S2 第9章 ―向こう側の僕ー
夏の空は、低かった。
ちぎれた白雲。
グラウンドの上に張りついている。
焦げた黒土の匂い。
狂ったように鳴き続ける蝉。
金属バットの乾いた音。
市内大会が、始まった。
ベンチ横。
静かにスパイクの紐を締め直す。
「渡来くん」
声が降ってくる。
スコアブックを抱えて立っていた。
白い帽子。
少し汗で額に張りついた前髪。
「次、先発」
「うん」
立ち上がる。
亜里沙が、じっとこちらを見る。
「……緊張してる?」
「してる」
「でも、前より静か」
「そう?」
「うん。前はもっと、目が泳いでた」
「ひどいな」
「ほんとのこと」
亜里沙は小さく笑う。
不思議と肩の力が抜けた。
グラウンドへ出る。
歓声。
応援。
相手校ベンチの殺気。
全部が、はっきり見えた。
——プレイ。
一番打者。
深く息を吸う。
見る。
足の開き。
肩の力み。
視線。
バットの角度。
右足に重心が残っている。
外角を待っている。
内角へ、真っ直ぐ投げ込んだ。
「ストライク!」
見えた。
相手が、何を狙っているのか。
今までなら「怖い打者」にしか見えなかった。
相手の意図が、少しだけ読めた。
二球目。
低め。
三球目。
外へ逃がす。
「アウト!」
空振り三振。
ベンチが沸く。
バックネット裏。
静かな視線を感じた。
亜里沙。
スコアを書いている。
じっとこちらを見ている。
プレッシャーじゃなかった。
背中を静かに支えてくれる。
確かな重力みたい。
◇
三回。
相手の四番。
大柄な打者が、ゆっくりバットを構えた。
コンペティアの闘技場が脳裏をよぎる。
もう一度、見る。
肩。
腰。
バットの入り。
目。
——引っ張りたい。
低めへ変化球を投げ込む。
鈍い打球音。
ショート正面。
アウト。
「……遥翔」
元谷先生の声。
腕を組んだまま少し目を細めていた。
怒鳴り声じゃなかった。
ただ静かに、「見ている」声だった。
◇
試合は接戦になった。
ヒットも打たれた。
ランナーも出した。
でも。崩れなかった。
七回裏。
二死二塁。
一打同点。
マウンドで汗を拭う。
キャッチャーのサイン。
外角。
打者の視線。
一瞬だけ内側へ流れた。
違う。
首を振った。
もう一度サイン。
低めの変化球。
頷いた。
投げる。
白球が、鋭く沈んだ。
「ストライク! バッターアウト! 試合終了!!」
歓声が爆発した。
チームメイトが駆け寄ってくる。
肩を叩かれる。
背中を叩かれる。
夏空を見上げていた。
勝った。
前より、世界が見えた。
それが、一番大きかった。
◇
試合後。
夕暮れのグラウンド。
亜里沙が静かに歩いてくる。
「勝ったね」
「うん」
風が、砂を巻いて吹き抜ける。
「今日、右見なかった」
動きが止まる。
「……え?」
「カーブの時の癖」
夕日が、亜里沙の横顔を赤く照らしている。
「前は、絶対投げる前、一回だけ右見てた」
黙る。
それから、小さく笑った。
「なくなってた?」
「うん」
亜里沙も少しだけ笑う。
「でも、七回最後だけ」
「左肩少し下がってた」
「それも見てたのかよ」
亜里沙は、まっすぐ言った。
「見てるよ」
胸が、強く跳ねた。
「井淵」
「何?」
「……ありがとう」
一瞬だけ目を丸くする。
それから、少し視線を逸らした。
「別に。見えただけ」
「それが、すごいんだよ」
夕日に染まった横顔。
少しだけ赤くなった気がした。
◇
その夜。
ベッドで天井を見つめていた。
疲れているのに、眠れない。
「見てるよ」
何度も頭の中で響く。
ミッチは、僕をどう見ていたんだろう。
アリアは。
知りたい。
今度は、待つんじゃない。
自分で行く。
目を閉じた。
「……行こう」
その瞬間。
胸の奥で、何かが強く鳴った。
視界の底。
白い光がゆっくり立ち上がる。
あの世界の、乾いた風。
自分の意志で、手を伸ばした。




