S2 第8章 ―水槽の向こう側ー
光だった。
白い閃光が、視界を塗り潰す。
次の瞬間。
教室の机に突っ伏していた。
「……っ!」
ガタン、と椅子が鳴った。
クラスメイトたちが、一斉に振り返る。
「おい、渡来?」
「大丈夫か?」
教室。
黒板。
天井のライト。
窓の外の曇り空。
全部、現実だった。
なぜ戻ってきたのか。
逃げたわけではないのに。
自分の掌を見る。
二本の枝はない。
でも。
掌の奥には、感触が残っていた。
『まだ、浅い』
eraSerの声。
耳の奥にこびりついている。
◇
「はいはい、席つけー」
担任が教室へ入ってくる。
「明日の校外学習、水族館だからな。」
「班行動で勝手に消えるなよー」
誰と回る。
どこを先に見る。
そんな声が飛び交う。
僕はぼんやりと窓の外を見た。
その時だった。
教室の一番後ろ。
静かに座っている女子が目に入った。
【 井淵 亜里沙 】
いつも一人。
昼休みも。
移動教室も。
体育祭も。
嫌われているわけじゃない。
でも、誰とも混ざらない。
透明な壁をまとっているような空気があった。
◇
翌日。
水族館。
青い光が、床や天井にゆらゆら揺れている。
「あれ、井淵いなくね?」
「また一人でどっか行ったんじゃね?」
興味のなさそうな笑い声。
周囲を見回す。
巨大水槽の前。
深い青の光の中。
魚を見上げている後ろ姿があった。
「……井淵」
亜里沙がゆっくり振り返る。
「あ」
「班、はぐれてるぞ」
「うん」
困っている様子でもない。
そのまま放っておけなかった。
「……戻ろうぜ」
小さく頷いた。
「うん」
巨大水槽の横を通る。
銀色に輝くマグロの群れ。
照明を反射しながら泳いでいた。
思わず呟く。
「……うまそう」
隣から、小さな笑い声が漏れた。
「ふふっ」
亜里沙が笑っていた。
笑うところを、初めて見た。
「いや、絶対うまいだろ、あれ」
「渡来くんって、そういう見方なんだね」
「え?」
亜里沙は、水槽を見上げる。
青い光が、横顔を静かに揺らしていた。
「私は逆だな」
「逆?」
「魚の気分になる」
「……は?」
「魚から見た人間って」
「どう見えるんだろうって考えるの」
巨大なエイ。
向こう側をゆっくり横切る。
「私たちが見てるんじゃなくて」
「水槽の向こう側から」
「私たちが見られてるのかなって」
変なやつだと思った。
でも、嫌じゃなかった。
その後も。
亜里沙は時々ぽつりと喋った。
クラゲを見る。
「流されてるだけに見えるけど」
「ちゃんと泳いでるんだって」
ペンギンを見る。
「歩いてる時と泳いでる時」
「別の生き物みたい」
同じものを見ているはずだった。
世界の切り取り方が全然違う。
帰り際。
夕方の光が、ガラスに反射していた。
亜里沙が、突然言った。
「渡来くんって、投げる時」
「癖あるよね」
「……え?」
「ストレートの時」
「一回上を見る」
動きが止まる。
「カーブの時」
「少しだけ右を見る」
自分は気づいていなかった。
「……なんで知ってんの?」
亜里沙は少し困ったように笑った。
「いつも見てるから」
言葉を失った。
自分は、投げている側だと思っていた。
ずっと。
「……そんなに見るのが得意なら」
「マネージャーやれば?」
「私が?」
「うん。野球部。向いてると思う」
亜里沙は少し俯いた。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしている。
「……考えとく」
◇
数日後。
亜里沙は、本当に野球部のマネージャーになった。
「今、左足が開くの早かった」
「渡来くん、今日ちょっと疲れてる?」
「キャッチャー、相手にサイン読まれてるかも」
普通なら流してしまう小さな変化。
彼女は静かに拾い上げていく。
放課後。
夕暮れのグラウンド。
ネット裏。
スコアを書いている亜里沙の横顔。
見る場所が変わる。
世界の形も変わる。
ミッチは、僕をどう見ていたんだろう。
アリアは、僕をどう見ていたんだろう。
『まだ、浅い』
あの言葉が、胸に残る。
その夜。ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
静かな部屋。
遠くで鳴く虫の声。
胸の奥だけが騒がしかった。
水槽の向こう側。
立つ場所が変われば、言葉の重みも変わる。
もっと深く。
知りたい。
目を閉じた。
暗闇の奥で。
あの世界が、確かに脈打っていた。




