第四話 ケースは二つあった
吉田夫妻の家は、部屋が六つもある大きな一軒家だった。
瓦屋根に深い軒。玄関を上がると長い廊下が奥まで伸び、その両側に襖で仕切られた和室が並んでいる。古い日本家屋ではあるが、隅々まで手入れが行き届いていた。
雫には、二階の客間が与えられた。
部屋に入ると、ベッドには真っ白なシーツが掛けられていた。タオルや歯ブラシだけでなく、着替えや女性用の日用品まで用意されている。
まるで、雫が来ることを事前に知っていたかのようで、違和感があったが
ようやく抜け出せた安堵の方が大きかった。
ベッドに腰掛けると、すぐにスマートフォンを取り出し、水輝へメッセージを送った。
「ありがとうございました。おかげで無事抜け出せました。タクシーは長蛇の列で乗れませんでしたが、偶然、知り合いに出会って、しばらく匿ってもらえることになりました。住所もお知らせしておきます」
すぐに、水輝から返信が届いた。
無事に抜け出せたこと。そして、助けてくれる人が現れたことに、水輝も安堵しているようだった。
翌日の夕食後。
雫がリビングでくつろいでいると、廊下から吉田の足音が近づいてきた。
「雫ちゃん、ちょっとええか」
吉田が手にしていたものを見て、雫は思わず立ち上がった。
手のひらほどの、ピンク色のケース。
「えっ……」
雫の目が大きく見開かれる。
「それ、お父さんから預かった私のケースです。ど、どうして吉田さんが?」
「ほんま、知らんのか?」
吉田は何でもないことのようにケースを持ち上げた。
「あんたのお父さんに頼まれて、ワシも預かってたんや」
「でも……これ、私が父から預かっていたものです」
吉田は一瞬きょとんとしたあと、ケタケタと笑った。
「同じケースが二つあったの、知らんかったんか。一つは雫ちゃんに、一つはワシに。万が一に備えてやろ」
「二つ……?」
そんな話は、父から一度も聞いたことがない。
雫の胸に、また一つ、小さな違和感が積み上がった。
けれど、自分を助けてくれた人を疑うのはよくない。
そう思い直し、雫はそれ以上聞かなかった。
吉田はソファに腰を下ろすと、ケースをテーブルの中央に置いた。
「中、見たことあるかい?」
「ないです」
「ほんまか?」
吉田はケースを指先で軽く叩いた。
「お父さんは亡くなってしもうたんやから、遺書とか入ってるかもしれへんぞ」
雫はケースを見つめた。
「遺書……」
「せや。せっかくやから、二人で確認してみようや」
吉田はケースを雫の前へ滑らせた。
「これ、雫ちゃんの生体認証が必要みたいや。開けてみてくれへんか」
「分かりました。やってみます」
雫は父から、中身は仕事関係のものだと聞かされていた。
だから興味を持ったこともなければ、開けようと思ったこともない。
ただ一つ、父から聞かされていたことがある。
ケースには、四重のロックが掛けられている。
雫はケースのセンサーに指を置いた。
短い電子音。
――指紋認証、成功。
小さなランプが一つ点灯した。
「おお」
吉田が身を乗り出す。
続いて網膜認証。
雫が小さなレンズを覗き込む。
しかし、何度試しても反応しない。
「ダメみたいです」
さらに声紋認証を試そうとしたが、登録された合言葉が分からない。
最後に要求されたのは、八桁の暗証番号だった。
もちろん、それも知らなかった。
吉田はしばらく黙ってその様子を見つめていたが、やがていつもの笑顔に戻った。
「こりゃ、あかんな」
ケースを手に取る。
「今日は疲れたやろ。続きは明日にしよか」
「あ、はい」
吉田はさっと立ち上がると、ケースを両手で抱えてリビングを出ていった。
廊下を歩き、角を曲がる。
そして、自室の扉を閉めた。
――その瞬間。
吉田の顔から笑みが消えた。
机まで歩くと、ケースを乱暴に叩きつける。
ガンッ。
鈍い金属音が、静かな部屋に響いた。
「あかん、あかん。指紋しか通らへんやないか」
妻が慌てて人差し指を口元へ立てた。
「ちょっと。雫ちゃんに聞こえるわよ」
吉田は舌打ちした。
「開けられへんかったら、わざわざ連れてきて、ただ飯食わせる意味がないやろ」
低い声が、部屋に落ちた。
実は吉田は、事故の夜、雫の父・正太郎の車を尾行していたのだ。
正太郎から以前、社会を変えるほどの企業秘密をケースに入れ、娘の雫に常に携帯させていると聞いていたからだ。
その話を聞いたときから、吉田はケースに金の匂いを感じていた。
そして、あの夜。
正太郎の車が道路を外れ、川へ転落した。
吉田は後方で車を止めた。
暗闇の中、川底から炎が上がり始める。
だが、吉田は救急車も警察も呼ばずに、
河岸を駆け下りた。
川辺には、車外へ投げ出された雫が倒れていた。
意識を失っていた雫を放置し、燃え始めた車内からこっそりケースを持ち出したのだ。
吉田はそれを抱え、闇の中へ消えた。
その事実を、雫は知らない。
当然、ケースが二つあるという話も真っ赤な嘘だった。
それから数日間、吉田と雫はケースの解錠を何度も試した。
昼間の吉田は、優しかった。
「焦らんでええ。ゆっくり思い出したらええんや」
そう言って笑う。
だが夜になると、自室から金属を叩く音が聞こえた。
ガン。
ガン。
ガリッ――。
吉田はドライバーやペンチ、工具を持ち出し、力ずくでケースをこじ開けようとしていた。
しかし、どれだけ試しても、ケースには傷一つつかなかった。
一週間後の午後。
水輝が吉田家を訪ねてきた。
「水輝くん、遠慮せんと食べや!」
夕食には、吉田がデリバリーで注文した大量の串カツがテーブルいっぱいに並んだ。
肉、レンコン、玉ねぎ、エビ、紅生姜。
四人で囲む食卓はにぎやかだった。
「これ、うまいですね」
「せやろ? 大阪いうたら串カツや!」
吉田が豪快に笑う。
ただ、雫が大好物だと話していたうずらの卵だけは、一本も入っておらず、その代わりに苦手な紅生姜が大量に入っていた。
雫は少しだけ残念に思った。
けれど、すぐに自分を戒めた。
――きっと、たまたま売り切れていたんだ。
助けてもらっている身で、そんなことで不満を言うのはわがままだ。
そう思い、何も言わなかった。
考えてみれば、この家へ来た最初の日は、雫は「客」だった。
それが日を追うごとに変わっていった。
「雫ちゃん、悪いけど洗濯物お願い」
「はーい」
「終わったら掃除機もかけてもらえる?」
「分かりました」
「今日の晩ご飯、作ってくれる?」
「はい」
掃除、洗濯、料理。
朝から晩まで、吉田の妻に頼まれる仕事は増えていった。
いつの間にか雫は、客というより、女中のようになっていた。
それでも雫にとっては、苦痛ではなかった。
むしろ何もしないで世話になっている方が落ち着かない。
自分を匿ってくれている。
自分を助けてくれた。
その恩を感じていたので、働いている方が精神的には楽だった。
夕方。
水輝が帰ろうと玄関へ向かうと、吉田が後ろからついてきた。
玄関に向かう水輝のそばへ寄り、声を落とす。
「なあ、水輝くん」
「はい?」
吉田はリビングの方をちらりと見てから、耳打ちした。
「雫ちゃん、やっぱり水輝くんと一緒の方が楽しいやろ。水輝くん、連れて帰ったらどうだ?」
水輝は手を止めた。
「僕の部屋だと、すぐ政府の人に見つかっちゃうので、難しいかと」
「家族とか親戚とか、友達は?」
「オタクなので、お願いできる友達はいません。東京に住んでいる家族は妹だけです」
吉田の眉がぴくりと動いた。
「お、妹さんおるんか」
急に声が明るくなる。
「それやったら、若い女同士、そこがええんちゃうか」
「妹のところですか?」
「そうそう。それがええ。それが一番ええわ」
口調はあくまで穏やかだった。
だが、水輝は吉田の顔をじっと見た。
雫に、家から出ていってほしい。
そんな気持ちが透けて見えた。
「……分かりました。妹に電話して相談してみます」
結局、水輝にはほかに選択肢がなかった。
妹を半ば強引に説き伏せた末、雫を連れていくことになった。
荷物をまとめた雫は、玄関へ向かう前に吉田へ声をかけた。
「あの……吉田さん。本当にいろいろありがとうございました」
「礼などいらんよ。ワシ、あんたのお父さんにいろいろ世話になったから」
「ところで、ケース、返してもらってもいいですか?」
一瞬だけ、吉田の表情が止まった。
だが、すぐにいつもの笑顔になる。
「ああ、あれか」
「はい。私が預かったケースは無くなったしまったので」
吉田は首を横に振った。
「大事なもんやろ。せやからこそ、またなくしたら大変や」
「でも……」
「おっちゃんが預かっといたる」
吉田は笑顔のまま続けた。
「お父さんにも頼まれたからな」
雫はしばらく黙っていた。
「……分かりました」
「必要になったら、いつでも取りにおいで」
結局、吉田はケースを返さなかった。
雫は何度も頭を下げ、水輝とともに吉田家を出た。
門を出ると、夕方の風が頬を撫でた。
二人はそのまま、水輝の妹が暮らす家へ向かった。
ピンク色のケースを、吉田の家に残したまま。




