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第8章 ―守れない―

「うわっ!」


視界が歪む。胃の底が浮く。

次の瞬間。


目の前が、筋肉で埋まっていた。


地響きみたいないびき。

小屋の床。


ミッチは、爆睡していた。


  「……おかえり」


声。

アリアだった。


「ただいま」


少し嬉しくなって、向こうの世界の話をした。


英語のテスト。

しゃぶしゃぶ。


野球部。

元谷先生。


アリアは、あまり反応しなかった。

銀色の瞳で、どこか遠くを見ている。


気まずくなって、外へ出た。



草原は、夜だった。

風が草を揺らす。

星が近い。


「……きれいだな」


  「うん」


いつの間にか、アリアが隣に立っていた。

相変わらず、返事は短い。


今夜は少しだけ、表情が柔らかかった。


「何か、思い出した?」


  「言葉……少しだけ」


「言葉?」


アリアは頷く。


  「何が正しくて、何が間違ってるか」


その時だった。


  「ハルトっ!」


アリアの声が変わった。

硬い。鋭い。


草原の向こう。

闇の中に、何かが立っていた。


細長い影。

長い指。

冷たい目。


「……誰だ」


影が、低く笑う。


  「言葉を歪める者」


背筋が冷えた。

アリアが、小さくつぶやく。


  「イレ、イレイ...、eraSer」


影が笑った。


  「覚えていたか。逃げるだけの娘よ」


次の瞬間。

黒い光の矢が、闇を裂いた。


「――っ!」


とっさに、アリアを突き飛ばす。

肩を掠める。


熱い。

体が重くなる。


「I am――」


声が止まる。


言葉が、出ない。

枝が、光らない。


  「私の矢は、言葉を歪める」


eraSerが、ゆっくり近づいてくる。


  「言葉を、呪う」


「I am a――」


違う。

わかってる。


わかってるのに、口が動かない。


eraSerの指が、アリアへ向く。


  「そちらの方が、面白そうだ」


「アリアっ!」


黒い光。

アリアが、崩れ落ちた。


「アリアー」


駆け寄る。

動かない。


指一本、自分の意志で動かせない。


  「呪いだ」


eraSerが笑う。


  「彼女はもう、自分の力では動けない」


終わりだ。

 ミッチは寝ている。


アリアは動けない。

 僕の言葉は動かない。


膝が震えた。

怖い。


逃げたい。


アリアの目だけは、死んでいなかった。


『右と左で、フォームは変わる』

頭の奥で、声が響く。元谷先生。


『立つ位置が違えば、重心も変わる』

その瞬間。心臓が跳ねた。


立つ位置。

バッター。

人が違えば。


僕は動けない。

アリアも動けない。


「僕」じゃない。

「彼女」なら――。


枝を握る。

アリアへ向ける。


「She runs!」


光が爆ぜた。

アリアをしばる鎖がはじけた。


アリアの足が、跳ねるように動く。


  「……何!?」


eraSerの声が揺れた。


できた。

わかった。


立ち位置が、違う。

立場が、違う。


全部、繋がった。


「いける……!」


背筋が熱くなる。

ルールが、手の中で組み替わっていく。


「She fights!」


アリアが立ち上がる。


  「ハルトが……私を動かしている……?」


「後ろ!」


枝を振る。


「She attacks!」


アリアが踏み込む。

eraSerの脇腹を、深く切り裂いた。


  「ぐっ……!」


当たる。

見える。


動きが。

言葉の流れが。


「なんだこれ……!」


笑いそうになる。強い。

 今の僕、めちゃくちゃ強い。


「She fights!」

「She attacks!」


光が連続で走る。

eraSerが、初めて後退した。


「逃げてる……?」


心臓が暴れる。

あの化け物が、僕から。


「勝てる――」


その時。

地面が揺れた。


空気が、凍る。


草原の向こう。

巨大な岩みたいな影が、立っていた。


腕を組み、ただ立っている。

それだけで、草原の空気そのものを押しつぶす。


eraSerの顔が、引きつった。


見ている。

僕じゃない。


ミッチを。


  「……今日は、ここまでだ」

  「全くもって、興が削がれた」


闇へ消えた。



ミッチが、ゆっくり歩いてくる。


倒れた草を見る。

焦げた地面を見る。


そして。

鼻で笑った。


  「男子三日会わざれば」

  「刮目して見よ、だな」


「……え?」


  「少しは、マシな面になった」


それだけ言う。


  「寝るぞ」


小屋へ向かう。


筋肉の壁が、闇の中へ戻っていく。

その背中を見ながら、僕は立ち尽くしていた。


この世界で今日、僕は。

誰かを守れる力を手に入れた。


今なら、もっといける。


体でわかる。

もっと強くなれる。


なりたい

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