第11章 ―一緒に進めない―
翌朝。
アリアは、朝から少し変だった。
ご飯を食べない。
呼んでも、返事が遅い。
窓の外を、ずっと見ている。
煙。鐘の音。怒鳴り声。笑い声。
街だけが、止まらず動いていた。
「アリア」
「……うん」
少し遅れて、返事が返ってくる。
「具合悪い?」
「……なんでもない」
彼女の目。
この街に追いついていなかった。
ずっと遠くを歩いているみたいだった。
◇
三日目の夜。
アリアは、部屋の隅で膝を抱えていた。
「アリア」
「……見えるの」
「え?」
何もない空気を掴もうとする。
「近いの」
震える声。
「すぐそこまで、来ているのに」
指先が、小さく震えていた。
「……届かない」
僕は黙る。
アリアが、ゆっくり言葉を落とした。
「顔。場所。誰かの声」
途切れる。
「霧の中みたい。触れそうなのに、ずっと触れられない」
俯いた横顔を見て、息が止まる。
泣きそうだった。
何か言わなきゃと思った。
『大丈夫』って。
でも。
言葉がどうしても喉を通らなかった。
◇
五日目の朝。
窓の外を見たまま、アリアが言った。
「ハルト」
「……ん?」
「私、ここを離れる」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……え?」
「一人で行く」
静かな声だった。
「行かなきゃいけない」
喉が、また。
うまく動かない。
「なんで……」
やっと出た声。
情けないくらい弱かった。
「せっかく、ここまで来たのに」
「近づいてくるの」
アリアは、窓の外を見たままだった。
「近づけば近づくほど、届かないのが苦しくなる」
朝の光が、銀色の髪に落ちる。
「ここにいると、自分がどこにいるのか」
「わからなくなるから」
そして。
ゆっくり、僕を見た。
その目を見た瞬間。
わかってしまった。
「……あなたに会えて、よかった」
「本当に」
小さく笑う。
アリアが立ち上がった。
「待っ――」
声が、途中で止まる。
動けない。
昨日まで、あんなに走れていたのに。
足が、一歩も前に出ない。
アリアが、ドアへ向かう。
ミッチは、壁に寄りかかったまま腕を組んでいた。
止めない。
引き止めない。
「ミッチさん!」
思わず叫ぶ。
「止めなくていいんですか!」
ミッチは、少しだけ目を伏せた。
「あいつが決めたことだ」
短かった。
それだけだった。
アリアが、ミッチを見る。
小さく頷く。
ミッチも、静かに頷き返した。
それだけ。
僕だけが、何もできなかった。
『待って』『一緒に行こう』
言えない。
やっと出た言葉は。
「……またね」
それだけだった。
アリアは、振り返らない。
細い背中。
廊下の向こうへ消えていく。
銀色の後ろ髪。
僕の「今」から、消えていく。
◇
静かだった。
部屋には、僕とミッチだけ。
外では、街が動き続けている。
火が揺れる。
人が笑う。
車輪が鳴る。
世界だけが、前へ進んでいた。
「……ミッチさん」
「何だ」
「僕、結局何もできなかった」
声が震える。
「あんなに言葉を覚えたのに」
「一番言いたいこと、言えなかった」
「そうだな」
ミッチは、慰めなかった。
責めもしなかった。
僕は。
何もできなかった事実だけを、そこに置いた。
窓の外を見る。
街は、今日も動いている。
【 I am standing here. 】
僕は、ここに立っている。
なのに。
僕の手は、アリアに届かなかった。
「ミッチさん」
「何だ」
「一回、帰ってもいいですか」
帰って、何をするのかはわからない。
今ここにいるのが、苦しかった。
逃げたかった。
ミッチは、何も言わない。
震える手で、枝を取り出す。
並べる。
【 = 】
「I am in――」
「ハルト!」
低い声。
振り返る。
ミッチは、窓の外を見たまま言った。
「また来い」
「……逃げっぱなしで終わるなよ」
命令じゃなかった。
でも。
その言葉。
どんな怒鳴り声より、深く胸に刺さった。
「――元の世界!!」
光が弾ける。
白が、全てを飲み込んだ。




