第五話 地図にない島へ
水輝の妹、陽子は二十四歳。
縁側のある古い一軒家で、一人暮らしをしていた。
服装は、いわゆる「きれい系」とは正反対だ。
デニムのショートパンツに、ゆったりしたトップス。
足元はいつもスニーカー。
長い髪も、後ろで無造作に束ねただけのポニーテール。
おしゃれに興味がないわけではない。
ただ、動きにくい服が嫌いなのだ。
兄が水のオタクなら、妹は筋金入りのコーヒーオタクだった。
職業はバリスタ。
豆の産地、品種、精製方法、焙煎温度には異常なほどこだわる。
その一方で――料理と掃除には、まるで興味がない。
食事はほぼコンビニかデリバリー。
玄関にはスニーカーと宅配便の箱が積み上がり、リビングの床には脱ぎっぱなしのデイムとTシャツの山、キッチンには、コーヒー豆の袋が点々と転がっていた。
雫は室内を見渡した。
まるで、男性の部屋のようで、とても若い女性の一人暮らの部屋とは思えなかった。
「本当に、ここに……住んでるんですか?」
「うん」
陽子は何の問題もないという顔で答えた。
そして、雫の肩をぽんと叩く。
「毎日掃除してくれるなら、何日でもいていいよ」
雫は目を丸くしたあと、久しぶりに声を出して笑った。
「あ、ありがとうございます。私、頑張ります」
「いい子だねえ。素直が一番」
陽子は満足そうにうなずいた。
それから陽子がコーヒー豆を選別し、焙煎機の前で温度と香りをチェックしているあいだ、水輝と雫は部屋の片づけを始めた。
二時間後。
ようやく床が見えた。
座る場所も、雫が眠るためのスペースも確保できた。
「終わった……疲れたー。陽子、ヤバすぎだよ。たまには、掃除しろよ」
水輝がソファへ倒れ込む。
すると陽子が、二人の前にカップを置いた。
「お疲れちゃん。ご褒美」
料理には一秒も使いたくない陽子だが、コーヒーとなると話は別だった。
テーブルの上にはサイフォンが置かれ、つい先ほどまで時間をかけて抽出していたらしい。
水輝がカップを手に取る。
湯気とともに、ほのかな桜の香りが立ちのぼった。
最近人気が出始めている、香りに特徴のある豆だった。
一口飲む。
水輝の目が大きくなった。
すぐに陽子を見る。
「うまい。これ、やばいね」
「でしょ?」
「豆もいいけど……水、何使った?」
陽子がにやりと笑った。
「やっぱり、そこ聞くか。」
冷蔵庫を開け、一本のペットボトルを取り出す。
そのまま水輝へ放った。
「ほい」
水輝が受け取る。
ラベルを見た瞬間、動きが止まった。
隣にいた雫も息をのむ。
ボトルには、『海洋深層水 N-88』のラベルがついている。
水輝と雫は同時に顔を見合わせた。
陽子だけがきょとんとしている。
「何? 二人とも」
「この水……」
水輝がラベルを陽子へ向ける。
「雫のお父さんの会社が販売していた水なんだ」
「え、マジ?」
陽子は驚いたのも束の間、すぐに水の話へ戻った。
「これ、すごくない? 水だけで飲むとちょっと癖あるんだけど、この豆と合わせると桜の香りがめちゃくちゃ立つんだよね」
そう言って、壁を指さした。
「箱買いしたら、こんなのも入ってた。かっこいいから貼ってみた」
壁には、大きなポスターが飾られていた。
青白い照明に照らされた、近未来的な工場。
巨大なパイプ。
銀色に輝くタンク。
透明な管の中を流れる大量の水。
作業員たちは全員、青いキャップをかぶり、青とグレーを基調にした同じ制服を着ている。
水輝はポスターへ近づいた。
作業員たちの身長も体格も、見事に同じ。
帽子の下から見える髪型まで、不自然なくらい揃っている。
ポスターの右下には、小さくロゴが入っていた。
N-88。
陽子が目を輝かせた。
「ねえねえ、雫ちゃん。お父さんにお願いして、この工場、見学させてもらえない?」
雫の表情から笑顔が消えた。
「……父は、亡くなりました」
「え?」
「先月、両親とも事故で亡くなったんです」
陽子の顔が固まった。
ソファの上であぐらをかいていた足を慌てて崩し、その場で正座する。
両手を膝につき、深々と頭を下げた。
「ごめん。本当にごめん。知らなくて」
「大丈夫です」
雫は小さく微笑んだ。
そして、壁のポスターを見上げる。
「父から聞いたことがあります。この水を作っているメーカーは、太平洋の孤島にあるって」
陽子がポスターを振り返った。
「孤島? こんな未来的な工場が?」
「私も詳しくは知りません。父の会社は販売しているだけで……製造元のことを聞いても、『自分は関与していない』って」
水輝は黙って話を聞いていた。
だが先ほどから、どうしても気になるものがある。
雫の首元で揺れているネックレスだ。
透明な、小瓶のようなペンダント。
中には、ごくわずかだが液体が入っている。
水輝の視線は、完全にそこへ吸い寄せられていた。
「あの……」
「はい?」
「実は僕、水が好きなんだよね」
雫が笑う。
「知ってます」
「ですよね」
水輝は少し照れた。
「もし差し支えなければ、そのネックレス……ちょっとだけ見せてもらえると、嬉しいな、なんて」
「いいですよ」
雫はためらうことなくネックレスを外し、水輝へ渡した。
「八歳の誕生日に、父からもらったものです。絶対に失くすなって言われていました」
水輝は両手で大事そうに受け取った。
透明なペンダントには小さな蓋があり、中の液体へ直接触れられる構造になっていた。
水輝の目が輝く。
陽子が横からその顔を見て、あきれた。
「お兄ちゃん、ペンダントに興味あるなら、かわいいネックレスを雫ちゃんにプレゼントしたら」
「うるさい。だまって。今、真剣なんだから」
水輝はリュックから携帯用の水質計を取り出した。
数値を確認する。
表情が変わった。
「これ……海洋深層水だ」
雫が首をかしげる。
「さっきのN-88と同じ?」
「近い。でも違う。こっちの方が成分濃度がずっと高い。商品化する前の原水に近いと思う」
さらにペンダントを裏返す。
細かな数字が刻まれていた。
八桁の数字。
そして、その下にもう二つの数値。
水輝は目を細めた。
「これ……緯度と経度じゃないかな」
スマートホンのマップへ数値を入力して検索する。
地図が移動していく。
日本列島から離れ、太平洋へ。
さらに東へ。
画面の中心で止まった。
三人がスマートフォンをのぞき込む。
そこは南鳥島から約六百キロ離れた太平洋上だった。
海しかない。
陽子が画面を拡大する。
さらに拡大。
もう一度。
「……何もないよ?」
「ないね」
水輝は画面を見つめたまま答えた。
島影ひとつない。
ふと、水輝は、以前見つけた都市伝説のブログを思い出した。
――太平洋上には、地図に載らない島がある。
思わず口から言葉が漏れる。
「もしかして……幻の島」
「え?」
雫が振り返る。
その横で陽子が楽しそうに言った。
「秘密の麻薬工場だったりして」
雫の顔色が変わる。
「父は、そんなことしません」
普段の穏やかな声ではなかった。
陽子の笑顔が消える。
雫は続けた。
「父は、いつも言っていました。世界には、安全な水も手に入らず貧困で苦しんでいる人がたくさんいる。その人たちを助けたいって」
拳をぎゅっと握る。
「私が子ども食堂で働いているのも、父の影響です」
陽子はしゅんとうつむいた。
ポニーテールが頬の横へ垂れ、顔を隠す。
「……ごめん」
小さな声で呟く。
「私、ほんと失言多いんだよね。だけど悪気はないんだ……ダメな子なんだよ」
「大丈夫です」
雫が言う。
今度は少しだけ笑っていた。
水輝は壁のポスターを見た。
手元のペンダントを見る。
そしてスマートフォンに表示された、何もない太平洋を見る。
水。
工場。
N-88。
座標。
もしかして、幻の島?
すべてが、繋がった気がした。
水輝は雫へ向き直った。
「雫さん」
「はい」
「もし、お父さんが殺された理由、お父さんの想いを知りたいなら……一度、この島に行き自分の目で確かめた方がいいかもしれない」
雫はしばらく黙っていた。
そして、立ち上がった。
「行きます」
迷いのない声だった。
水輝の胸も高鳴った。
地図に存在しない場所。
そこで採られた水。
水輝には、もう我慢できなかった。
「僕も一緒に行っていいですか?」
雫がうなずく。
一方、陽子の頭の中には、すでに別の景色が広がっていた。
青い海。
真っ白な砂浜。
南国の太陽。
パラソルの下で飲むアイスコーヒー。
陽子が、おそるおそる小さく手を挙げる。
「私も……いい?」
二人が振り返る。
「今度から発言には気をつけるから。それに島で、おいしいコーヒー淹れるよ」
少し間を置いて付け加える。
「……楽しそうだし」
雫が吹き出した。
そして陽子の手を握った。
「一緒に行きましょう」
「やったー!」
陽子が満面の笑みを浮かべる。
父の秘密を知りたい雫。
未知の水を確かめたい水輝。
南の島でコーヒーを飲みたい陽子。
目的は、見事なくらいバラバラだった。
それでも三人は、同じ場所を目指すことになった。
地図には存在しない島――N-88。
そのとき、水輝がもう一度ペンダントを裏返した。
「そういえば、この八桁の数字は何だろう?」
雫の目が大きくなった。
「あっ」
「何か心当たりが?」
「ケースです」
「ケース?」
「父から預かっていた大事なケースがあるんです。ロックの一つが八桁の暗証番号なんです」
雫はすぐに吉田へ電話をかけた。
事情を説明し、数字を伝える。
「試してみてもらえますか?」
電話を切った。
五分ほどして、折り返しの着信があった。
雫が通話ボタンを押す。
吉田の大きな声が聞こえてきた。
『開いたで! 暗証番号、正解や!よくやった!ごくろうさん』
雫の表情が明るくなる。
『それとな、雫ちゃん』
「はい?」
『その島、ワシも行くで』
「え?」
『海底資源の設備やったら、ワシにも多少は知識がある。そんな怪しい島に、若い子だけで行かせられるかいな』
「吉田さん……ありがとうございます」
雫は素直に頭を下げた。
電話越しなので見えるはずもないのだが。
その隣で、水輝は腕を組んでいた。
吉田の家で見せた雫を追い出そうとした裏の顔を、まだ忘れていない。
どうにも信用できない。
――ハゲ狸め。
こうして、三人は、地図にない島N-88への旅に向けて一歩踏み出した。




