第6章 ―踏み出せない―
翌日。
グラウンドの前で、三回立ち止まった。
乾いた音。
ボールがミットに収まる音。
笑い声。
うまい。
みんな、ちゃんとしている。
今の僕が入っても。
「……やっぱ無理」
後ろを向きかける。
頭は逃げたがっている。
足だけが前に出た。
地面を蹴る。
意志より先に、体が動いていた。
「体験か?」
声が落ちてきた。振り返る。
でかい。
筋肉だった。
肩幅がおかしい。
腕が太い。
圧で、顔が小さく見える。
「……えっ」
思わず声が出た。
男が、ピクリと眉を動かす。
「体験入部か、と聞いた」
「あ、はい!」
反射で背筋が伸びる。
「名前は」
「渡来翔登です」
「渡来か。覚えた」
逃げ道。
一つ減った気がした。
「どうした」
「あ、いや……知り合いに似てる人がいて」
「そうか。俺は元谷道也」
「野球部の顧問だ」
その名前。
妙に耳に残った。
「野球経験は」
玄関先。声。
『なぜ来ない』『続けろ』『逃げるな』
頭の奥の記憶。
目の前の圧が、迷いを押し潰した。
「……ほとんどないです」
草原。
森。
木の枝。
風が、匂いが、熱が。
「でも、やってみたいです」
元谷先生の圧が、やわらいだ。
「わかった」
◇
最初にやらされたのは、球拾いだった。
転がる球を追う。
走る。
拾う。
投げる。
戻る。
また走る。
それだけ。
「あの……練習って」
「これが練習だ」
「球拾いが?」
「続けろ」
それ以上、何も言われなかった。
走る。拾う。投げる。戻る。また走る。
何十回も繰り返す。
意味がわからなかった動き。
続けるうちに、少しずつ景色が変わる。
どこへ転がるか。
どこで弾むか。
考える前に、目が動き始めていた。
無駄に走ると、すぐ息が切れる。
体が勝手に、正しい動きを探し始めていた。
「次」
元谷先生の声。
異世界の森が頭をよぎった。
「次」「Next」「ネークスト」
◇
次は素振りだった。
「足。ここだ」
木製バットで、地面を叩かれる
「腰」
向きを直される。
「手」
グリップを直される。
「もう一回」
振る。
「違う」
「まだ違う」
何度やっても、うまくいかない。
「順番がある」
「足。腰。手」
「どれかズレると、力が逃げる」
僕は黙って、もう一回振った。
「……似てる」
思わず漏れた。
「何がだ」
「あ、いや……なんでもないです」
元谷先生が、じっとこっちを見る。
鋭い目だった。
「……もう一回」
◇
体験が終わり、腕が上がらなかった。
Tシャツが、汗で張りつく。
「どうだ」
「……死にそうです」
「それだけか」
息が漏れる。
「でも……楽しかったです」
元谷先生は笑わなかった。
口元だけ、ほんの少し動いた。
「入るか」
「……はい」
返事は、前より自然に出た。
「明日から来い」
先生は、そのままグラウンドへ戻っていく。
怒鳴り声。
金属音。
土の匂い。
帰り道。
手のひらを見る。
潰れかけたマメ。
じんじん痛んでいた。
球拾い。
終わらない素振り。
もうすでに懐かしくすらある。
誰にも届かない言葉を。
それでも何度も光らせようとしていた、あの時間。
「次」「はい、次」「ネーークスト!」
二人の声。
頭の奥で重なった。
もう、グラウンドの前では止まらなかった。




