第33話:ちょっと、脱がしてみてもいいですか?
隣国での建国記念式典。
この一週間、アレクシスは『完璧なる第七王子』の仮面を被り続けていた。
氷のような微笑みを浮かべ、隙のない外交をこなす彼を、各国の王族は称賛した。だがその胸の内は、強迫観念に近い不安と焦燥で黒く煮詰まっていた。
(……あいつは今、何をしている? 俺がいない間に、他の男に微笑みかけていやしないか? 俺が首筋につけた『印』は、もう消えたはずだ。……誰かが、あの無防備なうなじを見たら……っ)
限界を迎えたアレクシスは、予定を強引に前倒しにし、馬を乗り潰す勢いで帰国の途についた。
お城への帰還報告すら後回しにして、直行したのは愛しい婚約者のいる保育園。
漆黒の生地に銀の刺繍、重厚なマントに軍刀という、完璧な『第七王子』の正装で降臨した彼は、さぞかしリリアーナをうっとりさせる……はずだった。
「わあー! ぴかぴかしてるー!」
「これなーに? 勲章? 引っ張っちゃえ!」
「おい、こら! 引っ張るな! 勲章が取れるだろ!」
現実は非情だった。
無邪気な園児たちにもみくちゃにされ、マントに潜り込まれ、軍刀の柄をペチペチと叩かれる。完璧な王子の仮面は一瞬で崩れ去り、彼はただの「園児に翻弄されるアレク先生」に成り下がっていた。
* * *
嵐のような保育園での「特別検問」を終え、二人を乗せた馬車が王宮へと到着する頃。
夕闇に包まれた車内で、リリアーナがふと上目遣いでアレクシスを見つめた。
「あの、アレクシス様。一つお願いがあるのですが……着いたら、少し時間ありますか?」
「……ん? ああ、今日はもう特に予定はない」
本当は国王への帰還報告という重大な公務が残っていたが、そんなものは知ったことではない。
馬車を降りると、リリアーナは自分からそっとアレクシスの手に指を絡めた。いつもなら恥ずかしがって周囲の目を気にする彼女からの、珍しい甘え。
繋いだ手に引かれるまま、アレクシスが連れてこられたのは、王宮内に与えられたリリアーナの私室だった。
パタン、と扉が閉まる。
二人きりになった静かな部屋で、リリアーナは振り返り、うっとりとした、熱を帯びた瞳でアレクシスを見上げた。
「……私も、アレクシス様を独り占めしたいです」
甘い声に、アレクシスの心臓が大きく跳ねる。
「あの、隣国での式典……私も見たかったです。こんな素敵な姿、他の方ばかりが見ていたなんて、なんだかズルい気がして」
ふわりと近づいてきたリリアーナが、アレクシスの胸元へそっと手を伸ばす。
「今日のアレクシス様は、本当にかっこ良すぎます。……しばらく、見せていただいてもいいですか? これ、触っていいですか?」
言うが早いか、リリアーナの白い手が、アレクシスの胸元へ伸びてくる。
そっと肩飾りのフリンジを撫で、銀の刺繍の凹凸を指先でなぞり、胸元の冷たい勲章に触れる。それは、先ほど保育園で子どもたちがやっていたのと全く同じ行動だった。
(……っ、こいつ……!)
だが、子どもたちの無邪気な好奇心とは訳が違う。
大好きな女に、至近距離で見つめられながら、自分の身体をあちこち這い回るように撫でられるのだ。軍服越しとはいえ、その柔らかな指先の感触は、アレクシスの理性をゴリゴリと削っていく。
「ふむ、ここのボタン、お城の紋章が入ってるんですね。……あ、剣の柄もすごく綺麗……」
無自覚な女神は、アレクシスのギリギリの忍耐など知る由もなく、目を輝かせて「王子様」を堪能している。
(……『ふむ』っじゃねーよクソッ、生殺しかよ……)
だが、リリアーナの猛追はここで終わらなかった。
「その……ちょっと、脱がしてみてもいいですか?」
「……は?」
突拍子もない爆弾発言に、アレクシスの思考が一瞬停止する。
だが、リリアーナは本気だった。熱を帯びた瞳のまま、彼の軍服の硬い襟元に指をかける。
「これ、どうやって脱がすんですか? ここにホックが……あ、飾りのチェーンが邪魔ですね」
「お、おいリリアーナ、待て。お前、自分が何をしてるか分かって……っ」
「わぁ、中のシャツも仕立てがいいんですね……胸元のボタンも……えいっ」
園児たちと同じ無邪気な好奇心に、隠しきれない「女」の熱情を混ぜて、彼女の白い指先がアレクシスの身体をあちこち這い回る。軍服特有の複雑な留め具に苦戦しながらも、少しずつ彼の肌を露わにしようとするその仕草は、アレクシスを今までにないぐらい困惑させた。
(……クソッ、何の拷問だこれは……!)
今すぐその細い手首を掴み、ベッドに押し倒してしまいたい。
だが、強行軍で馬を飛ばし続けた反動と、一週間張り詰めていた精神的な疲労がここに来てどっと押し寄せており、アレクシスの身体は鉛のように重かった。
それに、こんなにも熱烈に、自分を求めて「脱がそう」と必死になる彼女の姿が愛おしくてたまらない。
されるがままになりながら、アレクシスはソファに深く腰を下ろし、熱い吐息を漏らした。
(……今は好きにさせてやる。だが、体力が回復したら……)
内心で悪態をつきながら、アレクシスは彼女の甘い責め苦を一身に浴び続ける。
ふと、軍服のボタンと格闘するリリアーナのうなじが見えた。真っ白なそこには、出発前に狂おしいほどの独占欲を込めて刻みつけた赤紫の『印』は、もう欠片も残っていなかった。
(……跡をつけるだけじゃ、すぐに消えちまうな)
どんなに深く噛みついても、時間はそれを許してくれない。
ならば、どうすればいいか。答えは一つしかなかった。
(……次は、指輪だな)
誰の目にも一目で「俺のもの」だと分かる、絶対的な印。
それを彼女の左手の薬指にはめ、二度と外せないようにしてやる。
「アレクシス様、ここのボタン固いです……」
「……無理に引っ張るな。……ほら、こうやるんだ」
目を輝かせて軍服を剥ぎ取ろうとする愛しい婚約者を手伝ってやりながら、アレクシスは疲労に霞む頭で、密かに、けれど確かな決意を固めていた。
そして、自分にすり寄ってくる柔らかな温もりを抱き寄せながら、ふと思う。
(良い匂いがする)
心地よい気だるさと幸福感に包まれながら、アレクシスは愛しい婚約者にされるがまま身を委ねるのだった。
――そのはず、だったのだが。
「……アレクシス様? あの、この袖のところは……」
軍服の上着をようやく脱がせ、シャツのボタンに手をかけていたリリアーナは、ふと彼からの返答がないことに気がついた。
見下ろせば、自分の太ももに頭を預けたまま、アレクシスが静かに寝息を立てている。
「……えっ、寝ちゃったんですか?」
微かな寝息と共に、規則正しく上下する広い背中。
普段の威圧感たっぷりの彼からは想像もつかないほど無防備で、少しだけ幼さすら感じる寝顔を見て、リリアーナは思わず毒気を抜かれたようにふわりと微笑んだ。
一週間、他国で気を張り詰め、帰国して休む間もなく保育園へ駆けつけてくれたのだ。無理もない。
せっかくの王子様を堪能する時間は終わってしまったけれど、起こしてしまうのはあまりにも忍びない。
リリアーナはシャツのボタンにかかっていた手を止め、代わりに彼の銀糸のような髪をそっと撫でた。
そして、すぐそばにあった肌掛けの毛布を引き寄せると、風邪を引かないようにアレクシスの肩口までしっかりと掛けてあげる。
「お疲れ様でした、アレクシス様」
そっと彼を眺めていると、不思議とリリアーナ自身も急な睡魔に襲われた。
彼が無事に帰ってきてくれたという深い安堵感と、膝から伝わる彼の心地よい体温が、優しい子守唄のように彼女のまぶたを重くしていく。
「……おやすみなさい」
リリアーナは毛布越しに彼を優しくぽんぽんと叩きながら、そのままソファの背もたれに深く身を預けた。
愛しい人の髪にそっと触れたまま静かに目を閉じると、あっという間に意識は微睡みの中へと溶けていく。
月明かりが差し込む静かな部屋の中、毛布にくるまった第七王子と、彼を守るように寄り添うリリアーナは、穏やかな眠りへと落ちていった。




