第16話:ご褒美シールをあげようね!
連れてこられたのは、王都の一等地にある貴族御用達の超高級レストランだった。しかも、最上階の特別室を貸し切りだという。
箱に入っていた夜空のような深いブルーのドレスに着替え、ふかふかの椅子に座らされた私は、目の前の光景にただただ圧倒されていた。
「あの……殿下。このドレス、本当にありがとうございます。それに靴やアクセサリーまで……私にはもったいないくらい素敵な品で」
緊張でドレスの裾をぎゅっと握りしめながらお礼を言うと、彼はひどく満足そうにサファイアの目を細めた。
「気にするな。俺がお前に着せたかっただけだ。……よく似合ってる」
サラリと息を吐くように降ってきた甘い言葉に、ボフッという音が聞こえそうなほど顔が熱くなる。
何より、目の前に座る彼の姿が、私の心臓をこれでもかと追い詰めていた。
いつも見ていた、名札のついたヨレヨレのエプロンや、袖を捲り上げたシャツ姿はどこにもない。
今日の彼は、光沢のある上質なチャコールグレーのジャケットを完璧に着こなし、その襟元には私のドレスと同じ深いブルーのチーフが覗いている。
首元で緩やかに結ばれたタイは、彼の透き通るような肌の白さと、凛としたサファイアの瞳をいっそう際立たせていた。
椅子を引く仕草、私に果実水を勧める所作、グラスを傾ける指先。そのすべてが、完璧なまでに優雅だ。
「……どうした、そんなに見つめて。俺に見惚れたか?」
「っ、ち、違います! ただ……昼間あんなにレオくんとムキになってた人と、同一人物だと思えなくて……」
「ふん。あいつには絶対にお前を渡さないからな」
拗ねたようにそっぽを向く彼に、私は思わずクスリと笑ってしまった。
態度や身なりは立派な王子様になっても、中身はちゃんと、私の知っている不器用なアレク先生だ。
「違います」なんて否定したけど、図星だ。私は、ずっと殿下に見惚れている。
こんなかっこいい人が、自分目当てにわざわざ保育園に来て、ずっと好きでいてくれたんだと思うと、居堪れなくなる。王族の権力を使えば、そんな面倒なことしなくても、私を無理やり婚約者にすることだってできたはずだ。
「あ、あの……っ、殿下!」
「ん? どうした」
「その、よく考えたら私、今日まで殿下に対してとんでもない不敬を働いていました……!」
「不敬?」
「はい! 『子どもに小僧とか言わないでください!』とか『エプロンの紐くらい自分で結んでください!』とか……っ! ただの一介の保育士が、王族である殿下に向かって数々の失礼を……本当に、申し訳ありませんでしたっ!」
正体を知らなかったとはいえ、思い出せば思い出すほど、不敬罪で首が物理的に飛んでいってもおかしくない暴言の数々だ。
しかし、ガバッと頭を下げる私に降ってきたのは、怒声ではなく、優しく吹き出すような笑い声だった。
「くっ……ははっ、なんだ、そんなことか。気にするな、むしろ誰も俺を特別扱いしないあの空間が、俺はたまらなく好きだったんだ。お前に怒鳴られるのも、悪くなかったしな」
「ええっ……」
(ちょっとM気質なの……!?)
内心でツッコミを入れていると、不意に彼の声のトーンが一段階、低くなった。
「だが、一つだけ不満がある」
殿下が少し不機嫌そうに目を細め、テーブルに頬杖をつきながら私の顔を覗き込んでくる。
「その『殿下』って呼ぶの、やめろ」
「えっ!? で、でも、恐れ多くて……!」
「今まで散々『こら、アレク先生!』って呼んでただろう。……二人きりなんだから、俺を特別扱いしてくれよ」
拗ねたような、甘くねだるような響き。
「呼んでみろ。……アレクシス、だ」
逃げ場のない距離で、有無を言わせない強引な視線が絡みつく。
今日、私が朝から殿下をなんて呼べばいいのかわからなくて混乱していたことに、気を遣ってくれたんだろうか。
「あ、アレク……シス、様……」
顔から火が出そうなほど熱くなりながら、消え入りそうな声で呼ぶ。
すると彼は、今日一番の、とびきり嬉しそうな――それこそ、お遊戯会を大成功させた時の五歳児のような、無邪気で甘い笑顔を浮かべた。
「ははっ! よくできました。『ご褒美シールをあげようね!』」
「も〜〜〜っ!!」
保育園で一人でできるようになったらもらえる『よくできましたシール』。私がよくやっているやり方を、似てもいないモノマネまでされて、少しムッとしたのも束の間。
ポン、と頭を撫でられ、私のキャパシティは完全に限界を迎えた。
(ダメだ、この人には一生勝てる気がしない……!)
美味しい料理をいただきながらも、私の心臓はずっと早鐘を打っていた。
そして、食後の美しいデザートが運ばれてきた頃。
アレクシス様がふと、真剣な色を帯びた瞳で私を見つめた。
「……なぁ、リリアーナ」
「はい?」
「俺、ずっと身分を隠して、お前のこと騙してたんだけど。……俺のこと、怒らないのか?」
少しだけ不安そうに、私の顔色を窺うような声。
私は小さく首を横に振った。
「怒ってないです。全然」
きっぱりと即答した私に、アレクシス様は目を丸くしている。
(怒るわけがない。だって……)
私は、目の前に座る彼の姿をまじまじと見つめた。
最高級の仕立ての服を着て、優雅にグラスを傾ける、隙のない美しい青年。彼がこの国の第七王子であることは、誰がどう見ても疑いようのない事実だ。
そんな雲の上の存在が、毎日粗末なエプロンをつけて、子どもたちと一緒に泥だらけになって。保護者の理不尽なクレームに頭を下げて、お遊戯会のために徹夜で『段ボール要塞』を作り上げていたのだ。
「……アレクシス様。一つ、聞いてもいいですか?」
「ん? なんだ」
「どうして、わざわざ保育園だったんですか? 第七王子という権力を使えば、下級貴族の私を無理やり王宮に呼び寄せることだって、簡単にできたはずなのに」
私が尋ねると、彼は少しだけ困ったように目を伏せ、それから真っ直ぐに私を見た。
「……権力で縛り付けたところで、お前は絶対に俺を見てくれないと思ったからだ。それに……子どもたちと楽しそうに笑っているところを見て、俺にも同じ笑顔を向けてほしいって思った」
「アレクシス、様……」
「あと、お前があそこで、どんな風に笑って、どんな風に怒るのか、隣で同じ景色を見たかったってところかな」
私の職場に潜り込み、私の仕事を隣で手伝い、私の夢である『子どもたちの笑顔』を一緒に守ろうとしてくれた。
「それで、最近は、そんなお前を独り占めしたくなった」
アレクシス様の、あまりにも真っ直ぐで不器用な情熱の重さに気づいてしまって、胸がいっぱいになったのだ。
ただの『アレク先生』だった時よりも、ずっと。目の前にいる人が、途方もなく愛おしくて、恐ろしい。
「自分でも思うが、ちょっと、俺、キモいだろ。……好きな女のために身分隠して保育士になるなんて、兄上たちにもルークにも散々呆れられたしな」
「あっ、いえ! その、アレクシス様が一緒に働いてくださったおかげで助かったこともたくさんありましたし、アレク先生としてのあなたも、私は……好きでしたから」
両手で熱い頬を覆いながら呟くと、アレクシス様は一瞬きょとんとした後、ふっと息を吐いて片手で顔を覆った。
(あ、そいえば私から「好き」って言ったの初めてかもしれない)
耳まで真っ赤になっているのが、指の隙間から見え隠れしている。どうやら私の言いたいことが伝わったらしい。
「……お前、そういうことサラッと言うの、本当に反則だからな」
「えっ?」
「ああもう、我慢の限界だ」
次の瞬間、アレクシス様が立ち上がり、私の隣へと移動してきた。
そして、私の手を取ると、至近距離に跪くような姿勢でその甲に恭しく唇を落とした。
「ひゃっ……!」
「お前が俺を怒らないなら、俺はもう容赦しないからな。お前は俺のもので、俺のただ一人の婚約者だ」
手の甲から、指先へ。
そして、熱を帯びた瞳が、逃げ場のない距離で私を真っ直ぐに射抜く。
「……まだ現実味ないのなら、責任もって男として意識させてやる。覚悟しとけよ」
低く甘い声で囁かれ、ふわふわとした非日常感は完全に消え去り、早鐘のように打つ心臓の音が、私がこの圧倒的な王子様の『婚約者』になってしまったのだという現実を、強烈に突きつけていた。




