第41話:アシュレイ家の凄腕保育士リリアーナ先生
王宮内に新設された、次世代の貴族教育を実践する『王立貴族保育園』
ここは元々、王宮で昼夜問わず働く文官や近衛騎士たちが「少しでも近くで、安心して子どもを預けられる場所が欲しい」と声を上げて設立された場所だ。そのため、公爵家から下位の騎士爵家まで様々な家庭の子どもたちが通っており、ここでは「爵位に関係なく、子どもたちがみんな仲良く、誰にでも優しくできること」を一番の教育方針としていた。
朝の会が始まる直前。副園長として私と共にこの園を運営しているアレクシス様が、国王陛下からの急な呼び出しにより席を外すことになった。
「リリアーナ、すまない。少しだけ抜けるが、すぐに戻る」
「はい、お気をつけて」
アレクシス様を見送ってすぐのことだった。
バァン! と、無遠慮な音を立てて保育室の扉が開かれた。
「まあ、噂通りですこと。我が家の大切な跡取りが、こんなゴミ山のような部屋に入れられているなんて」
扇子を広げて嘲るように笑いながら入ってきたのは、ベネット侯爵夫人だった。彼女の後ろには、彼女に同調する取り巻きの高位貴族の夫人たちが数人、徒党を組んでぞろぞろと続いている。
「侯爵夫人……それに皆様。本日は参観日ではございませんが」
「ええ、抜き打ちの視察に参りましたのよ。最近、子どもたちが『廃材』なる不潔なゴミを触らされていると聞きましてね。……あら? 殿下はいらっしゃらないのね」
アレクシス様がいないことを確認した途端、夫人たちの態度は露骨に強気なものへと変わった。彼がいない隙を狙って、文句を言うためにわざわざ乗り込んできたのだ。
「殿下がいらっしゃらないのをいいことに、男爵家の娘がやりたい放題ですわね。こんな下品な貧乏遊び、今すぐやめさせなさい!」
夫人たちが徒党を組んで私を囲み、非難の声を上げた。
しかし、以前から私のクラスに通っている園児たちは、大人たちの騒ぎなど気にする様子もなく、下位貴族の子も上級貴族の子も一緒に床に座り込み、目を輝かせて空き箱やリボンを組み立てていた。
「レオくん、ここ、おさえてて!」
「うん! まかせて!」
「エマちゃん、このおはな、かざっていい?」
「ええ、とってもすてきね!」
身分の壁など存在しない、思いやりに溢れた平和な空間。
だが、突然乗り込んできた母親たちのピリピリとした空気に当てられたのか、取り巻きの夫人の息子である公爵家の嫡男、フェリックス君が突然声を荒らげた。
「それ、よこせ! ぼくがつかうんだ!」
フェリックス君は、男爵令嬢であるクロエちゃんがティアラの飾りにしようとしていたガラス玉を、力ずくで奪おうとしたのだ。
「だめっ! わたしがさきにみつけたの!」
反射的にクロエちゃんが彼をドンッと突き飛ばすと、バランスを崩したフェリックス君は転倒し、腕を擦りむいてしまった。
「いたいぃぃっ! うわぁぁぁん!」
大声で泣き出したその姿を見て、視察に来ていた公爵夫人が悲鳴を上げ、血相を変えて震えるクロエちゃんへとズカズカと歩み寄った。
「下級貴族の娘の分際で、我が息子に手を上げるなんて! そのふざけた性根、私が叩き直して差し上げます!」
「ひっ……!」
公爵夫人が大きく平手を振り上げ、クロエちゃんの小さな頬へと思い切り振り下ろそうとした、その瞬間。
「クロエちゃん!」
私は咄嗟にクロエちゃんを抱き込み、その小さな体を庇うように背中を向けた。
パァンッ!!
鋭い音が保育室に響き渡る。公爵夫人の手は、クロエちゃんではなく、私の頬を容赦なく打った。
「リ、リリアーナ先生!?」
「せんせい……っ!」
パニックになっていた男爵夫人や、冷笑していたベネット侯爵夫人たちも、信じられないものを見たように息を呑んだ。
「……公爵夫人」
私は腕の中で震えるクロエちゃんを優しく撫でて落ち着かせると、ゆっくりと立ち上がり、青ざめている公爵夫人を真っ直ぐに見据えた。怒りではなく、教育を司る者としての静かで毅然とした声が、保育室に響く。
「子どもたちの目の前で、怒りに任せて手を上げるという行為が、彼らの心にどれほど残酷な影響を及ぼすか、お分かりですか?」
「な、何を……この娘がフェリックスに怪我を……っ」
「子どもは大人の鏡です」
言い訳をしようとする公爵夫人の言葉を遮り、私はきっぱりと言い放った。
「大人が自分の思い通りにならない時は、暴力で相手を従わせればいいという姿を見せれば、子どもたちはそれをそのまま学習します。次にお友達と意見がぶつかった時、彼らは言葉ではなく、あなたと同じように力で解決しようとするでしょう。ご自分の息子を、力でしか他者を支配できない暴君に育てたいのですか?」
「っ……」
公爵夫人は息を呑み、一歩後ずさった。
「それに、恐怖で植え付けられた服従は、本当の反省には繋がりません。子どもたちはただ大人の顔色を窺い、怒られないために嘘をつき、自分の本当の気持ちを隠す臆病な心を育ててしまうだけです。……私たちは、この子たちに暴力に怯える操り人形になってほしいわけではないはずです」
私の言葉に、取り巻きの夫人たちはハッとして言葉を失った。
しかし、大勢の前で男爵家の娘に正論で説教をされた公爵夫人は、己の非を認めるどころか、屈辱で顔を真っ赤にして激昂した。
「男爵家の娘の分際で……公爵夫人たるこの私に、説教をするおつもり!?」
逆上した彼女は、今度は私を狙って、再び大きく平手を振り上げた。
風を切る音が響く。私は決して逃げず、その目を真っ直ぐに見据えたまま打たれる覚悟を決めた。
しかし、その手は私に届くことはなかった。
「おばさん、だめ!!」
静まり返った教室に、よく通る子どもの声が響いた。
宰相の息子であるレオくんが、私の前にさっと飛び出し、小さな両手を大きく広げて公爵夫人の前に立ちはだかったのだ。
「リリアーナ先生を、いじめるな! 手を出すのは、おしゃべりができない赤ちゃんだけだ!!」
さらにレオくんは、父親譲りの鋭い眼光で公爵夫人を睨みつけた。
「リリアーナ先生は、僕たちの大事な先生だ!! これ以上先生をぶったら……あなた方、僕の父である宰相閣下を、敵に回す覚悟ができているということですかな?」
「レ、レオ様……!」
宰相家の跡取りからの思わぬ反撃と威圧に、公爵夫人は振り上げた手を震わせ、凍りついたように動きを止めた。
「そうだよ! フェリックスくんが、むりやりとろうとしたのが、わるいんだよ!」
「せんせいは、だれでもごめんなさいができるこが、ほんとうのかっこいいきぞくだって、おしえてくれたよ!」
レオくんの行動に勇気づけられ、他の上級貴族の子どもたちも次々と私の前に並び始めた。彼らは、身分に関係なく、正しいことは正しいと胸を張って主張している。
その状況に焦ったベネット侯爵夫人が、自分の娘の腕を引っ張ろうとした。
「エ、エマ! あなたも早くこっちへ来なさい! 殿下のいないところで、こんな下品な騒ぎに関わっては……」
「やだっ!!」
エマちゃんは母親の手を振り払い、涙をポロポロとこぼしながら、子どもたちの輪の最前列に立った。
「おかあさまの、いじわる!リリアーナせんせいは、ゴミをたからものにするまほうをおしえてくれる、とってもやさしいせんせいなのに! せんせいをいじめる、おかあさまなんて、だいきらいっ!!」
「っ……!」
パシャン、と。ベネット侯爵夫人の手から、高価な扇子が滑り落ちた。自分の体面ばかりを気にしていた彼女は、最も愛する娘からの言葉に雷に打たれたように立ち尽くし、真っ青になって口元を覆った。
「みんな、ありがとう。先生は大丈夫」
私は、私を守ってくれた子どもたちに優しく微笑みかけると、怪我をして泣いているフェリックス君の元へ膝をついた。素早く傷を拭い、可愛い絆創膏を貼って、トントンと背中を叩く。
「痛かったわね、フェリックス君。でも、もう大丈夫よ。……お家ではいつも、欲しいものはすぐに用意してもらえていたのね。でもね、ここではみんなお友達なの。無理やり取ったら、お友達は悲しい気持ちになっちゃうわ。貸してほしかったら、なんて言えばよかったかな?」
「……かして、って、いえばよかった」
「そうね。とても上手に言えたわ」
私はそこでもう一つ、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「フェリックス君。どうしてそんなに、カッコいい剣が作りたかったの?」
フェリックス君はチラリと背後で立ち尽くす公爵夫人を見上げて、再び大粒の涙をこぼし始めた。
「だって……いつもいそがしいおかあさまに、ぼくのつくった、いちばんかっこいいけんをみてもらいたかったから……。そうしたら、おかあさま、いっぱいいいこにしてたねって、ほめてくれると、おもって……」
しゃくりあげながら紡がれたその言葉に、公爵夫人は息を呑んだ。
「フェリックス……あなたが、これを……?」
「おうちでは、おべんきょうばっかりで、おかあさま、あんまりわらってくれないから……さみしかった、ぼく……っ」
公爵夫人の目から、ボロボロと涙が溢れ出した。
暴力で解決しようとした自分が恥ずかしくなり、そして何より、一番大切な息子の心に寄り添えていなかったことに気づいたのだ。夫人は高級なドレスが汚れるのも構わず床に膝をつくと、フェリックス君を強く抱きしめた。
「ごめんなさい……ごめんなさいね、フェリックス。お母様、あなたの気持ちも知らないで……」
その姿を見て、クロエちゃんも小さく頷いてフェリックス君に歩み寄った。
「フェリックスくん、おケガさせて、ごめんなさい。……つきとばして、ごめんなさい」
「ううん。ボクも、むりやりとろうとして、ごめんなさい」
大人の暴力ではなく、対話と理解によって、自らの意思でしっかりと謝り合った二人。
静まり返る室内で、夫人たちは何も言い返せなかった。自分たちが格ばかりを気にして、教育の本質を全く見ていなかったことを突きつけられたのだ。
「……さて! 仲直りできたところで、みんなで世界一立派な剣とティアラを作りましょうか」
私の言葉に、公爵夫人が真っ先に涙を拭って頷いた。エマちゃんに嫌われて呆然としていたベネット侯爵夫人も、ハッとして震える手で娘の作った冠を拾い上げ、「エマ、お母様も……手伝っていいかしら」と涙ぐみながら寄り添った。
* * *
一時間後。
急ぎの公務を終えたアレクシスは、抜き打ち視察に来た夫人たちにリリアーナが囲まれているという報告を受け、息を切らして保育室の扉を勢いよく開けた。
「リリアーナ! 無事か……ッ!?」
最悪の事態すら想定して飛び込んだ俺だったが、そこに広がっていた異様な光景に、思考が完全に停止した。
「……ですからベネット侯爵夫人。エマちゃんが朝のお着替えを嫌がるのは自立に向けた大切な一歩なのです。明日の朝は、ご本人に選択を委ねてみてください」
「まあっ! さすがはリリアーナ先生、すぐにメモしておかなくては」
「先生、フェリックスが野菜を残す時はどうすれば……?」
「細かく刻んでハンバーグに混ぜつつ、野菜の絵本を読んであげるのが効果的ですよ」
俺の目は節穴か。リリアーナを潰しに来たはずの夫人たちが、あろうことか彼女を囲み、まるで聖母の教えを請う信者のように熱心に『子育て相談』に興じているのだ。
「……は?」
自分でも驚くほど、間の抜けた声が漏れた。理解の範疇を超えた光景に戸惑う俺に、リリアーナは最高の笑顔で振り返る。
「おかえりなさいませ、副園長先生! ふふっ、保護者面談の真っ最中ですよ」
「保護者面談、だと……? いや、それよりもリリアーナ。その頬の赤みはなんだ」
彼女の頬に残るうっすらとした赤い跡に気づいた瞬間、俺の脳が冷たく沸騰した。何かを察した瞬間、底冷えする視線が勝手に夫人たちを捉える。
「ひっ……!」
本物の戦場を知る王子の殺気に、夫人たちがビクッと肩を震わせ、一瞬にして教室の温度が下がった。だが、リリアーナが「保護者への威嚇はいけませんよ」と静かに首を横に振った。その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、俺はハッとして纏っていた冷気を引っ込めた。
その後、ベネット侯爵夫人が「先ほどの無礼をお許しください」と深々と頭を下げ、エマと一緒に食事の招待までして去っていくのを見送った後。ようやく二人きりになった室内で、俺は改めて彼女の頬を指先でなぞった。
「……一体、何があったんだ。この痕は、まさか打たれたのか?」
俺の問いに、リリアーナは困ったように笑いながら、事の顛末を話し始めた。
公爵夫人がクロエを打とうとしたこと。それを彼女が身を挺して庇ったこと。そして逆上して自分を狙った公爵夫人の手を、レオが——宰相の息子としての威厳を持って——止めたこと。
話を聞きながら、俺は以前、ベネット侯爵夫人がリリアーナの実家に圧力をかけた際、裏から王子として彼女を守った時のことを思い出していた。
(……あの時は、俺が権力を使って力づくで夫人に謝罪をさせた。だが、あれは結局、恐怖で相手を縛っただけの『一時的な解決』に過ぎなかったんだな)
現に夫人は、俺の目が届かないところでこうしてまた、リリアーナを「男爵家の娘」と見下して攻撃を仕掛けてきた。俺がどれほど裏から手を回そうと、彼女自身の立場が変わらなければ、この理不尽な連鎖は終わらなかったのだ。
だが、今回お前が成し遂げたことは、俺のやり方とは根本から違っていた。
お前は理不尽な暴力を受けても力でねじ伏せず、怒りではなく「教育」と「対話」によって、彼女たちが抱えていた不安や見栄を根本から取り除いた。いがみ合っていた者たちを、子を想う一人の母親へと立ち返らせ、心からの謝罪と信頼を引き出し、味方に変えてしまったのだ。
「……敵を力で排除するのではなく、教え導き、味方に変える。それがどれほど困難で、尊いことか」
「俺は今まで、力で黙らせることしか知らなかった。だが、リリアーナ。お前のその誇りこそが、本当の意味で国を豊かにする『統治』の姿なのだろうな」
(守るまでもなく、お前は自分自身の手で、この場所を最高の学び舎へと昇華させてしまった)
込み上げる熱い感情を抑え、俺は彼女に向かって真っ直ぐに姿勢を正した。
「一人の人間として、お前を心から尊敬するよ」
「アレクシス様……?」
「やっぱり、俺はもう少し不器用な後輩として、お前に叱られておくべきだったかな」
少し照れくさそうに笑いながら、俺は彼女の小さな手を握りしめた。
王族という鎧に守られてきた俺の目には、目の前の一人ひとりと真剣に向き合い、身分も関係なく、自らの力で未来を切り拓いた彼女の姿が、どんな宝石よりも眩しく、そして一人の人間として、誰よりも誇らしく映っていた。
(……それにしても)
ふと視線を感じて顔を上げると、レオと目が合った。
あいつはリリアーナに隠れて俺にだけ分かるようにニヤリと口角を上げ、これ以上ないほど不遜な「勝ち誇った顔」を向けてきた。その目は饒舌に物語っている。『僕、先生を守っちゃった。アレク先生は何してたの?』と。
(……くっ、完全に一本取られたな)
リリアーナを最前線で守り抜いたあの大金星、認めないわけにはいかない。
「アレクシス様、どうかされましたか?」
「なんでもない。……今日は、俺の負けだ。あの小さな騎士に相応の褒美を考えておいてくれ。それから――」
俺は膝をつき、一緒に戦ってくれた子どもたちと同じ目線になった。
「みんな、リリアーナ先生を守ってくれてありがとう。お前たちは俺が思う以上に勇敢で、誰よりも立派な騎士だったぞ」
「わあぁ! アレクせんせいに、ほめられた!」
「せんせいのこと、まもったんだよ!」
歓声を上げて喜ぶ子どもたちの頭を、俺は一人ひとり丁寧に、撫でてやる。そして最後に、一番前で不敵に笑うレオを引き寄せた。
「よし、レオ。特にお前は……よくやった。今度、第七王子勲章をやろう!」
俺はこいつの頭を、敬意と少しの悔しさを込めてガシガシと思い切り撫で回した。
「わっ! アレク先生、はずかしいから、やめてください!」
「あっははは!」
嬉しそうに笑い声を上げる子どもたちと、それを見て目を細めるリリアーナ。
この騒がしくも温かい場所を、今度は俺自身の手で、彼女と共に守っていくことを誓うのだった。




