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第7章 ―体でわからない―

夏が終わった。


野球部の毎日は、あまり変わらない。

球拾い。素振り。キャッチボール。


「次」「もう一回」「次」


昨日と同じことを、今日も繰り返す。

終わらない地獄。


少しずつ「正解」が体になじむ。

単調さが、心地よさに変わっていた。


  「翔登、英語すごいじゃない」


通知表。

母さんが驚いた声を出した。


「……まあ」


  「頑張ったね」


「頑張ったっていうか……なんか、わかっただけ」


不思議そうな顔。



机の上。

英語の教科書。


前までは、アルファベットが並んだだけの記号。


あの世界。

吹き飛ばされて何度も叫んだ言葉。


言葉がここに並んでいる。



二学期。


英語の授業。

チョークが黒板を引っ掻く。


  「今日から三単現をやります。三人称単数現在形ねー」

  「主語が三人称、私とあなたではなく、彼が、とか、彼女が」

  「単数、だから一人の時ね」

  「一般動詞にsを付ける。今までとは違うよー。全員、覚えてー」


I run.

You run.

He runs.


  「はい、これ、重要ー。テスト出るよー」

  「三単現のsを覚えておくように。わかった?」

  「三単現のs。なんで s がつくかは、まあそういうルールだと思って」


……ルール。

黒板を見る。


ノートを写す音。

ページをめくる音。

誰かの欠伸。


教室は、いつも通り進んでいく。


I run.

 これは、わかる。


森を走った。

息が切れた。

足が痛かった。


だから、わかる。


He runs。

 その s は、何なんだ。


  「渡来ー」


名前を呼ばれる。


  「読んでみろー」


She ( ) to school every day.


口が動く。


「……She goes to school every day.」


  「はい正解ー」


先生は、すぐ次へ進む。


  「go は o で終わるから es がつくねー。はい、丸暗記」

  「teachもesがついてteaches」

  「studyは気を付けろよー。studies」

  「丸暗記」


丸暗記。

そうすれば。


答えは合う。

テストで丸になる。


ただ。

 体に落ちてこない。


あの時みたいに、言葉が光らない。

そこに、自分がいない。



放課後。

練習試合があった。


打球も見えた。体も動いた。

練習した通りに、自然に足が出た。


その感覚が残っていて。

みんなが帰ったあとも、一人でグラウンドに残っていた。


  「おい、わたら――」


声が途切れる。


「おい、翔登。何をしている」


振り返る。

元谷先生だった。


  「今日はみんなで打ち上げだ」

  「しゃぶしゃぶ行くぞ」


珍しく、少し弾んだ声だった。



鍋の湯気で、店の中が白く曇っていた。


肉の匂い。

仲間の笑い声。


  「翔登、今日打ったな!」

  「うまくなりすぎだろ」


色んな声が飛んでくる。

 嬉しかった。


ふと、テーブルの端を見る。

元谷先生がいた。


肉。

肉。

また肉。

 野菜には、一切手をつけていない。


「……先生」


思わず、口が動いた。


「肉ばっかじゃ、ダメですよ」

「野菜も食べてください」


  「……うるさい」


低い声。

そのあと。


  「……久しぶりに言われた。」

  「あの口うるさいばあさんに、似てやがる」


「え?」


  「なんでもない。食え」


先生は、白菜を鍋に入れた。

いつもと違う顔をしながら。



帰り道。

夜の公園の隅。


僕は一人、バットを振っていた。


He runs. She goes。

振るたび、頭の中で繰り返す。


I run.

He runs.


I fight.

He fights.


「……何が違うんだ」


同じ動きなのに。


  「こんなところで何をしている」


振り返る。

街灯の下に、元谷先生が立っていた。


「あ、すみません。もう帰ります」


  「別に怒ってない」

  「何を考えていた」


「……英語です」


  「野球じゃなくてか」


「でも、なんか似てる気がして」


  「どこがだ」


言葉を探す。


「今日、三単現のsを勉強して……」

「どうしてsがつくんだろう」

「僕が走るのと、あいつが走るの」

「同じ『走る』なのに、立ち位置が変わる感じがして……」


元谷先生は、少し黙った。


  「右バッターと左バッターは、構えが違う」


「……え?」


  「同じ球を打つ。スイングする。だが。」

  「立つ位置が違えば、重心も視界も変わる」


夜風が吹く。


「立つ位置……」


心臓が跳ねた。

それ。どこかで。


「……ミッチさんが」


その瞬間。元谷先生の目が止まった。

空気が、変わる。


  「……余計なことを聞くな」


低い声だった。


  「とりあえず、もう一回振れ」



右バッター。左バッター。

I と He。

I と She


頭では、わかる。

理屈も、説明も、聞いた。


丸暗記した。


納得、できない。


ここでは、いくら叫んでも。

言葉は、ただの音で終わる。


もっと。

あっちなら。

あの世界なら。


この "s" の正体も。

立ち位置の違いも。

 もっと、はっきり掴める気がした。


机の中。

二本の枝。


ゆっくり取り出し、並べた。


【 = 】


胸が苦しい。

知りたい。


枝を強く握る。


「I am in――異世界」


足元から、光が弾けた。


今日。

 僕の体は、動かなかった。


だから僕は。

 また、言葉が力になる場所へ逃げた。

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