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第11章 ―一緒に進めない―

翌朝。

アリアは、朝から少し変だった。


ご飯を食べない。

呼んでも、返事が遅い。


窓の外を、ずっと見ている。


煙。鐘の音。怒鳴り声。笑い声。

街だけが、止まらず動いていた。


「アリア」


  「……うん」


少し遅れて、返事が返ってくる。


「具合悪い?」


  「……なんでもない」


彼女の目。

この街に追いついていなかった。


ずっと遠くを歩いているみたいだった。



三日目の夜。

アリアは、部屋の隅で膝を抱えていた。


「アリア」


  「……見えるの」


「え?」


何もない空気を掴もうとする。


  「近いの」


震える声。


「すぐそこまで、来ているのに」


指先が、小さく震えていた。


  「……届かない」


僕は黙る。

アリアが、ゆっくり言葉を落とした。


  「顔。場所。誰かの声」


途切れる。


  「霧の中みたい。触れそうなのに、ずっと触れられない」


俯いた横顔を見て、息が止まる。

泣きそうだった。


何か言わなきゃと思った。

『大丈夫』って。


でも。

言葉がどうしても喉を通らなかった。



五日目の朝。


窓の外を見たまま、アリアが言った。


  「ハルト」


「……ん?」


  「私、ここを離れる」


心臓が、嫌な音を立てた。


「……え?」


  「一人で行く」


静かな声だった。


  「行かなきゃいけない」


喉が、また。

うまく動かない。


「なんで……」


やっと出た声。

情けないくらい弱かった。


「せっかく、ここまで来たのに」


  「近づいてくるの」


アリアは、窓の外を見たままだった。


  「近づけば近づくほど、届かないのが苦しくなる」


朝の光が、銀色の髪に落ちる。


  「ここにいると、自分がどこにいるのか」

  「わからなくなるから」


そして。

ゆっくり、僕を見た。


その目を見た瞬間。

 わかってしまった。


  「……あなたに会えて、よかった」

  「本当に」


小さく笑う。

 アリアが立ち上がった。


「待っ――」


声が、途中で止まる。

動けない。


昨日まで、あんなに走れていたのに。

足が、一歩も前に出ない。


アリアが、ドアへ向かう。

ミッチは、壁に寄りかかったまま腕を組んでいた。


止めない。

引き止めない。


「ミッチさん!」


思わず叫ぶ。


  「止めなくていいんですか!」


ミッチは、少しだけ目を伏せた。


「あいつが決めたことだ」


短かった。

それだけだった。


アリアが、ミッチを見る。


小さく頷く。

ミッチも、静かに頷き返した。


それだけ。


僕だけが、何もできなかった。


『待って』『一緒に行こう』

言えない。


やっと出た言葉は。


「……またね」


それだけだった。


アリアは、振り返らない。


細い背中。

 廊下の向こうへ消えていく。


銀色の後ろ髪。

 僕の「今」から、消えていく。



静かだった。

部屋には、僕とミッチだけ。


外では、街が動き続けている。


火が揺れる。

人が笑う。

車輪が鳴る。


世界だけが、前へ進んでいた。


「……ミッチさん」


  「何だ」


「僕、結局何もできなかった」


声が震える。


「あんなに言葉を覚えたのに」

「一番言いたいこと、言えなかった」


  「そうだな」


ミッチは、慰めなかった。

責めもしなかった。


僕は。

何もできなかった事実だけを、そこに置いた。


窓の外を見る。

街は、今日も動いている。


【 I am standing here. 】

僕は、ここに立っている。


なのに。

僕の手は、アリアに届かなかった。


「ミッチさん」


  「何だ」


「一回、帰ってもいいですか」


帰って、何をするのかはわからない。


今ここにいるのが、苦しかった。

逃げたかった。


ミッチは、何も言わない。


震える手で、枝を取り出す。

並べる。


【 = 】


「I am in――」


  「ハルト!」


低い声。

振り返る。


ミッチは、窓の外を見たまま言った。


  「また来い」

  「……逃げっぱなしで終わるなよ」


命令じゃなかった。

でも。


その言葉。

どんな怒鳴り声より、深く胸に刺さった。


「――元の世界!!」


光が弾ける。

白が、全てを飲み込んだ。

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