第六話 なぜ政府が、海洋深層水の島を探しているのか
問題は、どうやって幻の島へ行くかだった。
水輝はノートパソコンの画面に表示された地図を見つめた。
東京から、太平洋のはるか沖へ。
画面を指でなぞるように移動させていく。
「遠いな……」
目的地までは、東京から約二千六百キロ。
地図を縮小すると、日本列島がみるみる小さくなっていった。
N-88の座標に最も近い日本の島は、日本最東端の南鳥島だった。
南鳥島までなら飛行機で四、五時間ほど。
船なら四、五日はかかる。
幸い、南鳥島には滑走路がある。
南鳥島まで飛行機で行き、そこから船で向かう。
それが最も現実的なルートだった。
問題は――。
「一般人、行けないじゃん」
水輝が椅子の背にもたれた。
調べてみると、南鳥島は東京都小笠原村に属しているものの、島に常駐しているのは海上自衛隊や気象庁などの政府関係者だけのようだ。
民間の旅客機は飛んでいない。
一般人が航空券を買って行ける場所ではないのだ。
つまり、N-88へ行くためには、どうしても政府の協力が必要になる。
水輝は腕を組み、内閣官房国家情報局、田川圭介の顔を浮かべた。
できれば頼りたくない。
だが、他にパイプはなかった。
ホテルから雫を脱出させた件を考えれば、こちらから電話をかけるのは、さすがに気まずい。
水輝はスマートフォンを手に取った。
置いた。
もう一度持った。
また置いた。
その様子を見ていた雫が、隣から顔をのぞき込む。
「電話しないんですか?」
「するよ」
「さっきから三回くらい持ったり置いたりしてますけど」
「気まずくて。絶対怒られるし」
雫が小さく笑う。
水輝は人と交渉するのが得意なタイプではない。
知らない人が大勢いる場所は苦手だった。部屋で水の成分表を眺めるのが幸せだった。
だが、必要だと判断した瞬間、妙なところで大胆になる。
「雫さん。本当に行きますか?」
水輝が確認した。
雫は迷わずうなずいた。
「行きます」
覚悟の決まった声だった。
目にも迷いがない。
「父はなぜ殺されたのか。何をしていたのか。自分の目で確かめたいです」
水輝は短く息を吐いた。
「分かりました」
通話ボタンを押した。
数日後。
水輝と雫は、国家情報局の田川と向かい合っていた。
霞ヶ関にある政府施設の小さな会議室。
白い壁。
灰色のテーブル。
窓にはブラインドが下ろされている。
田川は二人が入ってくるなり立ち上がった。
きっちり七三に分けた髪。
四角い銀縁眼鏡。
一本の皺もないネイビーのスーツ。
普段から神経質そうな男だが、今日はその額に青筋まで浮かんでいた。
「よく私に電話できましたね!」
田川の声が会議室に響いた。
水輝は思わず肩をすくめた。
「自分が何をしたか分かっていますか? 政府の警備を欺いて、保護対象者を勝手に連れ出したんですよ!」
田川は机を指で二度叩いた。
「雫さんが危険にさらされる可能性だってあったんです!」
「はい。本当にすみませんでした」
水輝は素直に頭を下げた。
隣で雫も頭を下げる。
「田川さん、ごめんなさい。私が水輝さんにお願いしたんです」
田川は雫を見ると、怒鳴りかけた口を閉じた。
十八歳の無垢な少女に真正面から謝られると、さすがに強くは言えない。
眼鏡の位置を人差し指で直す。
「……あなたもです。もう少し自分の立場を理解してください」
「はい。ご迷惑をおかけしてすいませんでした」
雫は素直にうなずいた。
田川はまだ何か言いたそうだったが、諦めたように椅子へ腰を下ろした。
「それで」
低い声で言う。
「今日は謝罪だけではないのでしょう」
先ほどまでの怒鳴り声とは一転して、露骨に面倒くさそうな口調だった。
「用件は何ですか」
「政府に協力してもらいたいことがあります」
「続けてください」
「地図に存在しない島にある、海洋深層水のメーカーへ行きたいと思っています。幻の島とも呼ばれている場所です」
田川の眉が、わずかに動いた。
「幻の島?」
水輝はその反応を見逃さなかった。
「N-88という海洋深層水があります。実物も持っています」
ノートパソコンを開き、地図を表示した。
日本列島から太平洋へ画面を移動させる。
そして、南鳥島で止めた。
「この南鳥島から、さらに六百キロほど離れた海域です」
正確な座標までは表示しなかった。
田川は黙って画面を見ていた。
興味がないふりをしているように見える。
だが、さっきまで椅子の背にもたれていた身体が、いつの間にか少し前へ出ていた。
視線も水輝ではなく、完全に地図へ向いている。
「幻の島の話は、どこで知りました?」
声の調子も変わっていた。
先ほどまでの面倒くさそうな響きが消えている。
水輝はすぐには答えなかった。
「幻の島について、何か知ってるんですか?」
田川の視線が水輝へ戻った。
「質問しているのはこちらです」
「僕も質問しています」
一瞬、部屋が静かになった。
雫が二人を交互に見る。
水輝は田川の顔をじっと観察していた。
眉間の皺。
固く結ばれた口。
テーブルの上で組み直された指。
明らかに反応している。
政府は何かを知っている。
水輝はそう確信した。
「その島には、何があるんですか?」
田川は答えなかった。
代わりに、銀縁眼鏡を人差し指で押し上げた。
「森川さん。その島が存在するという根拠を見せてください」
「その前に教えてください。国家情報局は、何を知っているんですか?」
田川の眉間の皺がさらに深くなった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて田川は椅子へ深く腰を下ろし、大きく息を吐いた。
そして、閉じられた会議室のドアへ一度視線を向けた。
「……分かりました」
声が低くなる。
「今から話すことは、ここだけの話です。絶対に口外しないと約束できますか?」
水輝と雫は顔を見合わせたあと、深くうなずいた。
田川は二人を真っ直ぐ見た。
「実は、国家情報局も幻の島の存在を追っています」
水輝の表情が変わった。
「国家情報局が?」
予想外だった。
水輝が探しているのは、N-88という海洋深層水を製造している事業者の拠点だ。
そこを、なぜ国の情報機関まで追っているのか。
都市伝説としてネットの片隅に書かれていただけの島を、国家情報局まで調べている。
少なくとも、単なる作り話ではなさそうだ。
水輝は思わず身を乗り出した。
「ちょっと待ってください。政府が、なんで海洋深層水のメーカーを探してるんですか?」
「海洋深層水のメーカーを探しているわけではありません」
「え?」
田川はテーブルの端末を操作した。
壁のモニターに、いくつものグラフが表示される。
「我々が追っているのは、世界各地へ、高純度のレアアースを極めて安い価格で供給している、正体不明の事業者です」
「レアアース?」
水輝が眉をひそめた。
海洋深層水とは、あまりにも話が違う。
「ハイテク製品に不可欠な重要資源です。日本にとっても経済安全保障上、極めて重要なものです」
田川が画面上のグラフを指した。
価格を示す線が、大きく下へ折れている。
「ところが、この事業者が大量供給を始めたことで、レアアース価格が急落した」
画面が世界地図に切り替わる。
「国際戦略資源協議会だけではありません。採掘や精錬で大きな影響力を持つ中国をはじめ、複数の国や企業が供給元を探しています」
雫が身を乗り出した。
「どこの会社ですか?」
「分かりません」
「どこにあるんですか?」
「それも不明です」
田川は腕を組んだ。
「ただ、海上にある正体不明の施設が関係しているという断片的な情報があります」
水輝はモニターを見たあと、田川へ視線を戻した。
「それと、僕たちが探している島に、何の関係があるんですか?」
「まだ同じ場所だと決まったわけではありません」
田川はそう言いながら、ノートパソコンに表示された南鳥島周辺の地図へ目を向けた。
「ただ、あなたの話が事実なら、少し気になる点があります」
「何ですか?」
「海底からレアアース泥を採取する施設なら、その過程で大量の海水を扱う設備が必要になります」
田川は指先でテーブルを軽く叩きながら考える。
「同じ場所で海洋深層水を製造していたとしても、不自然ではありません」
「同じ設備を使って?」
「設備のすべてを共用できるわけではありません。ただ、海底から海水や泥を汲み上げる大規模な取水設備を持っているなら、海洋深層水の事業を併設することは考えられます」
田川は少し間を置いた。
「あるいは、海洋深層水を表向きの事業にして、レアアース事業を隠している可能性もある」
水輝は黙った。
海洋深層水。
レアアース。
これまでまったく別のものだと思っていた二つの話が、頭の中でゆっくりと近づいていく。
「つまり……」
水輝が地図を見る。
「僕が探している海洋深層水の製造拠点と、国家情報局が探しているレアアースの供給元が、同じ事業者で、同じ島かもしれない?」
「可能性はあります」
田川の声は冷静だった。
だが、目は地図から離れていない。
水輝はその横顔を見た。
さっきまでとは、明らかに立場が変わっている。
田川はこの島の情報を欲しがっている。
ならば、こちらにも交渉材料がある。
水輝の頭が急速に回り始めた。
「僕たちは、採水地を示す情報と、島の座標につながる手掛かりを持っています」
田川の目が細くなった。
「座標が分かっているんですか?」
「はい」
「正確な場所を教えてください」
水輝は答えなかった。
「森川さん?」
「その前に、政府が協力すると約束してください」
田川の眉間に、再び深い皺が刻まれた。
「国家を相手に取引するつもりですか?」
「はい」
水輝は即答した。
雫が隣で少し驚いたように水輝を見る。
だが、水輝は田川から目を逸らさなかった。
「僕たちは島へ行きたい。政府には南鳥島までの移動手段と、そこから先の船を用意してもらいたいです」
「こちらが断ったら?」
「正確な座標は教えません」
言葉とは裏腹に、水輝の声はわずかに震えていた。
田川の目つきが鋭くなる。
その視線に耐えながら、水輝は続けた。
「それと、もう一つあります」
「まだあるんですか?」
「仮に政府が島を見つけても、重要な施設の中には入れない可能性があります」
田川の表情が変わった。
「どういう意味ですか?」
その反応を見て、水輝は次のカードを切った。
「施設のセキュリティが、雫さんの生体認証と結びついている可能性があります」
隣にいた雫の目が、一瞬大きくなった。
水輝は前を向いたまま続ける。
「つまり、雫さんがいなければ、島へ上陸することも、施設に入ることも、できないかもしれません」
もちろん、完全な作り話だった。
そんな根拠はどこにもない。
だが、雫の父が島と関係していた可能性は高い。
そして父が娘に、生体認証で守られたケースを託していたことも事実だった。
まったくありえない話でもない。
水輝は、そこに賭けた。
田川が雫を見る。
雫は一瞬だけ戸惑ったものの、すぐに表情を整えた。
人を騙すことに慣れていないのは一目瞭然だった。
それでも、何も言わない。
田川は再び水輝を見る。
「その情報は、どこから?」
「今は言えません」
「森川さん」
「政府が協力してくれるなら、僕たちが持っている情報は全部出します」
田川は黙った。
先ほどまで政府に怒られて小さくなっていた男が、今は国家情報局を相手に条件を出している。
田川は呆れたように鼻から息を吐いた。
「あなた、時々とんでもないことをしますね」
「妹によく言われます」
雫が吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
田川は眼鏡を外し、眉間を指で揉んだ。
「まったく……」
しばらく考えたあと、再び眼鏡をかける。
正体不明のレアアース供給元。
N-88と記された海洋深層水。
そして、地図には存在しない太平洋上の島。
別々の場所を探していたはずの二人の情報が、一つの場所へ集まり始めていた。
田川は地図を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「面白いですね……」
水輝が首をかしげる。
「え?」
田川は我に返ったように咳払いした。
「いえ。何でもありません」
だが、口元がほんの少し緩んでいる。
しばらく考えた末、田川は姿勢を正した。
「分かりました。上に掛け合います」
水輝と雫が顔を見合わせる。
「ただし、条件が三つあります」
田川は指を一本立てた。
「政府側の調査員を同行させること」
二本目。
「現地では、原則として私の指示に従うこと」
三本目。
「発見した技術、試料、資源などを勝手に持ち出さないこと」
「分かりました」
雫が真っ先に答えた。
水輝もうなずいた。
「僕からも条件があります」
田川が露骨に嫌そうな顔をした。
「何ですか?」
「同行者を認めてください」
「誰です?」
「妹と、吉田さんです」
「森川さんまでは分かります。あなたはAIエンジニアで、今回の発見者でもある。雫さんも必要でしょう」
「しかし、妹さんは……バリスタ?」
「はい」
田川が眼鏡の上から水輝を見た。
「幻の島の調査に、なぜバリスタが必要なんですか?」
「僕の助手です」
「具体的には?」
水輝は一瞬黙った。
「……いろいろ手伝います」
「何を?」
「いろいろです」
田川は無言で水輝を見た。
雫は笑いをこらえるため、口元を手で隠した。
「まあ、いいでしょう」
田川は諦めた。
「もう一人の吉田という人物は?」
「雫さんのお父さんの友人です。それと、施設に入るための鍵を握っている可能性がある物を保管しています」
「物?」
「今は詳しく言えません」
田川はため息をついた。
「あなた、国家情報局相手にずいぶん秘密が多いですね」
「お互い様です」
一瞬、沈黙した。
雫が水輝を見る。
言ってから本人も少しまずかったと思ったらしく、水輝は視線を逸らした。
ところが田川は怒らなかった。
鼻から小さく息を漏らす。
「……それは否定できませんね」
田川は端末を操作し、吉田の経歴を調べ始めた。
ほどなくして、画面に情報が表示される。
吉田インターナショナル代表取締役、吉田こめ吉。
社員十名。
海底鉱物資源の調査機器などを扱う小さな会社だった。
田川の指が止まった。
「海底鉱物資源……」
画面を少し戻し、もう一度経歴を確認する。
銀縁眼鏡の奥の目が細くなった。
「この人、本当にただの友人ですか?」
雫が首をかしげた。
「父の昔からの知り合いだと聞いています」
「そうですか……」
田川は画面を見たまま、小さく呟いた。
海底資源を扱う会社の経営者。
幻の島と関係していた可能性のある雫の父、正太郎。
そして、その正太郎から預かった物を吉田が持っている。
偶然にしては、妙に出来すぎている。
だが、田川はそれ以上何も言わなかった。
結局、政府側からは田川と部下二名。
水輝、雫、陽子、そして吉田。
七人でN-88へ向かうことになった。
地図に存在しない島。
正体不明のレアアース供給元。
そして、そこで製造されている海洋深層水。
このときの彼らは、まだ知らなかった。
その島で待っているものが、単なる海洋深層水の工場でも、レアアースの採掘施設でもないことを。
人間の管理者すらいない、彼らの常識を大きく覆す世界が存在していることを。




