第5章 ―こたえがわかる―
【1年生1学期 英語・中間テスト】
英語を嫌いになって。言葉から逃げ始めた日。
不思議と、前みたいには震えていなかった。
胸の奥に、まだ熱が残っている。
あの森。
言葉を叫んで。
走って。
戦った時の熱。
「……なんか」
鏡を見る。
「……いける」
根拠なんてない。
言葉にした瞬間、体が少しだけ熱くなった。
僕はプリントを掴む。
前の僕なら絶対にしなかった勢いで、部屋を飛び出した。
◇
教室は、妙に静かだった。
みんな、必死に教科書を捲っている。
「渡来、昨日勉強した?」
隣の田中が、絶望した顔で聞いてきた。
「……まあ」
「うわ、余裕そう。終わったわ俺」
田中が机に突っ伏す。
「am とか is とか are とか」
「何が違うんだよ。be動詞?何が be だよ」
あの街に入った時の僕と同じ顔。
頭の中に、二本の枝が浮かぶ。
【 = 】
I am Haruto.
あの世界で、何度も叫んだ感覚。
それが、まだ体に残っていた。
テスト用紙が配られる。
紙の擦れる音。
椅子の軋む音。
心臓は静かだった。
問題を見る。
1.( )に適切な言葉を入れなさい
(1) I ( ) Mike.
(2) You ( ) my friend.
(3) He ( ) not a student.
(4) We ( ) in the library now.
手が動く。
わからない記号じゃない。
意味が。
形が。
見える。
「はい、そこまで」
先生の声。顔を上げる。
気づけば、全部埋まっていた。
「渡来、どうだった?」
田中が覗き込んでくる。
「……まあまあかな」
「1番の問題って、全部 am にしたわ」
ーI am fight.
頭の中で、あの時の自分の声が蘇った。
思わず吹き出す。
「……わりと、やるよな。それ」
「え?」
「いや、なんでもない」
◇
放課後。
夕日が、教室を赤く染めていた。
窓の外。
グラウンドから、野球部の声が聞こえる。
野球。
胸の奥が少しざわつく。
中1の時。
チームになじめなかった。
一人で帰った。
「やめます」
そう言って逃げた。
……違う。
もっと前。
小2の時。
おばあちゃんが、グローブを買ってくれた。
少し大きかった。
革の匂い。
嬉しかった。
入りたかった地元の野球チーム。
みんな、声が大きくて。
みんな、ちゃんとしていて。
僕だけが、うまく笑えなかった。
グラウンドへ向かう道。
何度もお腹が痛くなった。
三回目の帰り道。
足が動かなくなった。
やめると言った夜。
家に監督が来た。
玄関の向こうで、低い声が続いていた。
「逃げるな」
「続けろ」
「甘えるな」
僕は、部屋の隅で耳を塞いでいた。
おばあちゃんは、何も言わなかった。
僕の頭を、何度も撫でてくれた。
その手は。
あたたかい手。
◇
廊下を歩く。
掲示板の前で、足が止まった。
【野球部 部員募集中 】
目が離せない。
逃げた場所。
関係ない。
ーI fight.
森。
草原。
風。
枝を握って、前へ踏み出した時の感覚。
右手に残っている。
「……やってみたい」
小さく、声が漏れた。
誰かに言われたからじゃない。
言葉が、先に出た。
◇
夜。
タンスを開ける。
奥の箱。
ずっと触っていなかったグローブ。
少し硬くなっている。
革の匂い。
小学校の頃のままだった。
ベッドに座る。
膝の上に置いた。
窓の外から、夜風の音が聞こえる。
新しいグローブ。
革の匂い。
地元の野球チーム。
お腹。
監督。
怒鳴り声。
おばあちゃん。
あたたかい手。
右手が動く。
枝はない。
感触は、残っていた。
【野球部 部員募集中 】
あたたかい手。
おばあちゃん。
怒鳴り声。
監督。
お腹。
地元の野球チーム。
革の匂い。
新しいグローブ……
草原。
森。
木の枝。
「でも……やってみたい」




