第25話:リリアーナのボロアパート
パンツ泥棒襲来と、実家での怒涛の強制引っ越し決定から数日後の週末。
私は王宮へ運ぶ荷物をまとめるため、あのアパートへ戻らなければならなかった。
「……あの、アレクシス様」
「なんだ? 荷造りなら、近衛騎士団の精鋭を一部隊派遣して、お前の部屋のホコリひとつ残さず王宮に運ばせようか」
「絶対にやめてください。そんなことしたら私、嫌いになります」
「ぐっ」
食い気味に拒否しつつ、私はモジモジと自分の指先をいじった。
「その……大家さんが仮の鍵は直してくれたんですけど……やっぱり、一人で入るのはちょっと、怖くて。……一緒に、来てもらえませんか?」
私が上目遣いでそう頼むと、アレクシス様は「ッッ!!」と声にならない息を呑み、目に見えてパァァァッと顔を輝かせた。
「ああ!! 俺が必ずお前を守ってや
る! 部屋の隅々まで、俺の目で安全を確認しよう!!」
(……絶対に中に入りたかっただけだよね、これ)
* * *
「……ここが、私の部屋です。本当に、何もないですよ」
ギィィ、と立て付けの悪いドアを開け、私は恐る恐るアレクシス様を招き入れた。
王宮の彼の私室の十分の一もない、狭くて古いワンルーム。壁紙は少し剥がれていて、窓枠には雨漏りのシミもある。
生活感の塊のような貧乏くさい部屋を見られるのが恥ずかしくて、私は両手で顔を覆った。
「ご、ごめんなさい、狭くて。王子様が座るようなふかふかのソファもなくて……」
「……」
しかし、背後からは何の文句も聞こえてこない。
そっと指の隙間から覗き見ると、アレクシス様は、小さなローテーブルや、色褪せたカーテン、キッチンに並んだ小さなマグカップなどを、まるで宝物でも見るような優しい目で見つめていた。
「アレクシス、様?」
「……いや。お前が毎日、ここでご飯を食べて、眠って、保育園に通っていたんだなと思ってな」
彼は少しだけ屈み、私の頭をポンポンと撫でた。
「お前が頑張って生きてきた城だ。……見せてくれて、ありがとう」
そんなふうに甘く微笑まれてしまえば、恥ずかしさなんて一瞬で吹き飛んでしまう。
私は真っ赤になった顔を誤魔化すように、「さ、さっさと荷造りしちゃいましょう!」と段ボールを広げた。
私が最初の段ボールを広げ、本を詰めようとした、その時だった。
ガタガタガタッ!
不意に、立て付けの悪い窓が大きな音を立てて鳴った。
「ひゃっ……!」
数日前の泥棒の恐怖がフラッシュバックする。
またあの泥棒が、今度は私を狙って戻ってきたのかもしれない――。
そんなパニックが頭を駆け巡り、私は持っていた本を放り出して、隣にいたアレクシス様の胸に思い切り飛び込んだ。
「ど、どうした、リリアーナ!?」
アレクシス様は突然のことに驚きつつも、私をしっかりと受け止め、その大きな腕で抱きしめてくれた。
「ど、泥棒が……! また、来たかと思って……っ!」
彼の服をギュッと掴み、ガタガタと震えながらそう告げる。
王宮の彼の私室で見せた威厳も、保育園での『アレク先生』の威勢も、今の私には欠片も残っていなかった。
「……」
アレクシス様は私を抱きしめたまま、音のした窓に鋭い視線を向けた。だが、そこには誰もいない。
「……風だな。窓の立て付けが悪いから、風が吹くたびに鳴るんだろう」
彼は少し呆れたように、でも私を宥めるように優しく囁いた。
「え……?」
私が顔を上げると、アレクシス様は少し複雑な表情で私を見ていた。
「泥棒じゃなくて、よかったけど……」
「お前が俺に甘えてくれたのは嬉しいが、こんなボロい窓のせいで怯えるのは、見ていて辛いな」
彼は私を抱きしめる力を少し強めた。
彼の鼓動が、私のパニックを少しずつ鎮めていく。
「……やっぱり、王宮に来るのが一番安全だ」
「そう、ですね……」
私は恥ずかしさでまた顔を赤くしながら、彼の胸から離れた。
でも、その温かさはいつまでも私の体の中に残っていた。
* * *
それから数時間。
服や本などを段ボールに詰め終えた頃、私のお腹が「きゅるる」と可愛くない音を鳴らした。
「あ、もうこんな時間……」
「昼飯にするか。何か手配させよう」
「いえ、冷蔵庫の中身を空っぽにしないといけないので、私が何か作りますよ!」
私はエプロンをキュッと結び、小さなキッチンに立った。
残っている食材は、卵、少しの鶏肉、玉ねぎ、あとはいつもの調味料くらいだ。
(よし、パパッと作っちゃおう)
私は手慣れた手つきで玉ねぎと鶏肉をみじん切りにし、フライパンで炒めてケチャップライスを作る。その上に、絶妙な半熟に仕上げたふわとろの卵を乗せれば――特製オムライスの完成だ。
「お待たせしました! 残り物で申し訳ないんですけど……」
「……これは」
狭いローテーブルに向かい合って座る。
アレクシス様は、湯気を立てるオムライスを前に、なぜかスプーンを持ったまま硬直していた。
「あ、あの! 最後にケチャップで絵を描いたのは、保育園のクセでつい……っ! 王子様に出すようなものじゃなかったですよね、ごめんなさい!」
「……俺のために、リリアーナが手料理を」
アレクシス様は私の弁解など耳に入っていない様子で、震える手でスプーンを掬い、オムライスを一口食べた。
そして。
「……うまい」
「えっ?」
サファイアの瞳が、うるうると潤んでいるではないか。
「信じられないくらい美味い。宮廷の三ツ星シェフが作るフルコースより、高級なキャビアより、比べ物にならないくらい美味い……!! なんだこれは、優しさと愛情の味がするぞ……っ」
「お、大袈裟ですよ……っ! ただの安い卵とケチャップですってば!」
高級食材ばかり食べてきた舌の肥えた王子様が、私の簡素なオムライスに感動して泣きそうになっている。
パクパクと、あっという間にオムライスを平らげたアレクシス様は、ふうと息を吐いて私を熱を帯びた目で見つめた。
「……リリアーナ。王宮に来てもたまに作ってくれないか」
(えっ……)
王族に嫁ぐとなれば、日々の食事はすべて専属のシェフや使用人が用意してくれる。今までのようにスーパーの特売品を買いに走り、安い食材で節約料理を作る必要なんて、これからはもうなくなるはずなのに。
彼はたまらないというように身を乗り出し、狭いローテーブル越しに長い腕を伸ばして、私の頬をそっと包み込んだ。
「料理人の作る豪勢な食事もいいが……俺は、お前が俺のために作ってくれる、この味が食べたい」
「っ……」
ゼロ距離で囁かれる甘い声と、手のひらから伝わる真っ直ぐな熱に、私の心臓がまたしても大きく跳ね上がる。
「……ありがとうございます。とっても嬉しいです。じゃあ、王宮のキッチンをたまにお借りしちゃいますね」
「ああ。約束だ」
私が照れ隠しに微笑むと、アレクシス様は花が綻ぶように目を細めて嬉しそうに頷いた。
最初は絶対に見せたくなかったボロアパート。でも、彼と向かい合って座るこの小さな空間は、先ほどの泥棒の恐怖なんて完全に忘れてしまうくらい、どうしようもなく温かくて、甘い空気に満ちていた。




