっ?」
「『あんなに若いとなかなかできないんですよね』って……どう考えても、兄上や俺よりお前の方が若いだろう」
心臓が、ヒュッと冷たい音を立てた。
アレク先生は手にしていたパズルのピースをコトリと机に置き、逃げ道を塞ぐように私を見据える。
(あ、しまったーー……!?)




