第5話:夏の水遊び、少しは令嬢としての自覚を持て
ギラギラと照りつける夏の太陽。
王立貴族保育園の広い園庭には、子どもたちの元気な歓声と、水しぶきの音が響き渡っていた。
「リリアーナせんせい、かくごー!!」
「あーっ! レオくん、お顔を狙うのは反則ですよー!」
今日は待ちに待った『水遊び』の日。
水着のような遊び着に着替えた子どもたちは、木製の水鉄砲を手に、園庭を縦横無尽に走り回っている。
もちろん、ターゲットは私だ。
「えーい! まとめてかかってきなさーい!」
私は支給された薄手の夏用エプロン姿のまま、両手に持った小さなバケツで応戦する。
前世の激務保育士時代、夏の水遊びといえば『保育士も頭からずぶ濡れになってナンボ』の世界だった。本気で遊ばないと子どもたちも完全燃焼してくれないため、私は貴族令嬢としての体裁など完全に投げ捨てて、園庭を駆け回っていた。
「きゃああっ! ミアちゃん、後ろから撃ったわね!?」
「えへへー! リリアーナせんせい、びしょびしょー!」
四方八方から放たれる水鉄砲の集中砲火を浴び、私の髪もエプロンも、すっかり水を吸って重くなっていた。
ふう、と額の水を拭い、息をつく。
「みんなー、そろそろ休憩――」
言いかけたその時。
園舎の影から、荷物運びを終えたアレク先生が姿を現した。
「おい、お前ら。あまりリリアーナを困らせ……」
呆れたように口を開きかけたアレク先生の言葉が、ふいにピタリと止まった。
彼は園庭の真ん中でずぶ濡れになっている私を見た瞬間、まるで雷にでも撃たれたように足を止め、目を限界まで見開いた。
「アレク先生? どうかしまし――」
「おっ、おま、お前……っ!!」
バサァッ!!
アレク先生は弾かれたように駆け寄ってくると、自分が羽織っていた少し厚手のシャツを乱暴に脱ぎ捨て、私の頭からすっぽりと被せてきた。
「えっ? わわっ、ちょっと、前が見えな……っ」
視界がふさがれ、バタバタと手足を動かす私。
布越しに、アレク先生の大きな手が私の肩をガシッと掴み、布地をきつく巻きつけるように引き寄せた。
「バカッ! 無防備すぎるだろ……っ!!」
耳元で、怒鳴るような、けれどひどく焦ったような低い声が降ってくる。
布の隙間からそっと見上げると、至近距離にいるアレク先生の顔は、耳の先から首の根元まで、引火したように真っ赤に染まり上がっていた。
普段の不機嫌なサファイアの瞳は、どこかやり場のない熱を帯びて激しく揺らいでいる。
「え? む、無防備って……」
私は彼の上着の隙間から、自分の格好を見下ろした。
そして、一気に血の気が引くのと同時に、顔面が爆発しそうなくらい熱くなるのを感じた。
(う、うわあああああっ!!)
水をたっぷり吸った白い夏用ブラウスと薄手のエプロンは、肌にピタリと張り付き、下に着ていた肌着のラインから肌の色まで、信じられないほどくっきりと透けてしまっていたのだ。
前世の感覚で「水着みたいなものだし、まあいっか」と油断していたが、ここはファンタジーな異世界。しかも相手は、うら若き青年である。
「ご、ごめんなさいっ! 私、遊ぶのに夢中で全然気づかなくて……っ!」
「いいから! そのまま絶対に動くな!」
アレク先生は片手で自分の顔を覆い、私からプイッと視線を逸らした。
しかし、私の肩を抱き寄せる手は離そうとしない。彼から漂う微かな匂いと、男の人特有の高い体温が上着越しに伝わってきて、私の心臓まで警鐘を鳴らし始める。
(ど、どうしよう。恥ずかしすぎるし、心臓がうるさい……っ)
私が上着の中でパニックになっていると、頭上からアレク先生のギリギリと歯噛みするような声が聞こえてきた。
「お前は本当に……っ、少しは令嬢としての自覚を持て……っ!」
アレク先生は顔を真っ赤にしたまま、信じられないものを見るような、それでいてどこか傷ついたような瞳で私を睨み下ろしてきた。
異様に甘くて気まずい沈黙。
しかし、そんな大人の事情を、体力を持て余した怪獣たちが放っておくわけがなかった。
「あー! アレクせんせいだけずるい!!」
「リリアーナせんせいに、ぎゅーってしてるー!」
レオくんの声高な叫びと共に、子どもたちの水鉄砲の銃口が一斉にアレク先生へと向けられた。
「ま、待て小僧ども! 今はそれどころじゃ――」
ピュッ! ビチャァッ!
「ぐあっ……!?」
容赦ない顔面への水撃を受け、アレク先生が呻き声を上げる。
子どもたちは「つぎのターゲットは、アレクせんせいだー!」と歓声を上げ、完全に私たちを包囲していた。
「お前ら……っ! 俺の服まで濡らす気か!!」
「えへへー、アレクせんせいもいっしょにあそぼー!」
アレク先生は、私に上着を被せて周囲の目から隠したまま、自分一人で子どもたちの水鉄砲の集中砲火を浴び始めた。
私を濡らさないように庇うその背中は、子ども相手にムキになって怒鳴っているというのに、信じられないくらい広くて頼もしい。
(アレク先生……っ)
「ほらリリアーナ! ぼーっとしてないで、早く着替えてこい! ここは俺が食い止める!」
顔から水を滴らせながら、アレク先生が振り返って叫んだ。
その顔は相変わらず真っ赤で、不機嫌そうなのに、どうしようもなく優しい。
「……はいっ! ありがとうございます、アレク先生!」
私は彼の上着を胸元でギュッと握りしめると、真っ赤になった顔を隠すように、逃げるように更衣室へと駆け出した。
背後から聞こえる「くそっ、お前ら容赦なすぎだろ!?」という彼の情けない声に、私はほんの少しだけ口角を上げ――自分を包む上着に残る彼の熱に、たまらなく胸を締め付けられていたのだった。
* * *
嵐のような水遊びの時間は終わり、保育園には穏やかな午後の光が差し込んでいた。
着替えを済ませ、心地よい疲れに包まれた子どもたちは、一人、また一人と夢の中へと旅立っていく。
(ふぅ……ようやくみんな寝てくれたわね)
私は静まり返った室内を見渡し、ふと部屋の隅で止まった。
そこには、レオくんたち数人の園児に囲まれるようにして、壁にもたれかかって眠りこけているアレク先生の姿があった。
よほど子どもたちとの「水鉄砲合戦」で体力を削られたのだろう。
腕の中に園児を一人抱え込み、肩にも別の子が頭を預けている。相当お疲れだというのに、彼は規則正しい寝息を立てていた。
(……あんなに嫌がってたのに、すっかりパパ役が板についてるじゃない)
私は足音を忍ばせ、そっと彼のそばに歩み寄った。
普段の不機嫌そうな鋭い瞳は閉じられ、少し長めの睫毛が頬に影を落としている。
整いすぎた鼻筋に、少しだけ開いた形の良い唇。
エプロン姿で子どもたちに添い寝しているその姿は、高貴なオーラと優しさが混ざり合って、壊滅的ななまでの破壊力を持っていた。
(……ずるいわ。黙っていれば、本当に……)
「……すごく、かっこいい」
自分でも無意識だった。
ふっと、心の中にあった本音がそのまま指の間からこぼれ落ちるように、小さな呟きとなって漏れてしまったのだ。
「っ!?」
ハッとして、私は自分の口を手で押さえた。
静かな室内。今の独り言、もしかして聞こえちゃった……?
恐る恐るアレク先生の顔を覗き込む。
彼は相変わらず目を閉じたままだ。
(ま、まさか……起きてる!?)
パニックになった私は、慌ててその場を離れようとした。
しかしその瞬間、アレク先生の腕の中で眠っていたレオくんがムニャムニャと動いたせいで、彼の体勢がわずかに崩れた。
「……あ、あの、アレク先生? 起きて……ます、か?」
蚊の鳴くような声で尋ねてみる。
数秒の沈黙。アレク先生はピクリとも動かない。
「……リリアーナ先生、あっちでシーツを畳むのを手伝ってくれる?」
遠くからマルタ先生に呼ばれ、私は「は、はいっ!」と飛び上がるように返事をした。
「失礼しまーす」
逃げるようにその場を去った。
パタパタと廊下を走っていく足音が聞こえなくなり、再び静まり返った室内。
……その直後だった。
「…………っ、……はぁっ!!」
石像のように固まっていたアレクシスが、弾かれたように目を見開いた。
肺に溜まっていた空気をすべて吐き出すような激しい呼吸と共に、抑え込んでいた熱が一気に顔面へと噴き出す。
彼は震える手で顔を覆い、そのまま膝の間に頭を埋めるようにして丸まった。
心臓の音が耳元でうるさく打ち鳴らされ、あまりの衝撃に指先が痺れている。
「……クソッ、ふざけるな。……今、俺に言った……っ!?」
地を這うような、絞り出すような呻き声が響く。
唐突に『かっこいい』とか言われて、平気でいられるはずがない。
「……心臓が、持たねぇだろ……っ」
主の前でこれほどまでに醜態を晒しているのが自分でも信じられない。
アレクシスは、自分の腕の中で幸せそうに眠る園児を、誰にも見られないよう、そして自分自身の動揺を押し殺すように、ぎゅっと強く抱きしめたのだった。




