第38話:【番外編】第七王子側近ルークの苦悩〜一錠目
王宮の執務室の片隅で、私、第七王子付側近のルークは、本日三錠目となる胃薬を水で飲み込んだ。
「……殿下。書類の確認をお願いしたいのですが」
「後だ。今、このメンダコ(深海にいる頭のぽってりした生き物らしい)の曲面の研磨で一番重要なところなんだ。……あの女、こういう丸っこいのが好きだと言っていたからな」
執務机の上には、書類の山の代わりに大量の木屑。
そして、この国で最も恐れられているはずの『氷の刃』こと第七王子アレクシス殿下が、狂ったような手つきで木彫りのタコを磨き上げ、ふやけたようなデレデレの顔で笑っている。
(……誰か、あの氷の王子を返してくれ。いや、あれはあれで扱いづらかったが……今のこの『初恋こじらせポンコツDIY王子』よりはマシだった……!)
三十六歳。愛する妻と、三歳と五歳の娘を持つ父親としては、この二十一歳の主君が陥っている「遅すぎた初恋」の不器用さが、もどかしくてたまらない。
* * *
事の始まりは、ほんの数週間前。
殿下が自ら設計し、業者を威圧してまで作り上げた保育園の様子を「視察」に行った日のことだ。
泥だらけで笑う一人の保育士――リリアーナ嬢を見た瞬間、殿下の様子がおかしくなった。
今までどんな絶世の美女が擦り寄ってきても「香水がキツイ、失せろ」と一刀両断していた男が、泥んこの令嬢を見て「め、女神だ……!」と、普段の冷徹な仮面を完膚なきまでに崩してフリーズしたのである。
(いや、確かに可愛らしいお嬢さんだとは思いますよ? 私も親ですから、あんな風に全力で子どもと遊んでくれる保育士さんの尊さは痛いほど分かります)
だが、そこからの殿下の暴走は、大人の男から見れば目も当てられないものだった。
毎日、日課の剣術稽古をサボって保育園の覗き見(本人は視察と言い張るが、あれはただのストーカーである)。
挙句の果てには、五歳児のプロポーズにガチギレして、「俺は明日から保育士になる!」と宣言し、私に身分偽装の手配を丸投げしたのだ。
かくして、殿下は『新人保育士のアレク先生』として保育園に潜入することになった。
「……おいルーク、聞いてくれ。今日、あいつが俺に笑いかけて『お疲れ様』とお茶を淹れてくれたんだ……っ! あんなに美味い茶は飲んだことがない……!」
夜、王宮に帰ってくるなり、殿下は隠しきれない熱を頬に浮かべてそんな報告をしてくる。
「はあ。良かったですね。妻が淹れてくれる茶も美味いですよ」
「だが! 今日もあの生意気なレオというガキが、リリアーナの膝に座りやがって……! 明日こそ俺が絶対に引き剥がしてやる!」
(殿下、相手は五歳児です。三十路半ばの私からすると、殿下もその五歳児も精神年齢はどっこいどっこいに見えますよ)
殿下は気付いていないが、彼はもう完全にリリアーナ嬢のペースに呑まれていた。
潜入初日、不機嫌オーラ全開だった殿下は、リリアーナ嬢にあっさりと手綱を握られ、今では彼女の手作りの『クマのアップリケが付いたエプロン』を嬉々として着込み、文句を言いながらもおむつを替えている。
子育ての過酷さを知る身としては、あのアレクシス殿下を「よしよし」と手懐けて動かしているリリアーナ嬢の手腕には、拝みたくなるほどだ。
* * *
そんな殿下の潜入生活は、毎晩のように私への「限界惚気発表会」をもたらすことになった。
「ルーク……ガキという生き物は、恐ろしいな。あの濁りのない瞳で見つめられると、王族の威厳などチリ芥も同然だ……っ」
「……お疲れ様です、殿下。今日はまた、どのような洗礼を受けたのですか?」
氷の王子が、ソファーのクッションに顔を押し付けたまま、籠もった声で語り始めた。
「今日、あいつ……リリアーナの働きぶりを少し離れたところから『観察』していたのだ。そうしたら、あの生意気なレオというガキが、突然皆の前でこう言い放ちやがった。『なんでアレクせんせいは、さっきからリリアーナせんせいのことばっかり、みてるの?』と……ッ!」
(……そりゃあ、あなたが親の仇でも見つけたかのような鋭い目つきで、穴が開くほど彼女を凝視しているからでしょうに。五歳児を舐めてはいけませんよ、殿下)
「俺が動揺して否定すると、今度は他のガキどもが『なんでお顔が赤いの?』『なんで暑がりなの?』『なんで生まれつきなの?』と、無限に問い詰めてきやがったんだ!!」
「ああ……俗に言う『なぜなぜ期』ですね。私の三歳の娘も今まさにその時期でして、先日『なんでパパはおヒゲが生えてるの?』と三十分間問い詰められましたよ。あれは精神を削られます」
三十六歳の父親として深く同意すると、殿下はガバッと顔を上げた。その顔は、なぜか耳の先から首筋まで、カッと朱に染まっている。
「……だが、本当の地獄、いや天国はそこからだった」
「地獄なのか天国なのか、どちらかにしてください」
「ガキどもの『おままごと』に巻き込まれたのだ。あいつがママ役で、俺が……パパ役だ。俺とあいつで、夫婦役をやらされたんだぞ!!」
殿下は興奮のあまり立ち上がり、バンッ!と執務机を叩いた。
「素晴らしい配役ですね。で、その夫婦役がどうしたのです?」
「あいつが……エプロン姿でフライパンを振りながら、『ほらパパ、お仕事に行く時間ですよ』と俺に微笑みかけてきたのだ! 俺は危うく、本当にこのままこの女と所帯を持とうかと錯覚するところだった……!」
(錯覚というか、それがあなたの最終目的なのでは?)
「しかし、俺が仕事という名の部屋の隅に行こうとした瞬間、園児の口からとんでもない爆弾が投下された。『パパ、お仕事行く前にママにいってらっしゃいのチューしてない! やり直し!』とな!!」
「ブッ……!!」
私は思わず、飲もうとしていたお茶を吹き出しそうになった。
最近の貴族の家庭事情は、幼児の口から筒抜けである。しかし、よりによってこの初恋こじらせポンコツ王子に、意中の女性への「公開キス」を要求するとは。恐るべし、園児。
「そ、それで殿下! まさか本当に、保育室のど真ん中でリリアーナ嬢に口付けを!?」
「で、できるわけがないだろう!! だが、ガキどもの期待に満ちた視線から逃げることもできず……俺は覚悟を決めて、あいつの目の前まで歩み寄った」
殿下は自分の口元を片手で覆い、サファイアの瞳をギラギラと揺らした。
「至近距離で見下ろすと……あいつから、甘くていい匂いがした。そして俺が肩に手を伸ばした瞬間、あいつは……あいつはッ……!!」
「あいつは……?」
「ギュッと、目を瞑って、俺を受け入れようとしたんだ……ッ!!!」
「なっ……!?」
私は三十六歳の大人らしからぬ声を出して驚愕した。
あの、殿下のクソデカ感情に全く気づいていない天然の権化のようなリリアーナ嬢が、目を瞑っただと!?
「分かるかルーク!! あの顔!! 完全にキスを待っている顔だった!! あの無防備な顔を俺以外の男(ガキ含む)に見せているのかと思うと、今すぐ王宮の騎士団を動員して……ッ」
「落ち着いてください殿下!! それで!? キスしたのですか!? なぜそこで逃げたような顔をしているのですか!!」
私が机から身を乗り出して問い詰めると、殿下は急に視線を泳がせ、モゴモゴと口ごもった。
「……あ、あの状況で、本当に唇を奪うのは……その、真っ当ではないだろう。俺は紳士だからな」
「紳士は身分を偽ってストーカー行為をしません!! で、結局どう切り抜けたのです!?」
殿下は死ぬほど恥ずかしそうに顔を背け、消え入るような声で白状した。
「……あいつの耳元で、口で『ちゅ』と言って……逃げた」
「…………………………………………はぁ」
執務室に、永遠とも思える沈黙が落ちた。
「……殿下」
「なんだ!! 仕方ないだろう!! あれ以上近づいたら、俺の理性が吹き飛んで、おままごとではなく本気で押し倒してしまいそうだったんだからな!!」
「……二十一歳にもなって、意中の女性の耳元で『ちゅ』と口頭で囁いて逃亡したのですか? この、この国で一番恐れられている『氷の刃』が?」
「うるさい!! 殺すぞルーク!!」
顔から火を吹きそうな勢いで怒鳴り散らす第七王子を前に、私は深いため息をついた。
――リリアーナ嬢。どうか、この情けなくも不器用な激重王子を、見捨てないでやってほしい。
目を瞑ってしまった彼女も彼女で、絶対に殿下のことを意識し始めているはずなのだから。
私は「パパのお仕事」の続きである決裁書類の山へと、虚ろな目を向けるのだった。




