第七話 昨夜は、そこに島があった
一週間後。
一行は政府機で南鳥島へ入り、そこから海洋調査船へ乗り換えた。
島を離れると、陸地はあっという間に水平線の向こうへ消えた。
右を見ても、左を見ても海。
空と海を分ける一本の水平線以外、目印になるものは何もない。
船が公海へ向かう間、雫たちは何度もケースの解除を試みていた。
網膜認証は、雫がコンタクトレンズを外すと解除された。
残るのは、声紋認証だけだった。
雫はケースを前にして、父の誕生日、母の名前、会社名、自分の誕生日――思いつく言葉を次々に口にした。
そのたびに、ケースの赤いランプが短く点滅する。
拒絶。
また拒絶。
「ダメ……」
雫が小さく息を吐いた。
横で見ていた陽子が、アイスコーヒーのストローをくわえたまま言った。
「難しく考えすぎなんじゃない?」
雫が顔を上げる。
「お父さんが一番、喜ぶ言葉って何?」
「喜ぶ言葉……?」
雫は黙った。
しばらく考えたあと、ケースへ向き直る。
そして、少し照れたように口を開いた。
「お父さん。大好き」
ピッ。
それまでとは違う、澄んだ電子音が鳴った。
「え?」
続いて、
カチッ。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
四つのロックが順番に解除されていく。
七人の視線がケースへ集まった。
蓋が数センチ浮き、内部から空気の抜けるような音がした。
雫が両手でゆっくりと開く。
中に入っていたのは――三枚のカードだけだった。
青。
黄。
赤。
それぞれの中央に、英単語が一つずつ印刷されている。
青いカードには、
Open――開ける。
黄色いカードには、
Pivot――修正する。
赤いカードには、
Destruction――破壊する。
説明書もない。
設計図もない。
機密書類らしきものさえない。
吉田はケースの中を何度ものぞき込み、最後には露骨に肩を落とした。
「なんや……意味分からんカード三枚だけかいな」
「でも、お父さんは、これを命懸けで守ろうとしたんです」
雫は三枚のカードを重ね、丁寧にバッグへしまった。
*
船はさらに南東へ進んだ。
予定地点が近づくにつれ、船内の空気が少しずつ張り詰めていった。
田川の部下たちがデッキへ機材を運び出し、ドローン、レーダー、測距装置を次々に起動する。
「目標地点まで二キロ」
一人が双眼鏡をのぞいたまま言った。
「島影なし」
田川が眉をひそめる。
「レーダーは?」
「反応ありません」
七人は甲板へ出た。
真上から照りつける太陽が白く眩しい。
潮風が頬へまとわりつき、シャツが身体に張りつく。
船体が波を切るたび、甲板の下からゴン、ゴン、と鈍い振動が伝わってきた。
水輝は手すりにつかまり、目を細めた。
どこまで見ても、青い海。
時折、海鳥が白い腹を見せながら横切るだけだ。
島などない。
そもそも、本当に存在するのか。
自分が持っていた座標情報そのものが間違っていたのではないか。
そんな疑念が、水輝の中にも浮かび始めていた。
田川が端末の座標をのぞき込む。
「誤差は?」
「ありません」
「現在位置は?」
「指定地点まで、八百メートル」
それでも何も見えない。
田川が水輝を見る。
その視線には、まだ言葉にはしない疑念が浮かんでいた。
張り詰めた空気を察したのか、吉田が口を開いた。
「せっかく二十時間もかけて、ここまで来たんや。カリカリせんと、長期戦でいこうやないか。もうすぐ日も暮れる。今日も星が綺麗そうやしな」
田川も手ぶらで帰るつもりはなかった。
「そうですね。今日はこの周辺で待ちましょう」
水輝は少しだけ肩の力を抜いた。
とはいえ、自分が示した座標だ。
何も見つからなければ、その責任は重い。
船は指定座標付近で夜を迎えた。
*
深夜。
吉田はトイレへ行った帰りに、持ってきた日本酒を片手に甲板へ出た。
雲一つない空には、無数の星が浮かんでいる。
「こりゃ、ええなあ」
手すりにもたれ、しばらく夜空を眺めていた。
そのときだった。
ふと前方に目を向ける。
遠くに、小さな光が見えた。
「……なんや?」
吉田は目を細めた。
一つではない。
横に連なるように、いくつもの灯りが浮かんでいる。
岸壁の照明。
港の誘導灯。
遠くから見れば、そうとしか思えない光だった。
吉田は目をこすった。
もう一度見る。
消えない。
「島や……」
灯りの下には、うっすらと黒い島影まで見える。
太平洋のど真ん中に、港がある。
吉田は慌てて船室へ戻った。
水輝たちを起こそうとしたが、長旅の疲れが出たのだろう。皆、予想以上に深く眠っていた。
「まあ、ええか……」
明日の朝に言えばいい。
そう思いベッドへ戻ったものの、興奮して眠れなかった。
十数分後。
やはり気になる。
吉田は再び甲板へ出た。
まだ灯りはある。
夢ではない。
寝ぼけてもいない。
確かに、あそこに港がある。
吉田は今度こそ安心し、船室へ戻った。
*
翌朝。
吉田は誰よりも早く起き、皆が集まる船室で待っていた。
一人、また一人と起きてくる。
七人全員が揃ったところで、吉田が満面の笑みを浮かべた。
「みんな、良い知らせじゃ。聞いとくれ」
少し間を置く。
「島を見つけた」
最初に反応したのは水輝だった。
「本当ですか? どこですか?」
「来い」
吉田は水輝を連れて甲板へ出た。
残りの五人も後を追う。
吉田はコンパスを確認すると、自信満々に一方向を指差した。
「こっちじゃ」
だが――。
その方向には、何もなかった。
青い海と水平線だけ。
吉田の表情が固まる。
「……いや、違う。昨晩は確かにあったんじゃ」
田川が双眼鏡をのぞく。
「何も見えませんね」
「昨晩、港の灯りを見たんじゃ。昼間だから見えないだけかもしれん。とにかく、わしの言う方向へ進めば島が出てくる」
田川が吉田を見る。
「寝ぼけていたということは?」
「ない」
「夢だったとか」
「それもない。わしも最初はそう思ったから、一度ベッドへ戻って、もう一度甲板に出て確認したんじゃ」
「大型船を島と見間違えた可能性は?」
「しつこいな。信用できんのなら、勝手にせえ」
吉田は少し機嫌を損ねた。
他に手がかりもない。
田川は吉田が示した方角へ船を向けた。
吉田は船首を陣取り、双眼鏡をのぞき続けた。
しかし、島は現れない。
十キロ。
二十キロ。
さらに進む。
やがて、指定座標から五十キロ以上離れた。
島どころか、大型船一隻すら見つからない。
吉田は双眼鏡を下ろした。
肩を落としたまま、無言で船室へ戻っていく。
田川も、もはや責める気にはならなかった。
雫が吉田の隣に座る。
「確かに見たんじゃ……。夢じゃない。寝ぼけてもおらん」
「長旅でみんな疲れてますから。こういうこともありますよ。誰も怒ってないので、気にしないでください」
そこへ陽子がトレイを持ってやってきた。
三つのグラスにアイスコーヒーが入っている。
「はい、どうぞ。陽子スペシャル。うまいぞー。飲め」
吉田は苦笑しながら受け取った。
*
船は昨晩の座標へ戻り、もう一晩待機することになった。
そして再び、夜が来た。
水輝は吉田の話がどうしても気になっていた。
陽が落ちると甲板へ出て、水平線を探し始める。
すっかり日が沈み、頭上には満天の星が広がっていた。
水輝は甲板を歩きながら、何度も双眼鏡をのぞく。
すると背後から声がした。
「絶対いると思った」
振り返る。
陽子が二つのコーヒーを持って立っていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
二人は夜風に当たりながらコーヒーを飲んだ。
少しすると、雫も甲板へ姿を見せた。
陽子が笑う。
「やっぱり来た。来ると思った」
水輝も無言で微笑んだ。
三人はそれぞれ双眼鏡を手に、暗い水平線を探した。
だが、港の灯りは見つからない。
「やっぱり吉田さんの気のせいだったのかな」
水輝が諦め、船室へ戻ろうとしたときだった。
「あっ!」
突然、陽子が叫んだ。
「見えた!」
水輝と雫が振り返る。
陽子の視線の先。
さっきまで真っ暗だった水平線に、いくつもの灯りが浮かんでいた。
港。
そうとしか思えない。
雫が息をのむ。
「本当にある……」
陽子が興奮して言った。
「吉田さん、本当だったんじゃん」
だが、水輝は素直に喜べなかった。
この船はDP――自動位置保持装置によって、GPSとスラスターを連動させ、ほぼ同じ位置を維持している。
自分たちも船も、大きく動いていない。
なのに、つい数分前までなかった灯りが、突然現れた。
「おかしい……」
「何が?」
「場所が変わってないんだよ。俺たちも、船も」
水輝は双眼鏡を構える。
確かに灯りがある。
その向こうには、ぼんやりと島影まで見える。
大型船ではない。
雫が船室へ走り、吉田と田川たちを呼びに行った。
やがて七人全員が甲板へ集まった。
全員の目に、港の灯りは見えている。
吉田が得意げに腕を組んだ。
「ほれ見い」
田川は答えず、双眼鏡をのぞき続けた。
もし何かのトリックだとしたら――。
誰が。
何のために。
どうやって。
答えは出なかった。
*
翌朝。
昨夜、港が見えた方角へ船を走らせた。
しかし、またしても島はなかった。
灯台も。
岸壁も。
建物もない。
あるのは、昨日と同じ海だけ。
七人は釈然としないまま、再び元の座標へ船を戻した。
そのときだった。
「あれ……」
陽子が海の向こうを指差した。
「なんか回ってない?」
全員が同じ方向を見る。
陽炎で揺れる水平線の少し手前。
小さな棒のようなものが見えた。
一つ。
二つ。
三つ。
近づくにつれて、それが風車だと分かった。
「風力発電?」
水輝がつぶやく。
さらに船が近づく。
海面から、黒い平面が姿を現した。
巨大な黒いパネルが敷き詰められている。
その上に、小型の風車が規則正しく並んでいた。
上面の大部分は、低反射型の太陽光発電パネルらしきもので覆われている。
遠目には、海とほとんど見分けがつかない。
「太平洋のど真ん中で風力発電か」
田川が低く言った。
「怪しすぎるな」
部下がケースからドローンを取り出した。
プロペラ音を響かせながら上昇し、黒い浮体の上空へ向かう。
別の隊員がモニターを確認する。
「放射線、異常なし」
画面を切り替える。
「有毒ガス反応なし」
「サイズは?」
「上空からの測定では、一辺二十二メートルの正方形です」
隊員が数字を確認する。
「周長は八十八メートル」
水輝がわずかに反応した。
八十八。
N-88。
偶然なのか。
「海中は?」
田川が尋ねる。
隊員の表情が変わった。
「大型の金属反応があります」
「どの程度だ?」
「分かりません」
「分からない?」
「深さ方向に続いています。ソナーでは全体像を捉えられません」
田川は海面を見た。
目の前にあるのは、ほんの薄い浮島にしか見えない。
だが、その下に何かがある。




