第7章 ―体でわからない―
夏が終わった。
野球部の毎日は、あまり変わらない。
球拾い。素振り。キャッチボール。
「次」「もう一回」「次」
昨日と同じことを、今日も繰り返す。
終わらない地獄。
少しずつ「正解」が体になじむ。
単調さが、心地よさに変わっていた。
「翔登、英語すごいじゃない」
通知表。
母さんが驚いた声を出した。
「……まあ」
「頑張ったね」
「頑張ったっていうか……なんか、わかっただけ」
不思議そうな顔。
◇
机の上。
英語の教科書。
前までは、アルファベットが並んだだけの記号。
あの世界。
吹き飛ばされて何度も叫んだ言葉。
言葉がここに並んでいる。
◇
二学期。
英語の授業。
チョークが黒板を引っ掻く。
「今日から三単現をやります。三人称単数現在形ねー」
「主語が三人称、私とあなたではなく、彼が、とか、彼女が」
「単数、だから一人の時ね」
「一般動詞にsを付ける。今までとは違うよー。全員、覚えてー」
I run.
You run.
He runs.
「はい、これ、重要ー。テスト出るよー」
「三単現のsを覚えておくように。わかった?」
「三単現のs。なんで s がつくかは、まあそういうルールだと思って」
……ルール。
黒板を見る。
ノートを写す音。
ページをめくる音。
誰かの欠伸。
教室は、いつも通り進んでいく。
I run.
これは、わかる。
森を走った。
息が切れた。
足が痛かった。
だから、わかる。
He runs。
その s は、何なんだ。
「渡来ー」
名前を呼ばれる。
「読んでみろー」
She ( ) to school every day.
口が動く。
「……She goes to school every day.」
「はい正解ー」
先生は、すぐ次へ進む。
「go は o で終わるから es がつくねー。はい、丸暗記」
「teachもesがついてteaches」
「studyは気を付けろよー。studies」
「丸暗記」
丸暗記。
そうすれば。
答えは合う。
テストで丸になる。
ただ。
体に落ちてこない。
あの時みたいに、言葉が光らない。
そこに、自分がいない。
◇
放課後。
練習試合があった。
打球も見えた。体も動いた。
練習した通りに、自然に足が出た。
その感覚が残っていて。
みんなが帰ったあとも、一人でグラウンドに残っていた。
「おい、わたら――」
声が途切れる。
「おい、翔登。何をしている」
振り返る。
元谷先生だった。
「今日はみんなで打ち上げだ」
「しゃぶしゃぶ行くぞ」
珍しく、少し弾んだ声だった。
◇
鍋の湯気で、店の中が白く曇っていた。
肉の匂い。
仲間の笑い声。
「翔登、今日打ったな!」
「うまくなりすぎだろ」
色んな声が飛んでくる。
嬉しかった。
ふと、テーブルの端を見る。
元谷先生がいた。
肉。
肉。
また肉。
野菜には、一切手をつけていない。
「……先生」
思わず、口が動いた。
「肉ばっかじゃ、ダメですよ」
「野菜も食べてください」
「……うるさい」
低い声。
そのあと。
「……久しぶりに言われた。」
「あの口うるさいばあさんに、似てやがる」
「え?」
「なんでもない。食え」
先生は、白菜を鍋に入れた。
いつもと違う顔をしながら。
◇
帰り道。
夜の公園の隅。
僕は一人、バットを振っていた。
He runs. She goes。
振るたび、頭の中で繰り返す。
I run.
He runs.
I fight.
He fights.
「……何が違うんだ」
同じ動きなのに。
「こんなところで何をしている」
振り返る。
街灯の下に、元谷先生が立っていた。
「あ、すみません。もう帰ります」
「別に怒ってない」
「何を考えていた」
「……英語です」
「野球じゃなくてか」
「でも、なんか似てる気がして」
「どこがだ」
言葉を探す。
「今日、三単現のsを勉強して……」
「どうしてsがつくんだろう」
「僕が走るのと、あいつが走るの」
「同じ『走る』なのに、立ち位置が変わる感じがして……」
元谷先生は、少し黙った。
「右バッターと左バッターは、構えが違う」
「……え?」
「同じ球を打つ。スイングする。だが。」
「立つ位置が違えば、重心も視界も変わる」
夜風が吹く。
「立つ位置……」
心臓が跳ねた。
それ。どこかで。
「……ミッチさんが」
その瞬間。元谷先生の目が止まった。
空気が、変わる。
「……余計なことを聞くな」
低い声だった。
「とりあえず、もう一回振れ」
◇
右バッター。左バッター。
I と He。
I と She
頭では、わかる。
理屈も、説明も、聞いた。
丸暗記した。
納得、できない。
ここでは、いくら叫んでも。
言葉は、ただの音で終わる。
もっと。
あっちなら。
あの世界なら。
この "s" の正体も。
立ち位置の違いも。
もっと、はっきり掴める気がした。
机の中。
二本の枝。
ゆっくり取り出し、並べた。
【 = 】
胸が苦しい。
知りたい。
枝を強く握る。
「I am in――異世界」
足元から、光が弾けた。
今日。
僕の体は、動かなかった。
だから僕は。
また、言葉が力になる場所へ逃げた。




