第48話:水族館デート
――リリアーナの誕生日、当日。
まだ春浅く、風に肌寒さが残る日の朝。
リリアーナは、少しだけ入念にメイクをして、お気に入りの装いに身を包んだ。
暖かみのある、少し厚手のサテン生地で作られたラベンダーカラーのミモレ丈ワンピース。その上に、上品なネイビーのノーカラーショートコートを羽織る。首元には、母から譲り受けたパールを、コートの襟から少しだけ覗かせた。
(うん、これなら寒くないし、アレクシス様とのデートにも……)
ドキドキしながら自室の扉を開けると、全く同じタイミングで、隣の部屋――アレクシスの自室の扉が開いた。
「あ、おはようございま――えっ」
廊下に出たリリアーナは、隣から現れた青年の姿に息を呑み、言葉を失ってしまった。
「……おはよう」
そこに立っていたのは、いつもの豪奢な軍服でも、ヨレヨレのエプロン姿でもない彼だった。
上質な白のハイネックニットに、黒のテーラードジャケット。下は細身のダークグレーのパンツという、驚くほどラフでカジュアルな装いだったのだ。
「な、なんだその顔は。……やっぱり変か?」
アレクシスは気まずそうに視線を泳がせ、首元のニットを少し引っ張った。
普段は絶対に身につけないようなカジュアルな服に、氷の王子は完全に自信を喪失しているらしい。しかし。
(かっ、顔がいいから、何を着ても破壊力がカンストしてるーーっ!!)
リリアーナは心の中で盛大に叫んだ。
王族特有の近寄りがたさが消えて、ただの「超絶美形の青年」になっている。
「変だなんて、とんでもないです! すっごく……すっごくかっこいいです! アレクシス様、本当に何でも似合いますね……!」
リリアーナが顔を真っ赤にして興奮気味に伝えると、アレクシスは「っ……!」と息を呑み、バッ!と片手で口元を覆って顔を背けてしまった。
見えている耳の先が、信じられないほど赤く染まっている。
「そ、そうか。もういい、行くぞ!」
アレクシスは、照れ隠しのようにぶっきらぼうに言い捨てると、リリアーナの右手をキュッと強く握りしめた。指と指を深く絡ませる『恋人繋ぎ』だ。
「……はぐれないようにだ。今日は、誰がどう見ても『ただの婚約者』のデートだからな。……絶対に離すなよ」
そっぽを向いたまま、繋いだ手にさらにギュッと力が込められる。
リリアーナは嬉しさで胸をいっぱいにしながら、繋がれた大きな手に両手でしがみつくようにして、満面の笑みを浮かべた。
「はい! 行きましょう、アレクシス様!」
* * *
休日の水族館は、多くの人で賑わっていた。
薄暗い館内で、アレクシスはリリアーナの背後にぴったりと張り付き、周囲の客から庇うように両腕でそっと包み込んでくれた。
色々なエリアをゆっくりと回り、すっかりデートを満喫した二人が最後に辿り着いたのは、少し照明の落ちた『深海魚コーナー』だった。
「わあ……! 不思議な生き物がいっぱいです!」
リリアーナが水槽を覗き込んでいると、ふと、砂底を這うように動く、オレンジ色の小さな生き物が目に留まった。
「あっ! め、メンダコです! アレクシス様、メンダコがいます! 私、生で本物が動いているのを見るの、初めてです!」
「メンダコ……ああ、お前がよく連絡帳に描いていた、あの変なタコか」
「はいっ! すっごく可愛くて大好きなんです! だって……ほら!」
リリアーナは自分のショルダーバッグをゴソゴソと漁ると、中からコロンとした『小さな木彫りのメンダコ』を取り出し、嬉しそうに手のひらに乗せた。
「……っ」
それを見た瞬間、アレクシスの胸が大きく跳ねた。
それは、彼女が初めて王宮の彼のアトリエを訪れた日。彼が「お前が喜ぶかと思って、昨日の夜に彫った」と涼しい顔でプレゼントしたものだ。本当は、彼女が好きすぎて無意識に毎日のように作っていた『無限メンダコ』のうちの、一番の出来栄えだった一つだ。
角が丁寧に丸く削られたその木彫りのメンダコは、何度も何度も大切に撫でられたのか、表面がツヤツヤと滑らかに光っている。
「いつも、お守りみたいに持ち歩いてるんですよ!」
水槽の中で泳ぐ本物のメンダコと、手のひらの木彫りを見比べながら、リリアーナは最高の笑顔を彼に向けた。
「あの時、アトリエでこれをもらったメンダコちゃんは、私の宝物なんです。今日こうして、本物のメンダコをアレクシス様と一緒に見られて……私、すっごく幸せです!」
「〜〜〜〜〜ッ!!」
アレクシスは、バッ!! と両手で顔を覆い、その場にうずくまりそうになるのを必死に堪えた。
自分の重すぎる愛情で削り出した木切れを、こんなにも愛おしそうに持ち歩いてくれている。しかも「宝物」だと、世界で一番可愛い笑顔で笑いながら。
「だからっ、なんでお前は、昔から俺の急所を直球で狙ってくるんだ!!!」
既に心身のすべてを分かち合った間柄だというのに。ただの婚約者として歩む『お忍び』の時間は、どうしようもなく新鮮で、胸の奥がむず痒くなる。
アレクシスは片手で顔の赤さを隠したまま、もう片方の手でリリアーナの腰をグッと引き寄せ、自分に密着させた。
周囲の魚たちに見守られながら、二人の甘いお忍びデートはさらに熱を帯びていくのだった。
* * *
「――あ、すみません、アレクシス様。少しお手洗いに行ってきてもいいですか?」
「あぁ、分かった。……ここで待っている」
リリアーナが近くのお手洗いへ向かうと、アレクシスは近くのベンチに座り、彼女を待つことにした。
「…………はぁ」
まだ熱を帯びている顔を手で仰ぎながら、彼はリリアーナの先ほどの笑顔を思い出していた。
生まれて初めての感情に臆病になり、大切すぎて手を出せなかったあの日への歯痒さと、今こうして想いを通い合わせている甘い実感が入り混じる。
(あの時は……キスもできなかったが。……今は違う)
昼間の照れ屋な顔から、少しだけ「夜の氷の王子顔」になりかけた、その時だった。
「……ううっ、……ママぁ……!」
近くの柱の陰から、小さな泣き声が聞こえた。
アレクシスが視線を向けると、そこには小さな女の子が、一人で座り込んで泣いていた。
「…………」
アレクシスは一瞬、かつての「冷徹な殺気」の表情に戻りかけたが、すぐにリリアーナが保育園で子どもたちに接している姿を思い出す。
彼は深くため息を吐くと、ベンチから立ち上がり、女の子の元へ歩み寄った。そして、女の子の目線に合わせてしゃがみ込む。
「……おい。どうした」
「……ひっ! ママが、いなくなっちゃったの……!」
「……泣くな。……迷子か」
アレクシスは、お手洗いに向かったリリアーナの時間を気にしつつ、女の子の頭をそっと撫でて安心できるように微笑んだ。かつては子ども相手でも不機嫌そうにしていた彼が、今では完全に『立派な保育士(アレク先生)』になっている。
「……俺の連れが戻るまで、ここで待つか」
「……うん」
女の子は、アレクシスの優しさに泣き止むと、彼の大きな手をギュッと握りしめた。
お手洗いから戻ってきたリリアーナは、遠くからその光景を見て、目を丸くした。
(アレクシス様、その子は……?)
女の子の目線に合わせてしゃがみ込み、優しく頭を撫でて慰めているその姿に、リリアーナは感動した。
小走りで駆け寄ると、女の子はアレクシスにべったりと懐いている。
「アレクシス様、その子は迷子ですか?」
「……あぁ。お前を待っている間に見つけた。泣き止まなくて困った」
アレクシスは、照れくさそうに視線を逸らしながらも、女の子の手を絶対に離さなかった。
「うわぁ……! 流石『アレク先生』ですね! 私がいない間に、女の子を助けてくれたなんて!」
「……うるさい。さっさと迷子センターへ行くぞ」
女の子を中心に、アレクシス、リリアーナの三人で手を繋ぎ、迷子センターへと向かう。
無事に親元へ送り届けた後。女の子は「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう!」と元気よく手を振って、家族のもとへ帰っていった。
その光景があまりに微笑ましく、リリアーナは嬉しくてつい口角が緩んでしまう。いたずら心が芽生えた彼女は、腰に手を当て、少し顎を引いてアレクシスを鋭く見上げた。そう、普段の彼が自分に言い聞かせる時の、あの「絶対的な支配者」のような口調を真似て。
「……おい、アレク先生。信じられん。俺という婚約者が隣にいながら、誕生日デートの最中に他の女に愛想を振りまくなんて。……随分と危機感が足りないんじゃないか? ――万死に値する不敬」
「ぶっ……なっ!? ご、誤解だ、リリアーナ! あれはあいつが勝手に俺の手を……っ」
あまりにも自分そっくりの「嫉妬の台詞」をぶつけられ、アレクシスは一瞬で顔を真っ青にしてしどろもどろになった。本気で焦って弁解しようとする彼を見て、リリアーナはついに我慢の限界を迎える。
「ふふ、あはは! 冗談ですよ! 五歳児相手に嫉妬される気持ち、少しは分かりましたか? あー、おかしい……お腹痛い! あははは!」
お腹を抱えて文字通り「爆笑」するリリアーナ。そのあまりに楽しそうな様子に、アレクシスはバッ! と口元を覆い、逃げるように視線を逸らした。
自分がいつもどれほど理不尽な嫉妬を彼女にぶつけていたかを突きつけられ、ぐうの音も出ないらしい。
「お前……意地が悪いぞ」
アレクシスはムッとしたように眉を寄せたが、涙目になりながら笑い転げるリリアーナを見て、すぐに深い溜息を吐き出した。……結局のところ、自分はこの笑顔に一番弱いのだ。
「ふふ……でも、アレクシス様が迷子の子にとても優しく接しているのが見えて、私、とっても嬉しかったんです」
ようやく笑い止まったリリアーナが慈しむような視線を向けると、アレクシスは彼女の頭を少し乱暴に、けれど愛おしそうに撫でた。
「すっかり立派な『先生』になりましたよね」
「……ふん。上司が優秀だったからな」
照れ隠しに少しだけ得意げに、けれどその瞳には隠しきれない優しさを滲ませて彼は笑う。
やがて空は淡い茜色に溶け始め、二人の絆をさらに深めたデートは、夕暮れに染まる観覧車へと向かっていく。




